その8
◇
「……何故、こうなった」
ゲレーリオの町中で、大柄の男が肩を落とす。三メートルを優に超える巨体は、背を丸めても道の半分以上を占拠する程。
そんな巨大な彼と比すれば、余りに小さな二つの影。それが肩を落とした彼の両手を、左右から一つずつ握って前へと引っ張っていた。
「まだ言ってんのかよ、おっちゃん。仕方ねぇじゃん、保護者連れじゃねぇと町を歩いちゃいけないって師匠が言うんだからさ」
男の右手を引っ張るのは、褐色肌にワンピースが映える女装少年。セシリオは雑さを隠さぬ乱暴な口調で、巨体の男が居る必要性を口にする。
先の誘拐事件から、まだ一日。少年少女の自衛能力への信頼は底を突いており、保護者が同伴せねば外出は許さない。そう彼の師から直々に、命令が下されたのだ。
「それで、俺を保護者と選ぶ、理由が分からん」
「私達を心配して、様子を見に来てくれたからですよ。エドムンドさんになら任せられるって、エレノアさんも言ってましたから」
男の左手を引っ張るのは、商家の令息を思わせる男装少女。キャロは信じ切った様子で、武骨な男の疑問に答える。
エドムンドは、先の誘拐事件で真っ先に帰ったことを後悔していた。あの時には余裕がなくて、だが時間が経てば冷静にもなる。
そうして、彼は心配したのだ。あの子ども達は本当に、家に帰れたのだろうか。不安になった彼は町中を歩き回り、一人一人と確認をしていった。
この地の領主と言う立場もあって、調べられない情報はない。それでも近付けば怖がらせてしまうかも知れないから、遠目に覗いて笑顔を浮かべていれば良し。そんな風に歩き回っていたら、暇を持て余していたこの子ども達に捕まったのだ。
「…………唯の、偶然だ」
「見付かったのは偶然でも、おっさんが俺らを探してたのは事実だろ? 遠目に見て、元気そうだったから一声掛けることもなく帰るってのは、ちょっと他人行儀だってよ」
「…………俺と、お前達は、他人だ。他人を余り、信用するな」
「なら他人ではなく、友人に成れる未来に期待して、貴方を信頼することにします」
「本当に信用出来ない奴は、信用するな何て言わねーよ。俺らはアンタを信じられる人だって信じた。だから頼る。ってか迷惑だってんなら、追い払えば済む話じゃん。それしない時点で、アンタは良い人だよ。チャンピオン」
「…………弁の立つ子どもは、苦手だ」
師であるエレノアには予定があり、他に信頼できる保護者は居ない。そんな彼らだ。当然の如く、やって来たエドムンドを離しはしなかった。
子どもは幼い様で、意外に良く物事を見ている。この大人には甘えても大丈夫だと、エドムンドは信頼されていた。そして彼に子どもの期待を裏切ることなど出来る筈もなく、こうして引率を押し付けられた訳だ。
殆ど初対面だと言うのに、信頼して懐いて来る子ども達。アンタなら大丈夫だから後は任せたと、言って何処かへと去ったエレノア。
振り回される闘争領主は、深い深い息を吐く。振り回されることが嫌だと思えない事実が、どうしようもなく情けない。そうは思うが、だからと言って現状は何も変わらない。
その小さな手に握られると、どうしても振り解けないのだ。だから二人に手を引かれて、男は町中を歩き回る。
あれは何だこれは何だと、子ども達は好き勝手に。その都度疑問に答えて言って、口下手な彼は疲れてしまうがそれさえ楽しい。
そうして暫く歩き回って、ふと見上げた魔導掲示板。浮かび上がった映像は、本選出場者達の紹介VTR。
やはり人気と言う一点では、エドムンドとセニシエンタの二強だ。だがそんな彼らに次ぐ様に、大々的に紹介されているのは金髪の少女。予選の映像が出回ってから、エレノアの人気は大きく向上していた。
「……お前達の保護者は、大会に向けての調整か?」
