その12
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魔物化と言う現象は、決して珍しいことではない。人は存外、容易く魔物に堕ちてしまう。成れの果てと、其処に至るに特別な資質は必要ない。
そも大前提となる話。瘴気とは悪思によって歪み淀んだ力であり、あらゆる生命を間違った生き物に変えると言う性質を持っている。故に瘴気に触れた生き物が、魔物に成るのは当然の結果である訳だ。
体内に微量な瘴気を持つ亜人種や、自己の生命力を瘴気と混ぜて魔力を生み出す魔法使い。そう言った者らはその性質上、常に魔物化と言う危険と隣り合わせとなる。
元より瘴気に近い生命力を持つのが彼らだ。強い悪感情を抱いてしまえば、余りに容易く魔に堕ちる。聖教が亜人種を罪深き者と明言し、浄化と称する形で処刑や差別を行うことにも一理はあった。
そう。亜人種は魔物に堕ちやすい。であるが為に、外的要因によっての魔物化も容易い。アマラが仕込んだその薬は、詰まりそういう物である。
危うい天秤を片方の側へと、無理矢理に傾ける薬毒。その本質は、高純度高濃度の瘴気を液体化した物。飲み干せばそれだけで、魔に連なる者を魔物に変える。
唯の人間では無理だ。常人では瘴気の密度に耐えられず、馴染む前に死に至る。ゾンビやグールと称される、動く死体にしか成ってはくれない。
死者蘇生の魔法が困難なのも同じ理由だ。人を蘇生出来る程の魔法を使うと、その瘴気によって対象を汚染してしまう。墓から蘇らせようとすれば、魔物になってしまうのが世の常だ。
大量の瘴気を制御して、自我を保つ精神。膨大な瘴気による汚染死を、適度に排出することで防ぐ技巧。肉体の変異を最小限に、或いは皆無に抑える知識。
自我を保った魔物化だけでも困難と言う域ではないのに、死者の蘇生はそれより遥かに難しい。それを平然と、それも複数同時に、成し遂げる悪竜王は例外中の例外だ。
そんな例外と比べることなど出来る筈もない程に、ノルテ・レーヴェの秘薬は質が低い。敢えて利点を上げるなら、既に工場で量産が可能なことくらいだろうか。
アマラが作った雛形よりも、大きく劣化した量産品。そうであるが故に、この薬は性質が悪い。そんな薬で自我を保てる筈はなく、そして変異した肉体はそう時間を置かぬ内に自壊を始める。
起きた変化はもう不可逆だ。それを覆せる怪物は此処にはおらず、闘争領主エドムンドの死は確定した。
そうと理解して、と言う訳ではない。だが、何となくは感じている。向かい合う男の発する強烈な瘴気に、もうどうしようもないと言うことを。
(……堕ちた闘士、か。他人事には、思えないよな)
男の姿を見詰めて思い出すのは、愛しい少年との出逢いと心を繋げたあの一瞬。あの日の自分も或いは、こんな姿であったのだろうか。
全てを奪った仇が憎くて、それを忘れてしまいそうな微温湯が怖くて、エレノアのそんな弱さを大魔女に突かれた。それが嘗て、エレノアが堕ちた理由。
対してエドムンドは、どうしてこの道を選んだのだろうか。手にした栄光を守るため? 己の立場を守るため? それとも――セシリオとキャロと言う、彼を見てくれる子どもと出逢ってしまった為なのだろうか。
素直な瞳と言葉と温かさで、手を掴んでくれる子ども達。とうの昔に諦めていたのに、再び得られたその栄光。それを守る為に、小さな子に格好悪い姿を見せたくなくて、そんな理由だと言うならば余りに悲惨だ。
分かって使った訳ではないだろう。彼は嵌められた側であり、状況が甚だ悪かったのだろう。周囲は皆が敵であり、手にした毒を飲むしか道がなかった。ああ、例えそうだとしても、その選択は間違っていると思うから。
「なぁ、エドムンド。届いているか、分かんねぇけどよ。言わせて貰うぜ」
「…………」
「今のアンタは、さいっこうに格好悪いってよッ!!」
止めてやろう。この今に嘗てを穢す怪物と化した、闘争領主であった者を。救うことは出来なくても、止めることなら出来る筈だから。
エレノアは巨大な剣を、背の鞘より抜き放つ。身の丈よりも大きな銀の刀身に、走る雷光の如き輝き。両手に握る剣こそは、育ての父より継いだ雷招剣。
