その3
◇
仲間を一人置き去りにして、少女二人は前へと進む。その歩みに迷いはない。躊躇う故など何もなく、ならば前へと駆けるだけ。
廃坑道の中間地点、物資の集積所は抜けた。先に広がる岩の道を走り抜け、昇降機を一つと降りて、再び道沿いに進んで行く。果てに見えるは大きな扉。
「エレノア」
「応」
分かっているなと、見詰める瞳に頷き返す。此処を抜ければ敵地の深奥、ノルテ・レーヴェの中心へと躍り出る。
先の集積所に白貌が潜んでいたことから分かる様に、既にこちらの動きは読まれている。故に間違いなくこの先には、もう一人が待つのであろう。
此処を出たら、その瞬間にも何かが起きる。だから覚悟は良いかと、そんな問いを掛ける心算は欠片もない。
この坑道に踏み込んだ時には既に意志を定めていて、故にこれは唯の合図だ。共に歩を緩めることすらせず、扉の先へと跳び出した。
瞬間、景色が切り替わる。其処は摩天楼の如き高層ビルが立ち並ぶ都市の景観ではなく、余りに醜く汚く汚物の腐った臭いに満ちた異界であった。
「酷いわねぇ。酷いのねぇん。猫ちゃんってば、冷酷非情で冷酷無比。仲間であろうと目的の為なら、容赦なく使い潰しちゃう」
ぐちゃりと、踏みしめた足下から響く音。靴越しにも染み込んでくる、生暖かい肉塊が飛び散る感触。蠢く壁を例えるならば、生きたまま解体された人の中身だ。
そうと感じた直後、叡智の瞳を此処に閉じる。目を逸らした訳ではない。そうしたいと感じる怖気も確かにあるが、それ以上に重要なのは力の温存。これはこれ以上、視る必要がない物だ。
所詮は既に終わった犠牲者達。生かされたまま加工されている残骸に、祈りを捧げる余裕はない。呪術師が作った陣地よりも、嘲笑を浮かべているその主へと意識を向けるべきなのだから。
「あの子ってば、可哀そう。一度魔に堕ちれば、もう戻れない。ミュシャちゃんの口車に乗せられて、人間止めちゃうなんて。お馬鹿に過ぎて、哀れみの情でお腹が捩れちゃいそう」
どろりと今にも溶け出しそうな、腐って濁った魚の目。そんな想像を彷彿とさせる瞳で、人として終わってしまっている女が見下ろす。
申し訳程度に秘部を隠した露出の激しい装束を身に纏った美女はしかし、艶美さや卑猥さなどよりも強く激しく薄気味悪さを感じさせる。
呪術師アマラ。灰被り姫の片腕にして、飼われる狗の唯一匹。宙に浮かんで嘲笑を浮かべて、ふわりふわりにやりにたりと。余りに残酷な所業であると嗤っている。
「……」
「ねぇ、何か言ったらどう? 仕方がなかった、とかぁ。他にどうすれば良かったの、とかぁ。個人的にはぁ、惚れた男の為だからぁとか言ってくれると共感出来てMeraviglioso!」
褐色の魔法使いを視界に捉えたまま、目線を軽く動かしながらに思考する。傍らを駆けていた友は此処に居ない。
異界に飲まれたか、それとも何処かへ飛ばされたのか。己の知識と照らし合わせて、前者は先ず在り得ないと断じる。
界の創造は高位の技術だ。一つの世界を形作ると言うことは、非常に難しい魔法である。精霊王や魔王と言った、超越者の類に許された秘術なのだ。
呪術師アマラ程の魔法使いならば不可能ではないのだろうが、それでも無詠唱で出来ることとは思えない。予め仕込んでいたのならエレノアも巻き込まれている筈で、ならば結論は唯の一つ。
扉を出た瞬間に、ミュシャが転移させられたのだ。此処が何処かは分からないが、アマラにとって都合が良い場所に違いはあるまい。
