その11
ニーさんの株価は、一体何処まで下がるのだろうか……
◇
海の底へと沈む大陸。巨大な津波にあらゆる全てが押し流されて、海面を巨大な魚竜が蛇行する。
リヴァイアサンは強大だ。大魔獣とは天変地異にも等しい存在で、狂った魔女が動かずとも、大陸の一つ程度は容易く滅ぼせてしまう様な怪異である。
魚竜は恐ろしく強大で、虚偽の魔女はそれに輪を掛け手に負えない。だが敵の脅威度など、この今に然したる意味を持ちはしない。
そも、それ以前の話。全てが津波に押し流されて、大陸自体が海の底に沈んでいくのだ。水の中には空気がなく、呼吸が出来る訳もない。ならば当然、結末はとても分かりやすい。
無数の国を滅ぼす魔獣も、星を容易く作り変えてしまう大魔女も、全てが過剰で必要ない。此処に今を生きる人々は皆須らく、窒息からの溺死を迎えて海の藻屑となる他道がないのだから。
「させちゃ、いけない」
溶けたビルの隙間から入り込んだ海水に流されて、咄嗟に意識を失くした想い人を抱き締めたキャロ。蒼き髪の少女は、海に飲まれながらに叫びを上げる。
このままでは、人が死ぬ。とても多くの人が死ぬ。何一つとして出来ないままに、全てが海の底へと飲まれる。それを望まぬと言うのなら、何かが出来るのは今だけだ。
そして、キャロの手にはそれがある。それを確かと示すかの如く、少女の髪が蒼く輝く。その瞳が深い蒼一色に染まって、激流は速度を失い緩やかな波へと変わった。
小さな少女の周囲だけ。手を伸ばせば届く領域にある水だけが、まるで切り取られたかの如くに穏やかな小波へ。ふわりと浮かび上がったキャロは当たり前の様に、静けさを取り戻した水面の上に立つ。
今も流れ込み溢れる津波は、されどごく平凡な海水でしかなかった。この水は穢れていないから、此処には星の息吹が満ちている。
第三の魔王は、大陸から地の高さを奪っただけだ。窪地に変わった大陸へ、周囲の海から水が入り込んでいるだけなのだと。ならばこの水は、貴種たる蒼の味方と成るのだ。
星の命は人の味方だ。母なる海には多くの命が満ちていて、ならば祈りは力となろう。この水はキャロを傷付けない。少女が望めばこれこの通り、星を満たす水は彼女を助け守るであろう。
「これじゃ、いけない」
だが、それでは足りない。これだけでは足りていない。手の届く範囲は穏やかさを取り戻していようとも、その向こう側はまだ人を飲み干す激流だ。
如何にキャロが水の全権支配者より代行権を預かる貴種であっても、唯単純に規模が大き過ぎる。少女の小さな身体に宿る力だけでは、己と少年を守るだけで限界なのだ。
無数に詠唱を重ねれば、今少しは救えるだろうか。仮に己の命を賭ければ、もう少しも救える者が増えるであろうか。だが、そんな選択肢は選べない。
見知らぬ誰かの為に、己の命を捧げようと言う。そんな自己犠牲なんて望んでいない。己の幸福の方が優先と、そんな想いは当たり前。譲れて精々、目に映る人々に精霊術を掛けて回る程度のことだけ。それでは結局、多くの者が命を落とそう。
しかしキャロは、自分とその周りだけ幸福ならばそれで良いと開き直れる程に冷たくはなれない。此処で何もしなければ、きっとずっと後悔する。
だけどキャロでは、彼女一人では腕に抱いた熱を守るだけで限界だ。此処で限界を超えたとして、掴む命がほんの少しと増える程度。だから彼女は、此処で彼へと呼び掛けた。
「兄さん!」
水面に立ち叫ぶ。目を向けた先に居た人は、この状況でも動いている。大きめの瓦礫を足場に跳び回り、意識を失くした部下達を瓦礫の上へと引き上げている。
激流に流されて、明確な隙が出来ていた。そんなキャロを狙わずに、身内を救うことを優先した。それは確かな甘さであるが、そんな甘い人物だからこそ協力出来る。
そうとも、状況は変わった。人と人とが望んだ未来の差異故に意地をぶつけ合う戦いから、生きとし生けるモノ全てにとっての天敵である魔との戦いへと。
そうとも、このまま意地を通して争い続けていれば全てが台無しになってしまう。人としての本能レベルでそう感じる脅威が其処に迫っているから、反目する者同士であっても手を取り合える。
少なくとも、キャロはそう信じた。そうでなければ、彼女では多くを救うことなど出来ぬから。彼女だけでは多くの命が零れるから。人を救うその姿に、期待を抱くことが出来たから――手を取り合えると思えたのだ。
「水の秘宝は! 海を統べるモノは何処にありますか!?」
其は四大の至宝が一つ。南に座した大地の王が、悪を封じる為に作り上げた戦矛。其れと同じく、水の王が作り上げたのは海を統べる三叉槍。