構える鎧の少女を前にして、エドムンドは反応しない。自我の殆どが壊れ掛けた怪物は、それでもまだ堕ち切ってはいない男は、過去の反復によって行動する。
勝利宣言を受けた。だから先の戦闘は終わった。戦いが終われば次に呼ばれるまで、控室で待機する。そして呼ばれたならば、舞台に上がりゴングを待つ。日に何度も戦っていた、そんな古い過去への妄執。それだけが、今の彼を形作っている。
「いよいよ、長らく続いた西方大武闘会も決勝戦ッ! 未だ無敗を貫く闘技場の頂点に、挑むは若き冒険者ッ! 闘争領主が勝るのか、或いは雷光の乙女が打ち勝つかッ! これより、舞台の幕開けと参りましょうッ!」
自我が霞み、望んだ者さえ分からぬ状況。それでも、次のゴングはまだ鳴っていないことだけは分かっていた。だから、エドムンドはその時だけを待っている。
歪んだ瘴気を発する領主を前に、気圧されぬと腹に力を籠める。負けるものかと睨み付けて、止めてみせると剣を握って、エレノアもまたゴングの鐘を待っていた。
「西方大武闘会決勝戦――――ファイッ!!」
そして、戦いのゴングが鳴り響く。その瞬間、両者は同時に前へと跳んだ。
暴力と言う名の暴風が吹き荒れる中、一閃の雷光が迸る。すれ違い様に付けられたのは、雷を纏った斬撃痕。駆け抜ける電光石火によって、先取点を得たのはエレノア。
相性と言う面で見れば、エレノアが優位である。近付いて殴るしか能がない男に対して、瞬間的な速度で勝る少女だ。速度は距離を制する力。此処が闘技場でなかったならば、完勝すらも不可能ではない程の相性差が両者にあった。
速度差を覆せなければ、近付かれることはない。ならば距離を取り続けて、遠距離砲撃を只管続ける。それが必勝の策ではあったが、この闘技場と言う領主の城では使えない。
如何に速度に差があろうと、そも狭ければ距離が取れない。無理に逃げ回っても、直ぐに捕まる。エドムンドは決して、遅いと言う訳ではないのだ。舞台の端から端まで届くのに、数秒も掛からぬだろう。
故に後ろに退くのではなく、前に踏み出さなければ勝機はない。すれ違い様に切り刻んで、初手を躱して駆け抜ける。圧倒的な速力で、そんな理想を形とするのだ。
(――っ、浅い、か)
それでも、相性の差だけで勝てる程に、今のエドムンドは弱くない。腹を断ち切る心算で打ち込んだ一撃は、内臓は愚か骨にも届かない程度の傷で止まっていた。
そして今のエドムンドは魔物と同じだ。瘴気によって、肉体治癒を。付けた傷は瞬く間に、繋がり塞がり治ってしまう。まず間違いなく、致命傷の域でなければ届かない。
対してエレノアは、無傷と言う訳ではない。その剛腕は確かに躱した。これ以上ないと言うぐらいに完璧に、それでも頬に僅かな擦り傷が。
鎧に覆われていない部位が、攻撃の余波だけで傷付いたのだ。腕を振る際に起きた暴風。それが宛ら鎌鼬の如く、掠りもしないでこの被害だ。直撃を受けたらどうなるか、想像するに容易い話だろう。
彼女が剣で与えた傷は即座に治り、相手の攻撃は一撃でも受けたらそれで終わり。彼我の相性は決して悪くないが、このままでは確実に詰むのだ。
「なら――やり方を変えるまでだッ! 行くぜ、雷招剣ッッ!!」
敗北を望まぬと言うのであれば、手段を変える他にない。遠距離戦を出来る程の場はないから、エレノアが選んだのは攻撃の質を変えること。
雷の精霊石に闘気を流す。闘気術とも呼ばれる技は、精霊力と闘気を同時に放ち、足りない精霊術の適正値を補う技術だ。
常は凡そ3対7と、精霊石の消費を抑える為に闘気の量を増やしている。その割合を、6対4――否、真逆の7対3にまで引き上げる。
大量の闘気を精霊力へと変換し、剣に纏わせ駆け抜ける。エレノアの適正値では制御出来ない程の精霊力は、その大半が無駄と散ろう。
威力は本来のそれよりも半減。精霊石の消費速度は倍以上。明らかに効率の悪い行動だが、これにも利点が一つある。より多くの闘気を精霊力に、純粋な精霊術に近付くのだ。