故に現状は甚だ不利だ。気を纏って抵抗力を高めていた状態でも強制的に転移させられた程に実力差がある相手と、相手が一方的に優位となる場所で争わねばならないのだから。
「けど残念。リオンは全部お見通し。あの子がルシオと戦う為に取った手段が想定通りなら、此処に貴女達が来るのも予定の内。なら結果も当然、彼の勝利に決まってる」
「…………」
魔法使いにとって、最大の優位を発揮できる場所。魔法戦士ではなく、純粋な研究職としての魔法使いならば答えは明白。
陣地。そう呼ばれる施設。奥に潜めた研究成果を守る為に、外的排除の手段が多くある。数えきれない程の罠が、仕込まれているのであろう。
魔法使いと争うならば、陣地の外に出さねばならない。魔法使いと争うならば、中途半端に追い詰めてはならない。
陣地で戦うと言うことは、既に食われて腹の中で溶かされるのを待つだけの状態と同じであるから。中途半端に追い詰めてしまえば、彼ら彼女らは自ら魔へと堕ちるから。
そんな魔法使い相手の定石。絶対にやってはならないと言う二つの内一つが、最初から崩されていると言う窮地。
それを確かに理解しながら、機嫌を損ねたら殺されると言う状況を分かっていながら、それでもミュシャは口を閉じたまま。アマラから目を逸らさずに、思考だけを高速で回転させ続けていた。
「ねぇねぇ、ねぇねぇ、ねぇってばぁ。今どんな気持ち? 仲間と自分を捨て駒にしてまで一騎打ちに持ち込んでみたけどぉ、それすら掌の上でしたって知ってさぁ。今どんな気持ちにゃ~のかな~?」
嘲笑に対し無言を貫く。そんな気丈に見える対応ですら、圧倒的な優位に立って見れば儚い物だ。吹けば飛ぶような状況で、必死に己を保つ姿は愛らしい。
愛らし過ぎて、思わずぷちりと潰したくなる程に。だが直ぐに壊せるからこそ、直ぐ壊すのは勿体無いと。ふわふわふわりにやにやにたり、アマラは今を愉しんでいる。
故に、此処までが想定通り。時間稼ぎと言う役割を果たすなら、これが最も安全に為せる最適解。最初に無言で通せば数分は稼げるのだと、その目は確かに視抜いていた。
「……二つ程、訂正しておくにゃ」
「はいぃ?」
だが、何時までも無言で通せる筈がない。何の反応も示さぬ玩具を前にして何時までも我慢している様な、アマラはそんな女じゃない。黙っているだけではそう遠くない内に、嬲り殺しにされるだけであろう。
故にアマラがギリギリ愉しんでいられる限界まで無言を貫き、その後に口を開く。それこそ最高効率だ。最初に視て見抜いていた通りの時間。ミリ秒単位のズレもなく、確かに口にした言葉。其処に返る答えなど、昨夜の時点で知っていた。
「せっしーは捨て駒じゃにゃい。完全に堕ちてしまう前なら、戻る手段は幾つかあるにゃ。……あの子なら敵を倒した上で、戻って来れると信じてる」
「……ふ~ん。世迷言にしか思えないけどぉん。それが一つなら、もう一つは?」
魔物化と言う外道の手段。セシリオがルシオに勝る方法はそれしかなかった。けれどそれを使ったからと、必ず破滅するとは決まっていない。
本来ならば、人として終わるしかない方法。それでも今ならば、対抗策は幾つも浮かぶ。完全に堕ちてしまう前ならば、セシリオは人に戻れるだろう。
例えば精霊の力での浄化。瘴気に犯され変じた魔物であっても、精霊石で浄化すれば生の食材として使える様に。精神以外は元に戻せる。
或いは内なる魔力の安定化。最南端の騎士シャルロットがヒビキの助けで成った様に、自我ある魔物に成ることも不可能ではない。心さえ、維持出来たのならば。