「そーそー。あのセニシエンタってのが宿まで付いて来てさー。んで師匠が纏わりつくなら、練習相手にでもなれやって切れたら、何か了承されたって流れ」
「大会だけじゃなくて、エレノアさんがA級を目指す為にも、あの人との訓練は為になるからと。それで私達は、昨日のこともあったので、宿で大人しくしておく心算だったのですが」
「それじゃ、つまんねーじゃん。大捕り物があった後だと、犯罪起こす奴もそうはいねーだろうし。今は抜け出しても問題ねーって、おっさんが来なかったら、抜け出してたかもな」
エレノアを気に入ったのか、あの事件の後も付いて来たセニシエンタ。同じ宿に部屋を取り、爽やかに笑って語り掛ける女にエレノアも我慢の限界を迎えた。
そして開き直って、付いて来るならばせめて役に立てと。戦闘経験を積む為の練習相手を求めたエレノアに、セニシエンタは快諾を返した。今も彼女達は、闘技場の何処かで鎬を削り合っている筈である。
殴り飛ばしたいと言う感情と、戦闘経験を積む相手としては最上級と言う実利。二つの要素が故に、エレノアは鍛錬に全力を費やしている。
そうなれば当然、外出禁止令が出ている二人は暇となる。エドムンドが来なければ無理にでも、脱走していたかも知れない。そう冗談めかして語るセシリオに、エドムンドは眉を顰めて告げた。
「…………確かに危険は少ないが、危ないことをするのは止めろ。子どもが傷付けば、親が悲しむ」
セシリオが言う様に、大捕り物があった直後だ。犯罪組織が残っていたとしても、暫くは息を潜めることであろう。危険が少ないのは事実である。
それでも、少なくても零ではない。可能性は僅かにあって、ならばエドムンドは見過ごせない。子どもが涙を零すと言う光景を、彼は決して許せない。
「親なんていねーよ。顔も覚えてねー」
「あの人達は、もう死にました」
「…………済まない。無神経だった」
だが、その言葉は二人には通じない。物心付く前に親に売られたセシリオにも、兄の暴走によって家族が皆死んだキャロにも、心配してくれる親など居ない。
その可能性を考慮していなかったエドムンドは、浅慮であったことを詫びる。子どもを相手に頭を下げて、それでも彼は変わらない。子どもに危険な真似など、して欲しくはないのだ。
「気にしないで下さい。もう、終わったことですから」
「俺の方は始まる以前だけどさ。始める為に、北へ行くんだ。だから、おっさんが謝る様なことじゃないよ」
「そうか。――だが、危険なことは止めてくれ。お前達の様な幼子が傷付くと思うと、俺は悲しい」
「ははっ、おっさんは心配性だなー」
「けどやっぱり、エドムンドさんは良い人です」
言葉の節々に感じる誠実さ。彼も西の民であろうが、他の者らと違って思える。それはエドムンドにとっての特別が、幼い子どもであるからだろう。
西の民は誰しもが、一生に一度は強い想いを抱く。彼らは冷徹で計算高いが、同時にどうしようもない程に情熱的だ。だから譲れぬ想いがあって、エドムンドにとってはそれが子どもと言うだけの話。
それでも、いやだからこそと言うべきか。彼は心の底から、子どもであるセシリオとキャロの身を案じている。そうと分かるからこそ、二人は彼に隔意を抱かない。
出会ったばかりではあるが、心の底から信じられると思える男。エドムンドを疑うくらいなら、セニシエンタの方が怪しいと。そう感じるセシリオは、呟く様に疑問を零した。
「けどさ、あのセニシエンタって奴。何だって、師匠に絡むんだろうなぁ」
「……恐らくは、だが。奴は此処で、A級の候補者を探しているのだろう。A級冒険者の中でも奴が最も、ギルドから信頼されている」
その呟きに、エドムンドは答える。この町に彼女が来た理由は、エドムンドへの掣肘を依頼されたからであろう。だが、それだけとも思えない。