唯の闘気術では、闘気の色が濃厚に残る。芯なき氣が容易く染まってしまう様に、魔物の瘴気で軽減されてしまうのだ。
だがより精霊術に近付いた今ならば、その瘴気の軽減を無効化出来る。精霊力と瘴気は互いに相殺するから、半減していようが先より大きな傷を残せた。
「お、らぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
「ぬっ、オォォォォォォォォッッ!!」
二度目の交差は先と同じく、しかし結果は先と違う。擦り傷を増やしたエレノアが、付けた傷はもう塞がらない。
治癒に用いる瘴気までも浄化され、男の身体に確かに残る。半減した威力では薄皮一枚程度だが、治らないと言う事が重要だ。
これなら行ける。エレノアはそう結論付ける。勝機は未だ遠くにあるが、詰みと言う状況からはかけ離れた。
直撃を受ければ終わることは変わらず、精霊石が尽きても終わる。そんな綱渡りを続ける形になるが、それでも勝機はこの先に。
積み重ねて、乗り越えれば良い。ならば不安も恐怖も棚上げして、エレノアは雷光となって大地を駆けるのだ。
「――ッ! オォォォォォォォォッッ!!」
迫る雷光を前に、エドムンドは高く吠える。二度は許した。だが三度目は許さない。そうと言わんばかりに、発したのはウォークライ。
相対した相手を怯ませる咆哮と、それだけならばエレノアは止まらない。だが当然、それだけである筈がない。人の声帯では発する事の出来ない程の大音量は、物理的な圧を伴っていた。
台風を思わせる程の風圧は、エレノアの華奢な身体を吹き飛ばさんとする程。如何にか剣を突き刺し耐えるが、それは明確な隙となった。
吹き飛ばされない様に耐えて、突き刺した剣を抜く。その僅かな一瞬で近付いていたエドムンドの拳が、エレノアの身体を撃ち抜いていた。
「が、は――ッ!?」
咄嗟に後ろに跳び退いて、それでも被害は殺せない。臓器の一部を潰されて、口から吐血しながら少女の小さな体が吹き飛ぶ。
遥か後方上空へ。そのまま落ちれば場外へと、敗北は避けられない。ならば上空から落ちない為に、血反吐を飲み干し動く他にない。
「今の、アンタに、負けて堪るかァァァァァッッ!!」
「――ッ!?」
精霊力による磁力場作成。彼我に反発する力を生じさせ、リニアレールの理論で空を飛翔する。
己の身体を弾丸としたリニアレールガン。後先考えぬ突進で、エドムンドの身体を逆に吹き飛ばした。
激突の衝撃からふらつくエレノアは、己の回復を待つ前に剣を握る。宙に浮かんだエドムンドは着地する直前、今こそが最大の好機であったから。
「雷光一閃! サンダァァァァァブレイカァァァァァァァァァァッッ!!」
全力の斬撃を。これで終わりとしてみせる。振り抜いた雷光の刃が此処に、エドムンドの身体を飲み干した。
「がふっ……はぁ、はぁ、はぁ……」
口に残った血を吐き出して、荒い呼吸を整える。拳の形に凹んだ鎧の中身は痛みもなくて、想像するのも嫌な状況だが、それでも己はまだ生きている。
目を向けた先、闘技場の端には倒れたエドムンドの姿。大剣を杖の如くに身を支えるエレノアと、大の字になって倒れる男。どちらの被害が大きいか、一見しただけでは分からぬ程に。
「エドムンド、ダウンッッ! カウント、1、2、3、4――ッ!」
司会の女がカウントを始める。ダウンの時は10カウントと、僅か十秒弱が思いの外に長く感じる。もう立ってくれるなと、エレノアは冷や汗を流しながらに思う。
『5、6、7、8――ッ!!』
観客たちも熱狂のまま、司会の声に合わせて叫ぶ。新たなチャンピオンの誕生を確信して、誰も彼もが楽し気に腕を振っている。これで終わったと、皆がそう思っていた。
だが――
「おレNo、エィコオはァ、UバWaせNaイiiiiiiiiiiiiiiッ!!」
「立ったァァァァァッッ! エドムンド、何と再び立ち上がったァァァァァッッ!!」
カウント9で立ち上がる。無残な程に傷付いて、言葉も理解出来ない程に変貌して、それでもエドムンドは立ち上がる。
エレノアの背に、嫌な汗が流れ落ちる。それでも彼女も、剣を握った。どちらも既に重症だが、故にこそどちらが勝るか分からない。それ程に、今の状況は拮抗していた。
