一時閉幕
◇
吹き付ける風の中、少年は歩いている。
一瞬先さえ見えない暗闇の中を、それでも暴竜は前に進んでいた。
頭の中にガンガンと、鐘を叩く様な音。
まるで酷い二日酔い。吐き気がする程の宿酔。
その思考は歪んでいる。悪意に染まって歪んでいる。
餓えた身体は瘴気を求めて、唯狂った様に嗤い続けていた。
そんな竜の視界に、微かな光が入り込む。
真っ黒な筈の世界に、ほんの少し、とても小さな光が見えた。
頭が痛い。吐き気が酷くなる。
その内面に巣食った悪意が、あれには近付くなと警告している。
それでも、懐かしい感じがした。
あの蒼銀の輝きの中に、懐かしい影を見つけたから、悪なる竜は歩いている。
その蒼を目指す。
何かに惹かれる様に、その蒼銀の輝きを目指した。
吹き付ける風の中、少年は歩いている。
一瞬先さえも見えない暗闇の中を、微かな光を頼りに歩いている。
唯一つの蒼銀を求めて――
今にも消えそうな、その蒼い光を追い求めて――
嗤う声が響く。無駄だと嗤う声が響いている。
まだ変声期を迎える前の、幼い少年の声は正しく自分の物。
悪意に歪んだ思考が、ただただ嗤っている。
ふと、少年は疑問に思う。
嗤う声が自分の声なら、今こうして思考している自分は一体何なのだろうか。
きっと消えていない。
微かに残った物は、まだ其処にあった。
暗闇の中を歩く。
足元さえ見えない暗闇の中、少年は只管に前を目指す。
蒼い輝きを目指して、ゆっくりと、ゆっくりと、一歩ずつ前に進んだ。
深い闇の中でも、その蒼は薄れない。
漆黒に全てが染められてしまっても、微かな蒼が其処にある。
だから、それを求めた。
だから、それに手を伸ばした。
そして、それに触れた瞬間に。
――ヒビキ
名を、呼ばれた気がした。
蒼銀の風が、脳天を吹き抜ける。
悪意に歪んだ絶望が消え去って、確かな輝きが胸に残った。
そうして、悪なる竜は人の心を取り戻す。
狂って暴れた三つ首の大邪竜は、微睡みの中へと沈んで行った。
◇
その竜の手が、踏み躙る直前で止まっている。
精霊の輝きに触れて、それを砕いて、そこで竜の手は止まっていた。
指先に、少し伸ばせば砕けるモノ。
その手を動かせば壊れてしまう、儚いモノが眠っている。
「ミュシャ」
安らいだ表情で眠る少女の名を口にする。
思わず砕きそうになった命が、それでも変わらずある事に安堵した。
そしてヒビキは、虚空を二色の瞳で見上げる。
何もない筈の虚空が、ゆらりと揺れた様に見えた。
「……君が、何かしたの?」
今にも微睡みに落ちそうな瞳で、亜人に戻った少年が問いかける。
常に己を見守っていると、嘗てそう語った女の名を呼んだ。
「カッサンドラ」
瞬間、其処に影絵が現れる。
それは余りにも唐突な出現。一切脈絡がない登場。
古い映写機のコマ送りの途中で異物が混ざったかの如く、気が付いた時にはその女は其処に居た。
「いいえ、私の竜。私は何もしておりません」
まるでそれは影絵の如く、現実味に欠けている。
美しい女と言う事は分かるのに、それ以外は分からぬ影。
彼女が何もしていない。
ならば何故、そう首を傾げる竜に影絵は笑みを浮かべた。
「これは一つの、そう陳腐な言い回しですが、奇跡と言うべき物でしょう」
慈しむ様な声で、愛おしむ様な表情で、影絵の女は静かに語る。
自分は何もしていないと、戸惑いと微睡みに揺れる竜へ、優しい声音で真実を告げた。
「貴方の胸に宿った聖剣。それは人の心を繋ぐ物。心から信頼を寄せた人間の、希望を集める聖なる剣」
星が生み出し、人の想いが鍛え上げた聖なる剣。
その蒼銀の輝きは、人の希望の色。
担い手が心を繋いだ人間の希望を束ねて、世界を救う力を生み出す奇跡の聖剣。
「例え貴方の内から、全ての善意が消えたとしても」
故にこそ、この剣は心を繋げた人と人を繋ぎ合わせる。
悪なる竜の内面から全ての善意が消えたとしても、それでも消えない輝きを其処に宿している。
「貴方を信じ、貴方を想い、貴方を愛する者の心に希望がある限り、その剣は必ず答えます」
それは眠るネコビトが、希望を抱いていたから起きた奇跡。
集合無意識の中に溶けて救われた死者達が、ヒビキの救いを求めたから起きた奇跡。
唯純粋に、彼らはヒビキを信じた。
彼を信じ続けていたからこそ、その想いが剣を通じて流れ込んだのだ。
蒼き聖なる剣は、ヒビキの中に消えた筈の善意を輝かせる。
その儚い輝きが、荒れ狂う竜の因子を封じて、彼の意識を再び引き上げたのだ。