レーヴェの血族に受け継がれ、嘗てはその総本山にて祀られていた水の槍。此処に在ると言う保証は一つもなかったが、キャロは此処に在ると確信していた。
如何に太母を嫌い憎む曇った眼であったとしても、それを見紛うことなどありえまい。悪竜の頭蓋を砕ける程に強力な戦矛と、同等な至宝こそが“荒れ狂う海を統べる三叉槍”。
手にした者は、星の触覚と化した精霊王に等しき絶対の権限を手に入れる。海においての全能を、所有者に与える秘宝。それ程に強大な宝物を己の感情だけで捨て去る程に、この男は愚かではない。だからこそ、此処に在ると確信するのだ。
「……知っていたとして、私が君に教えると?」
「貴方の語る言葉の全てが、嘘偽りではないのなら――必ず教えてくれると、信じます!」
つい先程まで敵対していた男に何を言うのかと、そんなディエゴは続くキャロの言葉に刮目した。
西を救うと語った男に、彼女はこう語っているのだ。今こそが、西を救う時であろうと。この今に己の利益を優先して、破滅を齎すなど在り得ぬだろうと。
そうとも、それが大言壮語ではないと言うのなら、此処で少女に伝える事こそ唯一解。西を守ると言う大目標に辿り着く為、最も合理的な道であろう。
カロリーネと言う少女が、彼の槍を手にすればどうなるか。優れた頭脳でそれを完全に推察して、そしてディエゴは首を振る。それでは足りぬと、彼は気付いた。
「……だが、不可能だ。例え我が一族に伝わる四宝の一つを使おうとも、単純に規模が広過ぎる。君が命を捨てたとしても、さてどの程度の効果があるか」
海を統べる槍を水に愛された貴種が使えば、確かに周囲の海水全てを操れる。この水を引かせて、この大地を浮上させ、町の一つを守り通す程度は出来るだろう。
だがしかし、彼はその陥穽に気付いている。どれ程精霊に愛されようと、人の身ではその全てを活かせないと言うことを。彼女の小さな身体が枷となり、発する力は町一つで留まってしまう。
単純に、発動者の強度が足りていない。集めた力を己の身体で受け止めて、発すると言う精霊術に必要となるその工程。その際に集まる力が大き過ぎ、彼女の器が耐えられないのだ。
器が耐えられる規模での行使では、余りに範囲が足りていない。器が自壊する程に力を集めたとして、それでもやはり大陸一つは大き過ぎる。だから無理だと、ディエゴは静かに結論付けた。
「死ぬ気は、ありません。けど、諦める気もありません!」
水に濡れて語るスーツの男を見上げて、触れる水気を光と変えながら近付く少女は答える。死ぬ気はない。自壊する気などはない。
海の上から瓦礫の上へと、愛しい少年を横たえる。疲れ果てて眠る姿を見詰めて、強く強く想いを抱く。求めたのは唯、彼と共に過ごす未来。この先にある明日であるから。
けれど、だからと言って諦める心算はないのだと。そうとも、諦めてしまえば辿り着けない。求めたのは唯、この窮地の先に広がっているであろう明日であるのだから。
「海を制する程の力を、大陸規模で使うなんて出来ない。だけど、水の中でも生きられる様に、僅かな加護ならきっと!」
だからカロリーネは語る。男に近付きながらに語る。大陸から海を引かせる程に、力を使えば耐えられない。だと言うのなら、放出する力を減らせば良い。
海を退けることが出来ないのなら、皆が海に飲まれても生きていられる様に。この一時に水の加護を。この大陸の民全てに掛ける。その程度ならば出来るだろうと。
「……だとしても、不可能だ。水中での呼吸と、水圧への耐性。温度変化への対応と、最低でも一人に付き三種類の精霊術を掛ける必要がある。西の総人口が一体どれ程か、君は知っているのか。カロリーネ」
だがやはり不可能だ。出力面では可能でも、今度は手数が足りていない。一体どれ程の人間に、精霊術を使う必要が出て来るか。
千や万では済まない数を、その三倍と言う数を、重ねる必要性がある。故にカロリーネ一人では手が足りない。そんなこと、キャロは既に分かっている。だから――
「だから、貴方に頼んでいるんです! ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェ! 限りなく貴種に近い、蒼き精霊の一族に!!」
「私に、だと」
「私と貴方が、共にトリアイナを使う。そうすれば、西の民全てに三種程度の加護を齎すことなら可能な筈です!!」
瓦礫の上で驚愕する、兄に向かって言葉を紡ぐ。そうとも、キャロに次ぐ資質を持つ者は此処に居るのだ。ならば彼の手を借りればと、そう考えるのは自然の帰結。