そして、エドムンドが膝を曲げる。前傾姿勢を取ったその意味は、跳び掛かり殴り付ける為に。そうと分かればこそ、震える闘志を燃やし上げる。
(来る、か――)
勝てるか、いいや勝つのだ。震える怯懦を喝破して、強く強く睨み付ける。全力で駆けることすら難しくとも、負ける心算は更々ない。
そんなエレノアの瞳に何を見たのか。暫し睨み付ける様に、見詰め合う様に、その視線を交差させる。そうした後に、エドムンドは動いた。――前ではなく、後ろに向かって。
「なっ!?」
何をしているのか、言葉にならない。エドムンドが突っ込んだ先は、周囲を囲う観客席。其処に手を伸ばして、彼は人を捕まえた。
そして、齧り付く。大きな口を開いて、脳天から。貪り喰らう姿はどうしようもない程に、悪鬼と呼ぶしかない成れの果てであったのだ。
「え?」
「嘘、だろ!?」
「に、逃げろォォォォォォォォッッ!!」
チャンピオンの乱心。己達に被害が届いて漸くに、観客たちは異常を知る。既に気付いていた筈なのに、目を逸らしていたその異常を。
だがやはり、目を向けるのが遅かった。エドムンドの両手が伸びて、逃げ惑う人々を捕まえていく。時に握り潰して、時に喰らい付いて、求めるのは純粋なる恐怖。
「……アイツ、補給、してるのか」
人の恐怖を糧とする。生命力を瘴気に歪めて補給する。恐怖と混乱に満ちた悲劇を作り上げることで、彼は己の傷を癒そうとしている。
このままでは勝てるかどうかも分からないから。魔物としての本能が、その絶望を求めているから。エドムンドと言う男は既に、唯の残骸であったのだ。
「其処まで、魔物になっちまったのかよッッッ!!」
叫ぶ少女の視線の先で、エドムンドの形骸が壊れる。辛うじて人の姿を保っていた彼は、完全に魔へと堕ちたことで変貌した。
喰らった人々の眼球が、その身体の全身に浮かんでくる。嘆き恨み憎む視線が、男の身体を埋め尽くす。その巨大な姿は宛ら神話のアルゴース。
瞳だけではなく、無数の手が。次なる犠牲者を求めて蠢く。その全身の筋力も数倍に、膨れ上がった姿はヘカトンケイルにも見えるであろう。
どちらにせよ、一つだけ確かと言えることがある。それは既に、もう人には見えない言う現実。彼は最早、材料となった人間の妄執に影響を受けているだけの怪物だ。
「もう、止めろォォォォッッ!!」
「皆さま、避難口はこちらですッ! 早く、こちらの方へッ!!」
ヘカトンケイルに向かって、エレノアは叫ぶと共に大地を駆ける。女司会者は震えながらも、避難経路を指示して導く。
だがやはり、エレノアは傷付き過ぎている。だがしかし、怪物は成り立てとは思えない程に強大過ぎた。故に、結果は最悪の方向へと。
「じャマDa」
「あ、が――っ!?」
切り掛かったエレノアの胴体を、片手で受け止め握り潰す。血反吐を吐いた少女の身体を、獲物を誇る様に高く掲げる。
既にして、怪物は人を取り込み回復していた。それだけでもなく、その力は大きく膨れ上がっている。瀕死のエレノアでは、もう止められない程に。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
そして、彼女の身体を投げ捨てた。闘技場の舞台に向かって、追突した少女は血反吐に塗れて沈黙する。
動かなくなった敵の姿に嘲笑を浮かべて、怪物は視線を移動させる。そして、跳び出した。人々が殺到している、避難口へと向かって。
「うバWaせナィ」
何の為に、人を喰らったのか。負けたくは、なかったからだ。その意志を、魔物の本能が歪めた結果だった筈だ。
なのに今、もう勝負は着いたというのに、怪物は人を喰らい続けている。既に男の妄執すらも、ヘカトンケイルの内には残っていない。
より強く、より強大に、そして人を苦しめよう。唯の凶悪な魔物は其処で、悪辣な笑みを浮かべて嗤った。
「オれノEikoオは、ぅバWァせなNaァァァァァッッ!!」
惨劇が此処に幕を開ける。逃げ道を塞ぐ様に立ち尽くす怪物が、次から次へと多くの生命を奪っていくのだ。