そしてその心、精神面はとても強い。十にも満たない子どもとは思えぬ程に、仲間達の中でも一番強い意志を持っている。
だから、セシリオならきっと大丈夫。戻って来れると信じている。故に捨て駒などではないと、断じるミュシャに返るのは呪術師の冷ややかな視線だ。
そんな想い一つで如何にか出来ると言うのなら、堕ちる魔法使いなど居はしなかったであろうと。
魔導の道を行く者は誰だって、胸に定めて進んだ筈だ。唯力が欲しいだけならば、魔法なんて選ばない。どうしても為したいことがあるからこそ、魔法使いに成るのだろう。
少なくとも、アマラもきっとそうだった筈だ。今では初心など思い出せない程に穢れてしまって、それでも何とはなしにそう抱く。
だから冷ややかな言葉を口にしながら、無関心を装ってもう一つを問うた。さざ波の様に揺れ始めた己の心に気付かぬまま、そんなアマラの姿にミュシャは笑った。
「にゃに、簡単な話にゃよ」
上手く行っている。腕の一振りは愚か、言葉を一つ口にするだけで終わる戦力差。それを覆す策の一つは、予定の通りに回っているのだ。
「捨て駒じゃないのは、せっしーだけじゃない。切り札なのは、エレノアだけじゃにゃい」
「どういう意味よ」
「読まれることは、読み通り。だから、こうなることこそ、ミュシャの想定通り!」
「だから、もっと分かりやすく言いなさいって言ってるじゃないッ!」
何が琴線に触れたのか。何もかもが琴線に触れているのか。こうすれば腹立ち怒ると言う地雷の山を、片っ端から踏み抜いていく。
苛立ちを叫びながらにアマラは腕を振るって、肉の壁が蠢きながら襲い掛かる。先端が槍の穂先の如くに伸びて、鋭い肉塊は少女の血肉を貫く様に――――当たらない。
怒りを掻き立てられて冷静ではいられなくなりながらも、心の片隅で相手の言葉が気になっている。
だから一息で殺してしまわぬ様にと、その動きは鈍っているのだ。その上何処に来るのか分かっていれば、躱せない筈がなかった。
「ご希望通り、単刀直入に宣言するにゃ! 呪術師アマラ。ミュシャがお前を、ぶちのめす!!」
次から次へと襲い来る肉の槍を躱しながら、安全地帯を転々と跳ぶ。常に当たらない場所などないが、この時この一瞬に当たらぬ場所なら確かにある。
それら全てを予め視て、それら全てを記憶していた。だから既に知っていた通りに言葉を語り身体を動かせば、あらゆる事象は既に知っていた通りに移行する。
一秒どころかミリ秒以下のズレすら許されない綱渡り。それを確かに渡り切って、ミュシャは指差しながらに断言した。
「貴女が? この私を? ふふ、あはは――そんなの、出来る訳ないじゃない!」
その現象、傍から見ていて実に不自然な推移である。何故か都合良く当たらない場所に居ると言う、そんな偶然が何度も何度も続くのだから。
ミュシャの心威を知っていれば、其処にその未来視が関わっていることを推測するのは実に容易い。なればこそ、呪術師アマラは不可能だと嗤ってみせる。
望んだ物を見付け出すと言うその力が、一体どれ程の先を視通せるのかは分からない。それでも、全知には成れない筈だ。もしそうならば、リントシダーでの一件が説明付かない。
故にこそ、その現象は有限の物。その偶然は在庫の少ない使い捨ての奇跡。冷静になって詰めていけば負ける要素などないのだと、勝る要素などないのだと――――そんなこと、どちらも共に知っている。
「身の程を知れ。下等な亜人種。我は呪術師、西方において並ぶ者なしと謳われた魔導の到達者」
「んでもって過ぎた才故に爪弾きにされて世捨て人を気取ってた所、美人の甘い言葉と技術に篭絡されたんにゃよね」