「……僕は、助けられてばっかりだね」
「いいえ、それは違います」
また彼に救われた。また友達に救われた。
そんな風に呟く竜の言葉を、カッサンドラは否定した。
「誇りなさい。私の竜」
カッサンドラは語る。
狂乱の中にあった竜がこうして戻って来れたのは、彼が絆を作れたから。
「貴方が人に戻れたのは、貴方を信じた命があったから」
その絆を誇れ。その輝きを誇ると良い。
傍観者に過ぎない影絵は、そんな風に微睡む竜へと微笑み掛ける。
「誇りなさい。私の竜」
カッサンドラは語る。
狂乱の中にあった竜がこうして戻って来れたのは、彼が確かな救いを齎せたから。
「貴方が人に戻れたのは、貴方が救った心があったから」
もしも、彼が蒼銀の聖剣を使わなければ、屍人の王は確かに容易く倒せたであろう。
地力が違う。弱体化していなければ、世界最高峰の魔法使いなど敵にもならない。
それでも、ネコビトの魂は救われなかった。
ミュシャは呪われたまま、死んでいたであろう。
そしてヒビキは、また一人になっていた。
「貴方が為した事があればこそ、貴方は救われた」
全ては積み重ねの結果。少年の選択が生んだ奇跡。
ならばこそ、ただ助けられただけではない。
多くを助けたからこそ、彼は皆に救われたのだ。
「それを何よりも誇るのです。私の竜」
奪う事よりも救う事を求めたから、彼は最後に救われた。
どんなに己が不利になると知っていても――
何より恐れる狂乱に堕ちてしまうと分かっていても――
それでも救いを求めた竜は、だからこそこうして救った人に救われたのだ。
「確かに善は、儚いのかも知れません」
誰かを救える優しい人は、必ず誰かに救われる。
それは儚い夢かも知れないが、それでも美しいと感じる夢。
「決して、正義にはなり得ないのかも知れません」
屍人の王の絶叫は、或いは世界の真実であろう。
正しい義とは、人の数だけ存在する。
誰にも理由は確かにあって、決して譲れない想いは存在する。
良くある話。当たり前の英雄譚。
正義の味方は、悪党と対峙する。悪を為す外道を倒して、正義を其処に示すであろう。
けれど悪党に理由はないのか、彼らは倒されて当然の存在なのか、いいやきっと違う。
理由なき悪など絶対善と同じく、御伽噺にしかない存在だ。
ならば世に満ちる悪の多くには、きっと確かな理由はある。彼らなりの正義はあるのだ。
如何なる事情であれ、その悪の理由を暴力で踏み躙る正義の味方は善人と言えようか。
身勝手な思考で善悪を定義し、それを一方的に貫き通す正義は善ではない。それは別種の悪であろう。
正義なき力は暴力となる。
だが、力ある正義とて、それを振るうならば暴力だ。
ならば善とは、武力を伴わない正義。
献身と愛こそが善ならば、必然それは無力となる。
故にこそ美しい善とは、儚く消える夢幻なのだろう。
「ですが、それでも善意は、どんな暗闇にだって消される事はないのです。どんなに儚い光であっても、必ずや何度だって甦る。どれ程深い底にだって、何時かはきっと届くのです」
それでも、きっと善意はなくならない。
誰もが胸に小さな善を宿して、正しい道を選ぶ事が出来る。
きっと救いとは、そんなもの。
「その方が、夢があると思いませんか?」
「……よく、分かんない」
微睡みにある竜は、小難しい言葉を理解出来ない。
善意と悪意が拮抗している今、その思考力は曖昧な物となっている。
「そうですか。今の貴方では、理解出来ないのかも知れませんね」
下らない話をしました、とカッサンドラは小さく微笑む。
そんな思考など知らぬと首を振って、悪を喰らう悪は眠そうに瞼を擦った。
「今は、眠いや」
「ならば微睡みの中に、今は未だ眠り続けていても良いでしょう」
まだ、その時は遠い。
悪なる竜の物語は始まったばかりであり、終わりは未だ遥か先の事だから。
「お休みなさい、私の竜。愛しい貴方を、私は何時でも見守っておりますわ」
カッサンドラは静かに告げて、ゆっくりと溶ける様に消えた。
そしてヒビキは、小さく欠伸を噛み殺す。
ゆっくりと身を丸めると、眠り続ける少女の横で眠りに落ちた。
◇
そして、夜が明ける。
長い長い、悪夢の夜は明けていた。
「ん、しょっと」
木で出来た十字架を、地面に突き刺す。
手先が不器用な竜に出来るのは、そんな小さな力仕事だけだった。
「ふにゃ~。これで終わりかにゃ」
器用な指先で十字架を作っていたミュシャが、最後のそれをヒビキに手渡す。