あの華々しい冒険者の性格を思えば、そんな理由だけで動くとは思えない。ならばそれはあくまでも、次いでに出来れば程度の話。その本当の目的は、冒険者ギルドからの依頼であるとエドムンドは推測する。
ギルド長から直接に、次のA級を探す様に指示されている。そうと考えれば、実力者が集うこの町に来た理由も、エレノアに付き纏う意味も理解が出来たのだ。
「A級冒険者の候補、ですか?」
「南で、手腕手管が倒れた。その抜けた穴を埋めるのは、ギルドとしても急務だ」
現状、西の勢力図は大きく塗り替えられている。企業連と冒険者達。四大冒険者とギルド長に灰被りの猟犬。それらの要素は、これまでは如何にか拮抗していた。
冒険者ギルドに属するB級以下の冒険者達と、企業に属する兵力はほぼ対等。西の英雄たる猟犬を相手に、ギルド長とA級4人を合わせて漸く対等。それで凡そ、互角になると言うのが有力者達の総意だ。
だが南方で四大冒険者の一人が落ちて、ノルテ・レーヴェが企業連の中でも突出し始めた。天秤は片側に大きく傾き始めていて、ギルド上層部も危険視をし始めている。
このまま企業の勢力が大きく成り過ぎて、何か起きた時にギルドは何も出来ないのではないかと。時が経てば更に、状況が悪化することは明白だった。
(それに、俺も。もう、そう長くは戦えない)
闘争領主は、もう長くは続かない。元より劣悪な環境で育った亜人のハーフ。闘気を練れば瘴気が混ざる為、純粋な闘気による肉体の延命は行えない。
或いは魔法を学んでいれば、戦士としての寿命を引き延ばせたかも知れない。だがこの今に至れば、最早無意味な仮定だろう。今更に魔法を学んだとして、今の実力は維持できないのだ。
(若き頃に、魔法や、東の地にあると言う延命法を学んでいれば。……未練だな、今更に)
そう遠くない内に、エドムンドも失脚する。四大冒険者が、更にもう一人欠けるのだ。唯でさえ企業の力が増しているのに、猟犬の足止めさえ行えなくなるのは最悪だ。
そうなれば、抑止力さえ失うだろう。故にギルドは、一刻も早く次のA級を必要としている。だが誰でも良いと言う訳ではなく、A級の権威を下げない為にも相応以上の質が必要だ。
人を導くことに長け、人品に秀でており、実力もある冒険者の頂点。次のA級を探すと言う重要任務を任せられる者として、彼女以上に相応しい者をエドムンドは知らない。
現ギルド長である“鉄血剛腕”バルドゥイノ。彼も同じ判断を下したのであろう。或いはセニシエンタの後釜も含めて、三人以上の候補者を探すことが彼女への試験となっているのかも知れない。
セニシエンタが次期ギルド長と目されているのは、西ではそれなりに有名な話だ。余程酷い失態を見せない限り、彼女は上に行く。となれば更に一人、A級冒険者が減ってしまうのだ。
「ってことは、師匠はギルド側からもA級候補って見られてるってこと? 俺らの目的考えると、かなり好都合な話だよな」
「あくまでも、候補の一人、だろうがな。……先の共闘、見た限りでは、能力は十分。後は、経験の差と、名声の有無。あの娘に足りないのは、それだけだ。このままでも、数年の内には、A級の評価を得るだろうさ」
誘拐事件の折、共に戦った動きを見ていた。そんなエドムンドは素直に評する。エレノア・ロスは既にして、A級と呼ぶに相応しい物を手にしていると。
予選ではセニシエンタに敗れた様だが、彼女はA級の中でも別格だ。エドムンドが相手では、あれ程に明確な差は出来ないだろう。戦闘に長けた闘争領主でも危ういと感じるのだから、直接戦闘が苦手な幽玄凶手では結果は更に明白だ。
後は大衆が認めるだけの、成果さえあれば十分。先の予選映像だけでも、A級最上位を相手に善戦したとは伝わっている。まだ不足と見られていても、既にエレノアは次代の最有力候補となっていた。
「師匠って、やっぱ強いんだよな」