故に勝機は其処に。冷静に成られたら詰将棋にしかならぬなら、冷静では在れぬ様にその内面を荒らせば良い。
これより為すのは、先より難度が高い綱渡り。ミリ秒以下のズレすら許されぬ未来を確かになぞってみせて、数え切れない程の偶然の果ての勝利を目指す。
そうとも、確かに在るのだ。コンマ以下にゼロが千も万も並ぶ程に微小な可能性ではあるが、たった一つの勝機は既に見えている。
其処へと向かう為の第一歩。褐色の魔女の神経を逆撫でして、その最も大切な想い出を貶す。この女に激昂して貰わねば、大前提すら満たせぬから。
「何を」
「初対面で掛けられた言葉は、“こんばんは、綺麗なお嬢さん。今宵は良い日だ。可憐な華に出逢えたお陰で、何時もより月も美麗に見えるよ”……言ってて歯が浮きそうにゃ、ほんっと気障ったらしいセリフにゃよね」
「――っ!?」
「んで、堕ちるまでに掛かった日数は約三日。ってちょい早過ぎないかにゃ? ボッチ拗らせた根暗な女はちょっと優しくされただけでこれだから、尻軽地雷と呼ばれるにゃよ」
「お前――ッ!!」
そしてその思惑はあっさりと、鮮やかな程に嵌ってしまう。元より浮き沈みの激しい躁鬱病者で、たった一人に依存した者。真っ当な心の強さなど、この呪術師の中には残っていない。
嘗ては在ったのであろう。叡智の目で視て知っているから、僅かに哀愁を抱いてしまう。それでも、その情は己を鈍らせる。ならば今は蓋で塞いで、求めるのはたった一つの勝利の道だ。
怒りと共に振り下ろされる腕。その先から襲い来る無数の魔法は、たった一つでもミュシャを百度は殺せるもの。
そんな殺意の雨を前にして、最低限の被害すら受けずに跳躍だけで躱していく。魔法の範囲を予測して、肉種の射線を利用して、時に互いをぶつけ合わせて――そんな奇跡の如き最適解を無限に重ねた果て、猫人は無傷のままに着地する。
「何故知ってるのかって、そんな目。……お前に教えてやるにゃよ。叡智の瞳をたった一人に対して全力で、使った結果がどうにゃるかってことを!」
そうして語るは、己の心威。叡智の瞳が持つ本来の力とは、求めた物を見付ける力。その為に彼女が視ている光景とは、物質世界のそれではない。
集合的無意識。或いはアーカーシャ。世界の全てを知ることが出来る場所へと、接続することこそその正体。使い熟すことなど不可能な、限定的な全知の瞳だ。
一晩を費やして、視抜いたのは侵入ルートなどではない。何処へ進んでも見付かると言う結果が既に視えていたから、ミュシャが求めたのはどの場所を行くのが最も都合が良いかと言うこと。
そして残る時間で視たのだ。己が戦うであろう女。呪術師アマラの全てを、その目で視抜いた。過去も未来も現在も、その全てが既知にある。そうともこれこそが、叡智の瞳の戦闘運用。たった一人に全力を、その結果こそがこの先だ。
「断言してやるにゃ。呪術師アマラ! お前はもう、詰んでいる!!」
「舐めてくれるじゃないのッ! 力もない亜人風情がッッ!!」
現存する魔法体系など、大きく超えた最高位の魔法使い。魔王の加護も外法もなしに、人の頂点に君臨する者。呪術師アマラ。
対するは大地の精霊王が血脈に生まれ、全知の瞳を宿した少女ミュシャ。身体能力は一流の戦士に届かず、弓の技量も術の技量も一流域とは呼べない程度。
数字だけを競えば一瞬で勝敗が付く程に差が大きく、だが数値だけでは断じることが出来ない異能がある。そんな両者の戦いは、こうして始まったのだった。