微睡む竜は一つ頷くと、その十字架を僅かに盛り上がった地面に突き刺した。
「これで、終わりにゃね」
一面に並んだ墓標。死した者を弔う場所。
崩れ落ちた洞窟の跡に、作られたのはそんな場所。
「……中身、ないよ?」
首を傾げるヒビキが問う。
今更ながらの問い掛けに、ミュシャはくすりと苦笑した。
目の前に広がる墓。その墓標の下には、何もない。
躯さえも残さず消えた彼らは、もう何処にも存在していなかった。
「良いにゃ。これは、気持ちの問題だからにゃ」
疑問符を浮かべるヒビキに笑顔を返して、ミュシャはそんな風に語る。
最期に彼らは救われたから、だから中身は空で良い。
もう何も残っていなくても、彼らの生きた証は残しておきたかったのだ。
「ヒビキ」
「ん?」
栗毛の少女が、ゆっくりと振り返る。
ふわりと優しい風が吹いて、少女は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
口にする言葉は唯一つ。
感謝を、万感の想いを込めて感謝を。
「本当にありがとう」
日差しの中で、栗毛の少女は確かな笑みを浮かべている。
その色に儚さなどはなく、優しげで明るい笑顔だけが其処にあって。
「本当に本当に、ありがとにゃっ!」
だから、そんな風に笑う少女に見惚れた。
大切な友達が浮かべた最高の笑顔に、ヒビキは確かに見惚れていた。
そして、二人で時間を過ごす。
空が夕焼けに染まるまで、ネコビトが眠る場所で二人は過ごした。
「……ミュシャは、これからどうするの?」
「にゃふ~。どうしたものかにゃ~」
問い掛ける事に、答えはどうした物かと考え込む物。
ミュシャは進む道を決めかねて、どうしたものかと思い悩む。
「もう帰る場所はない。もう縛る物もない。もうやる事なんて、残ってない」
ネコビトの集落は、もう人が暮らせる様な状態ではない。
躯の王との戦いで洞窟は崩れ、周囲の魔物から隠れられる構造ではなくなった。
縛る物もない。特殊な素材を持って来いと、己に命じた怪物はもういない。
ミュシャは本当に解放されたから、此処に留まる理由もなかった。
この墓地を守りたい想いはある。
けれど、この渇きの砂漠の中、たった一人で生き抜く程の力はないから論外だった。
近くにある人間の街を目指そうかとも思う。
冒険者ギルドに所属して、一攫千金を狙うのも面白そうだ。
全て、自由だ。
出来ない事はあるけれど、確かに其処には自由があった。
「自由になるって、意外と不自由だったにゃね」
だからこそ、意外と不自由だったとミュシャは呟く。
出来ない事も、出来る事も、在り過ぎてどうしたら良いか分からない、と。
「ん~、良しっ!」
だから、ミュシャは決める。
それは彼女が、今一番やりたい事。
自由になった今、一番やりたい事を口にした。
「そんな訳で、ヒビキ。ミュシャを守ってくれませんかにゃ?」
それは嘗て、初めて出会った時に口にした言葉。
何処か茶目っ気を出した猫娘は、笑いながら口にする。
「か弱い乙女は、こんな危険地帯じゃ生きていけないにゃよ。お家はもうないし、砂漠でパックリ頂かれちゃうにゃ」
楽しげに笑いながら口を開く。
あの日の言葉を捩った台詞で、微睡む竜へと言葉を伝える。
「お姉さん便利にゃよー。南方大陸なら何でもござれ、これでも一級の盗賊にゃ!」
一番に望んだのは、それだった。
自由になったミュシャが、やりたいと思った事はそれだった。
「だから――」
「ミュシャ」
その言葉を口にする前に、ヒビキが先んじる。
こういう事を言うべきなのは多分男の役割だから、摩耗した記憶の中でそんな風に思って、ヒビキは言葉を先に言った。
「僕は、一緒に居たい」
「うん」
微睡む竜は、それでも一緒に居たいと望んだ。
何処か照れくさそうに、同じ想いを抱いた少女は頷く。
「もう少し、一緒に居たい」
「うん! うん!」
今一番やりたい事。
それは今までと同じ様に、一緒に歩いて冒険する事。
もう少し一緒に、手を取り合って歩いて行きたい。
二人は揃って、そう思う事が出来たから。
「だから、行こ?」
「うん! 一緒に行こうにゃっ!!」
差し出された手を、ミュシャは確かに握り返す。
握り返した手は、悍ましい異形。
鱗に覆われた手はとても冷たかったが、それでも心は温かかった。
竜と猫は、これから多くを見るだろう。
美しいモノも醜いモノも、世界の多くを目にするだろう。
二人の旅は、これから始まっていくのだから――