エドムンドが語る評価と、実際にセニシエンタが注目しているという事実。それを知ってセシリオは、師の優秀さを再認識する。
優れた武器を持つから、育った環境が特別だから、と囀ることは出来るだろう。それでも、その環境を活かし切っていること。その努力までは、誰にも否定出来はしまい。
「……それに比べて、俺はまだ弱い。背中は遠いなぁ」
そんな優秀な師に比べて、自分は果たしてどうだろうか。セシリオもエレノアも、共に才はないが環境には恵まれている。
努力と武具で才の不足を補う師。見ただけで多くを見抜き、様々な助言が出来る猫の賢者。最高位の魔物であり、確かな味方である悪竜王。彼らと出逢えた境遇を、恵まれていないなどとは口が裂けても言えないのだ。
そうでありながら、まだセシリオはとても弱い。魔王の爪と言う武器と最良の環境を持ちながら、守るべき人と共に攫われてしまうと言う無様を晒した。
幸いにも相手は木っ端な犯罪者だから如何にかなったが、これが企業の刺客だったらあの時点で終わっていた。そうと自覚すればこそ、己の弱さを認めなくてはならないだろう。
「よし」
だが、だからと言って腐る様なことはない。弱さを認めたならば、強くなれば良いのだ。そう直ぐに切り替える事が出来るのが、セシリオが持つ最大の強みである。
そして実に都合良く、此処には強い男が居る。己を取り巻く優れた環境とはまた異なる、強さを持つ闘争領主。こうして出会えた機会があるなら、それを活かさずにはいられない。
故にセシリオは手を離すと、その大きな身体に向かい合う。そしてエドムンドの巌を思わせる顔を見上げて、頼む言葉と共に頭を下げた。
「なぁ、おっさん。俺に、何か教えてくれねーか!」
「……何故、だ」
「おっさん、この町で一番強いんだろ? ならさ、他人を必要以上に傷付けないで、無力化する技とかも知ってそうじゃん」
言葉に出して望むのは、この強い男に学びたいと言うこと。非殺が故に捕まったから、今度は全力でも相手を殺さない術を得たかった。
「……何故、力を望む」
「守りたい人が居て、その為に必要だから。今の俺じゃ、守れたとしても、泣かせちまう。それじゃ駄目だって、そう思うんだ」
武骨な言葉で、問うエドムンド。そんな彼の目を見詰め返して、セシリオは己の想いをぶつける。
守りたい人が居る。戦う力はある。だが、心を守れる程の強さはない。だから、変わりたいと願っている。強くなりたいと、心の底から想うのだ。
「……子どもが、戦う必要はない。ましてお前は余りに小さい。頼れる大人を、探して頼れ。甘えが許されるのは、幼さが持つ特権だ」
エドムンドが示すは拒絶の言葉。彼は子どもを愛すればこそ、そんな幼い者達が戦場に出ることを許せない。
どんな理由があっても、それは認められないのだ。だから頼れと、頼ってくれれば守ってみせると。そう語る彼の言葉に、セシリオは首を横に振る。
「それじゃぁ駄目だ。頼りたくない。おっさん達が、頼りにならないって訳じゃない。この件だけは、自分の力で成し遂げたいッ!」
頼れない訳ではない。信頼はしている。唯、頼り切りになりたくないのだ。惚れた女を守るのは、男の矜持と言うべき物。
例え小さく幼くとも、セシリオは己を一端の男であると思っている。だからこそ、男の子には意地があるのだ。好きな子の前で、格好良く在りたいのだと。
「俺が、キャロを守りたいッ! この俺が、守れる様に成りたいんだッッ!!」
「…………」
その瞳に、影が重なる。誰かを其処に重ねて見て、エドムンドは少し迷った。その瞳は、彼が揺らぐ程に真っ直ぐだった。
故に彼は迷う様に、その視線をセシリオから動かす。そして見詰めた先には、青い髪の男装少女。
頬を赤く染めていたキャロは、エドムンドの視線に気付くとセシリオと同様に手を離す。そしてエドムンドに向き合うと、少年と同じように頭を下げた。