一人では耐えられない出力も、一人では間に合わない時間も、二人でならばきっと届く。いいや届かせなくてはならないのだ。それこそがきっと、レーヴェが果たさなくてはならない責務。
「私一人では全てを拾うことは出来なくて、至宝に頼って、為すことを切り詰めても足りていなくて――けど、貴方も共に祈ればきっとっ!」
瓦礫の上に立つ少女と青年。その僅かな差は、二人の心の距離の差であるか。だとしても、この今に願う形は同じであると信じている。
巨大な魔物に打ち砕かれて、終わるなんて誰も望んではいないのだと。この脅威を乗り越えたその先に、目指す理想はあるのだと。だから少女は歩み寄り、その手を兄に向かって伸ばした。
だが、兄はその手を握らない。彼の身体は小刻みに震えて、掴み返すことなど出来やしなかったのだ。
「……だが、私には無理だよ。カロリーネ」
「貴方と言う人はっ! 西を救いたいんじゃないんですかっ!!」
「違う。そうじゃないんだ。……私には、精霊術が使えない。四宝に触れても、何も出来はしないんだ」
ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェ。水に連なる一族に生まれて、貴種に次ぐ血の濃さを持つ男。彼には、精霊術が使えない。
部族の末でしかないミュシャなどよりも遥かに上の適正を、生まれながらに持っていた筈の男。そんな彼は今、精霊を感じる事が出来なくなっていた。
「あの日からそうだ。私には、精霊の存在が感じ取れない。その声が、もう聞こえないんだ」
生まれながらにして、そうだった訳ではない。幼い頃は今のキャロ程ではなくとも、並ぶ者がない程の力をその身に有していた。
赤子の頃から見える世界に、精霊が満ちていることは当たり前の事でしかなかった。その当たり前が無くなったのは、最初の友を失くした彼の日だ。
それ以来、ディエゴは一度も精霊を目にする事が出来ていない。その声は届かず、届いたとしても聞いてはくれないだろう。そう思える程の業を、彼は重ねて来たのだから。
「水は私を、憎んでいるんだろうね。きっと私は、この世界に疎まれている。そうなるだけの業があって、そうなることこそ報いであったと言う訳だろうさ」
罪の贖いを求めて、己の終わる時を求めて、唯只管に駆け続けた。その果てに夢は小さな形を成して、けれどそんな砂上の楼閣は荒海の飛沫に流れてしまった。
罪の贖いを求めて、己が終わって良い時を求めて、更なる罪を重ねてしまった。血を分けた者らをその手に掛けて、太母を恨み憎み弑逆せんと邁進し続けることしか出来なかった。
この道を、悔やんでいる。この身には、後悔しかなかった。それでも、だからこそ、今はまだ止まれない。そんな男を、受け入れる世界などはない。
他でもない、ディエゴ自身がそう思う。己に行くべき場所などないし、居て良い場所などあってはならない。そんな風に思っている男だからこそ――その小さな掌が齎す痛みは、酷く響いたのだ。
「ふざけるな! ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェ!」
乾いた音と共に、小さな少女の怒声と共に、男の頬に痛みが走る。手を掴む為に伸ばした腕で、少女は男の頬を張っていた。
「世界を拒絶しているのは、貴方の方でしょう! 結局、貴方自身の問題だ!!」
叩いた掌に痛みを感じて、それでもキャロは口にする。彼女には見えているから、男の周囲に今も浮かぶ淡い水の輝きが。
其処に恨みなどはない。其処に怒りなどはない。星の欠片である小さき光に、あるのは慈愛の色だけだ。彼らは今も、この男を案じている。
大丈夫? 泣かないで? そう囁いている水の欠片を、男が拒絶しているのだ。彼が目と耳を塞いでいるから、世界に愛されていることに気付けていない。
「その心が疎ましいと思っているから、もう何も見ていたくはないから、与えられる愛を拒絶しているだけでしょう!!」
彼らは怒らない。母なる海は許している。だからこそ、キャロが代わりに怒りを叫ぼう。この愚かな兄に対し、それを確かに伝えよう。
母なる海は、己の内から産まれた者らを拒絶しない。例え何をされようと、例え如何なる破滅を迎えたとしても、その最期の時まで愛し続ける。
そうとも、母とはそういう者である。例え人と言う種が森を絶やし、海を干上がらせ、発展に伴う公害で全てを砂漠に変えてしまったのだとしても、星と言う名の母は決して拒絶しない。