こんなにも強い想いを抱かれて、無下に出来る様な少女じゃない。今は恋愛など考えられないが、その想いには真摯でありたいと想えている。だからこそ、彼女もエドムンドに頼むのだ。
「……キャロ、と。それがそちらの娘の、本当の名か」
「あ、やっべ」
「え、えっと、騙していて、ごめんなさい」
「別に、構わない。お前達にも、相応の理由があるのだろう」
強い想いの余りに、本当の名を呼んでいたことに指摘されて気付く。思わず慌てる少年少女に、エドムンドは不器用に笑って言った。
何となく思い出したのは、嘗てこの地を訪れた小さな子ども。闘技場の頂点となってから五年程、そんな時に出逢ったのは勇者と呼ばれた少年だった。
「なぁ、おっさん。騙してたことは謝る。だけど、俺に力を貸してくれよ。俺はさ、守られる子どもじゃなくて、惚れた女を守れる男になりたいんだッ!」
あの時も、子どもが何をと彼を止めた。だがそんなエドムンドに、勇者は確かに語ったのだ。守りたい人が居るから、子どもだからと侮るなと。
そうした果てに、あの子どもは確かに闇の魔王を討ち破った。エドムンドには出来ない偉業を、成し遂げてみせたのだ。その時の彼と、似たような輝きをその目に見た。故に、エドムンドは決めたのだ。
「…………本当の名前を、教えてくれ。それが条件だ」
「マジで! ありがとッ! エドのおっさん! 俺はさ、セシリオってんだ!!」
不器用な言葉で、エドムンドは少年の想いを認めた。そんな彼にセシリオは、嬉しそうに言葉を返す。
鼻の下を指で擦る少年に、寄り添う少女も頭を下げる。そうして顔を上げた後、彼女も己の名を明かした。
「キャロ。……カロリーネ・ロベルティナ・アブド・レーヴェです。セシリオの想いに応えてくれて、ありがとうございます。エドムンドさん」
「……アブド・レーヴェ、か。いや、詮索はしまい。此処で出会った、強い瞳をした優しい子ども達。俺にとって、お前達とはそれだけだ」
その名を聞いて、何となく察する。されど深くは追及しない。それを誰も望んではいなかったから。
エドムンドは少年少女に背を向けて、前に向かって歩き出す。不器用な男が口にするのは、巌の様に武骨な言葉だ。
「ついてこい。此処では、何をするにも手狭だ。その服も、動き辛いだろうしな」
そうして、移動したのは領主の豪邸。その中庭にある訓練場に、鋼鉄の鎧が置かれていた。
「これは鎧、ですか?」
「……中に、人型の水風船が入っている。これから見せる技を、覚える為の道具として、過去に作らせた物だ」
男装と女装を止めた少年少女。彼らに向かって、エドムンドは呟く様な声音で告げる。これより彼が教えるのは、数少ない男の切り札が一つである。
「教える、とは言った。だが俺に出来ることなど、そう多くはない」
元より男は小手先の技術より、単純な力を求めて鍛えて来た。自己の肉体を強化して、全力で殴る。それが男に出来ることだ。
それでも、ごく稀にだが物理攻撃が通じない相手も居る。そうした敵に対処する為、覚えているのが数少ない特殊な格闘技術。
「だから、これ一つだ。たった一つを、伝える。お前の望みからは、そう遠くはないだろう技術だ」
人型の鎧を前に、男は拳を握る。技を使うのは本当に久し振りで、失敗しないかと少し不安になって来る。
小細工の類は得意ではなく、技を使えば体力の消費も唯殴るより大きくなる。そうであるが故に、もう何年も使っていなかったのだ。
「すぅぅぅぅはぁぁぁぁぁ――」
それでも存外、肉体は技を忘れない物だ。息を吸って、闘気を練りながらにゆっくりと吐く。それだけで、身体は思い出していく。
腰だめに引いた右の腕。その掌に練り上げた闘気が集束していく。そして滑車を思わせる様な動きで、前に出した左腕を引き右腕を突き出した。
「ふんッッッ!!」