人と言う生き物は、己の内に生まれた子であるから。例え親殺しを成そうと言う子であったとしても、愛おしいから抱き締めるのだ。果てに破滅が待とうとも、それが大いなる母の愛である。
「……カロリーネ。君が想う程、世界と言うのは綺麗じゃないよ」
「ディエゴ兄さん! 貴方が想う程、世界と言うのは汚いだけじゃない筈です!」
「だが、しかし――」
「そんな言い訳を、一体何時まで続ける気ですか! 貴方は、西を救うんでしょう!!」
世界とは、綺麗なだけの物ではないのかも知れない。だとしても、世界とはきっと汚いだけの物ではない。
ディエゴは汚い物を多く見た。カロリーネはまだ多くを見て来た訳ではない。それでも、彼ら兄妹はまだ若く幼い。全てを知る訳ではないのだから、結論なんて今は出せない。
だから、重要なのはそういう事ではないのだろう。この今に何を為すのか、何を成そうとするのか。唯それだけで、だからこそ少女はもう一度張り手を飛ばした。
「国とは民です! 国家とは、其処に生きる人が居て初めて成立するもの! ならば貴方が救うべきなのは、此処に今を生きる人なのでしょうっ!!」
西を救うと嘯く兄に、ならば救ってみせろと強く言う。二度の張り手に目を丸くする彼の首を両手で掴んで、その目を睨んで強く叫んだ。
「歯を食い縛りなさい! 目を見開いて確かに見なさい! 諦めるより前に動きなさい! そうすれば救えるかも知れない物があるのに――貴方は何時まで、目を逸らし続けて逃げる気だ!!」
そうとも、西を救うと嘯いたのだろう。それが己の生きていて良い価値だと、貴方はそう決めたのだろう。ならば成せないと諦めるより前に、動く事を止めてはならない。
考えることは大切だけど、考えるだけではいけないのだ。先ず動かなくては、結局何処へも進めない。最初の一歩を踏み出さなくては、何処に行くことだって出来やしない。
その一歩を踏み出せたのならば、もしかしたら辿り着ける場所はある。その一歩先にある光景は、今とは違う色なのだから。
「……このビルの、最上階だ」
水が流れ込み続ける建物の中、ディエゴは天井を見上げて小さく呟く。其れは彼が回収していた、一族の至宝が保管されている場所。
「私室の壁に、飾られている。何時か何かに、使えるかもとね」
「兄さん!」
この天井の先の先、一番上にそれはある。荒れ狂う海を統べると言われる、四宝の一つは今も其処に眠っている。
その場所を教えることの意味が、分からない筈もない。歓喜を顔に浮かべた妹に、兄は苦笑交じりに弱音を呟いた。
「だが、出来る保証はないよ。私にも、自信はない。それでも、かい?」
「それでも、共に来て貰います! 出来ないかも知れないけど、出来るかも知れないんだから!!」
まだ水に愛されていると、そんな言葉に実感は湧かない。今も水に宿った小さな声は聞こえず、いざ本番で都合良く行くなど思えない。
けれど、それ以外に道は浮かばない。考えても考えても、より良い案など分からない。だから今は切り捨てた筈の少女と共に、進んでみようと思えたのだ。
「ああ、分かったよ。今は君に従おう。……彼の魔獣と魔女を退けるまでは、一時休戦と行こうか。カロリーネ」
これは所詮、一時的な休戦だ。己はまだ負けた訳ではなくて、西を最終的に救う為に必要なのは冷徹な頭脳による完全支配だと今も思っている。
だからこの一時が過ぎ去れば、己はまたこの子を傷付けるのだろう。この小さな掌をまた切り捨てるのだと、そう想いながらに握り返す。触れ合う熱を、今だけは共に感じていた。
〇おまけ「もしも今話のニーさんが、真ニーさんだったら」
キャロ「水の秘宝は何処にありますか!?」
真兄「はっ!? そうか、それがあったか! 任せろカロリーネ!!」
キャロ「ニーサン!?」
真兄「人の王は必ずや敵を討つだろう! ならばその時まで、民を守るが我が使命! 海の底に沈んだ大地を浮かべるくらい、成してみせろやレーヴェの血よォォォォォォッッ!!」
キャロ「二、ニーサァァァァァンッッ!?」
※もしも真ニーさんなら、キャロちゃんが命を賭けても出来ない大陸浮上に躊躇うことなく挑戦する。そして瀕死になりながらも成し遂げる。
(キャロに出来ない理由は肉体強度の問題で、ディエゴ兄さんが全力で鍛え上げるとそれがギリ出来るスペックになる。因みに真ニーさんは熱血キャラなので、勝率とか考えないで挑戦する人である)
けど真ニーさんなら、無駄に一族虐殺とかしないからキャロも家出しない。なのでそもそも、このルートには至らない模様。