拳が鎧にぶつかり、素手で打ったとは思えない程の轟音が響く。まるで大砲。鼓膜を破りかねない程の音に、セシリオとキャロは揃って耳を抑える。
そんな彼らの前で、振り抜いた腕を下ろすエドムンド。その身体はたった一撃を放っただけとは思えぬ程、彼は全身から大量の汗を流して、肩で荒い呼吸を幾度も繰り返していた。
それでも、鎧は変わらずある。轟音が鳴ったなどまるで嘘の様に、その場から一切動かずに立っていた。
「はぁ、はぁ……。中を、空けて、見ろ」
それに疑問を抱いたセシリオとキャロが、耳に当てていた手を離したことを確認してからエドムンドは告げる。
確認してみろと、言われて近付いていく二人。鎧に手を当て、軽く叩いたりしながら、水風船から鉄の鎧を外していった。
「……鎧は、傷一つねーな」
「風船も、傷一つないです。けど――」
そして二人は驚愕する。その中身は余りにも、常識からかけ離れた状態であったのだ。
「ああ、水がぐるぐるって。今にも風船が中から破裂しそうなぐれーに、もの凄い勢いで渦巻いてる。これでどうして、割れてねーんだよ」
人型の風船が、異常な形に変動している。中にある水が暴れ回って、膨張と収縮を繰り返しているのだ。
薄いゴムの風船は、針で突けば割れてしまうであろう物。それがどうして、こんな状態になっても保たれているのか。戸惑う二人に、エドムンドは説明した。
「浸透空掌。これは、闘気を打ち込み、望んだ物だけを、砕く一撃。……硬い鉄も、薄いゴムも、傷一つ付けずに、中の水だけを荒らした」
掌に闘気を集束させ、其処に意志で特殊な性質を加える。特定の物にのみ影響を与える様に、変じた闘気で狙った物を射抜いたのだ。
セシリオが望んだ、本気で打っても人を殺さない技。狙った物を必ず砕き、それ以外に一切の影響を与えない空の掌。これこそが、彼に教えられる唯一の技である。
「望めば、中身に傷一つなく鉄を砕くことも、鉄に傷一つなくゴムだけを引き裂くことも、実に容易い。活かすも殺すも、自由自在だ。人死にを望まぬならば、そう打てば良い。全力で仕掛けても、意識を奪うだけで済むだろう」
人に使えば、血肉も骨も傷付けず、生命力だけを攻撃できる。逆も然り、生命力以外を選んで壊すことも出来る技。
これで人の意識を打てるようになれば、セシリオが望んだ様に不殺の切り札となるだろう。武骨な言葉で語る男は、不器用な笑みと共に告げる。
「やり方を、教えよう。一人で、練習する方法も、教えよう。大会までの数日、付き合ってやる。それで覚えられなければ、それまでだ。……だが、守れる様に、なるのだろう。なら、為せる様に、なってみせろ」
「応! よろしく頼むぜ、チャンピオン先生!」
望む力を、示してくれた。そんな巨大で優しい男を見上げて、輝く瞳でセシリオは言葉を返す。
不器用ながらも出来る限りは付き合うと、そう語ってくれている男。彼の教えをしっかりと学び、成長する事こそが何より重要な事。
そうと理解して、真剣に話を聞くセシリオ。そんな少年の手を取り教え導きながら、エドムンドは不器用に微笑み続けていた。
そして、翌日の朝。遂に本選トーナメントが発表される。ずらりと様々な名が並ぶ中、エドムンドは表情を硬くする。予想はしていたが、それは余りに悲惨な物であった。
初戦は良い。それなりに名の知られた程度の相手だが、負ける可能性は零に等しい。しかしその後に続く準決勝、そして決勝戦の相手が最悪だ。優勝候補がそのままに進むのならば――――準決勝の相手は、セニシエンタ。そして決勝戦の相手は、エレノア・ロス。
準決勝と決勝は、同日の内に行われる。技を一つ使うだけで息が荒れる程に衰えた自分が、果たして連戦に耐えられるのか。
男は一人、掌を見詰める。其処には、どす黒い液体を内包した硝子の瓶が。エドムンドはそれに対する扱いを、まだ選ぶことすら出来ずに居る。