一時閉幕
今回は上手く切れなかったので、ちょいと何時もより長めです。
……二次創作時代から思うが、続けてると一話辺りの分量が増えてっちゃうのが自分の欠点だなぁ。
◇
如何に時間を回帰させ、人の記憶を改竄したとしても残る物はある。例えば魂に刻まれる程に鮮烈な想いであったり、或いは変わってしまったということ自体への僅かな違和であったりと。
差異は必ず生じてしまう。ならば仮に、記憶改竄に抗えるだけの実力があるのだとすれば。真っ向から、綱引きが出来る程の力は無くて良い。襲い来る津波から堤防の影へと、逃げ出す程度の力があれば――その者はきっと、変わる前を知覚する事が出来るであろう。
「……うっそ~。超広域の完全治癒魔法に、物体の修復魔法。魂の浄化と蘇生魔法を集団に掛けた上、時間軸への干渉と記憶操作を詠唱破棄でやれるって、何その出鱈目」
衣服と言うのも烏滸がましい、露出の激しい布に覆われた褐色の肌が寒さに震える。無論、外気温が低くなったなどと言う事実はない。
唯、この褐色の女は自覚出来るだけの力を有していた。アマラと言う女は世界最高峰の魔法使いが一人であればこそ、起きた事象の途方もなさを認識する。
そうとも、稚児に言葉で語ろうとも伝わる事はない。愚者に高尚な理論を語り説明しようと、理解できるならばそもそれを愚者と呼ぶ事など出来はしない。
下地がなければ、如何なる物も理解出来ない。理解をするには、理解できるだけの器が確かに必要なのだ。そしてこの女には、その下地があった。要はそれだけの話である。
「アマラちゃんでも、蘇生とか時間の操作やるなら、高価な触媒一杯使って~、その上で一週間は色々準備しないといけないのにぃ、一瞬とか~。あ~、もうむぅりぃ~、アレ格違い過ぎるんですけどぉ」
理解する事と、可能である事。それらは決して、等号で結ばれる事はない。理解出来てしまうからこそ、その途方もなさを認識する。
凡人が天才との差を正しく理解し、決して勝てないと心折れて絶望する。そんな領域の話ですらない。地を這う蟻の一匹が、空に輝く月の巨大さを認識してしまった様な物だ。それ程の断絶が、其処には確かにあったのだ。
ヘロネ・ゴーシオと言う遠い地から水の神殿を呪い尽くし、そしてその場に居た者らを一方的に叩きのめした。そんなアマラでさえ、悪竜王の魔法を一部再現する事だって難しい。
金に物を言わせて最高峰の触媒を大量に集め、一週間は魔力を貯蔵し続けて、大規模な儀式を行う必要があるだろう。其処までしても、恐らくは街の一区画程度の規模での時間操作が限界だ。
或いは時間操作ではなく、蘇生の方ならどうなるか。それとて、肉体に傷一つなく、魂が汚染されていない状態で保管されており、数百人の人間から死ぬまで魔力を搾り取って、それで漸く一人か二人の蘇生が限界なのだ。
明らかに消費と供給が釣り合っていないが、それはアマラの資質だけが問題と言う訳ではない。
本来、そういう物なのだ。壊す方が治すよりも遥かに容易い。時間操作もまた同じく、加速や停止よりも回帰の方が難度が高い。
単純に考えて、街一つを完全修復するよりも、大陸一つを海に沈める方が遥かに簡単。大陸一つを消し去るよりも高度な術法を、悪竜王は詠唱すらせずに為したのである。
それが神と言う物。人の概念から生まれたとは言え、まぎれもない神格だ。神とは崇め奉るモノであれば、人が競える域に存在している筈がない。
「リオン、アレとやるのぉ~? むぅりぃ、絶対むぅりぃ~。けどぉ、リオンの事だからぁ、その位は気付いてるだろうしぃ~。その上で、負けが前提でぇ、それでも喜んでぇ、自爆特攻とかしそうだしぃ~。絶対私も巻き込むだろうしぃ~。……あ~、テンション下がるぅ~」
襲い来る改変の津波から、逃げる様に転移した呪術師アマラ。アジトの一つに飛び込んで、誰も居ない床を転がりながらに思考する。
この記憶改竄に対処出来たのは、恐らく自分ともう一人。少なくとも、この大陸でそれだけの資質を持つのは、アマラを除けば灰被りの猟犬だけだ。
彼はきっと理解している。彼女は恐らく分かっている。決して勝てないと、抗う事すら無駄なのだと、それ程の断絶があるという事を。
それでも、彼は喜々として挑むのであろう。彼女は歓喜の笑いと共に、自ら死地に飛び込むのだ。当然、灰被りに付き従う両腕もまた巻き込まれる。彼が、或いは彼女が、是と言うならば全てが是となるのだ。
しかし、ああそれでも怖いのは変わらない。人が挑むべきではないと、その事実は揺るがない。
今直ぐにも逃げ出したいが、けれどリオンの命令は絶対だ。そんな二律背反を抱えて、七転八倒するしかないのが現状だった。
そうしてゴロゴロゴロゴロと、転がり続ける褐色の美女。なまじ見た目だけは良い故に、余りにもシュールなその光景。
アジトの入り口へと繋がる隠し階段から降りて来た白と黒の少年は、その姿に目を見開く。数秒程硬直した後、彼は何もなかったかの様に口を開いた。
「ただいま」
「あ~、ルシオ~。おかえり~」
血管が薄っすらと見える程に、色素が薄い肌をしている。特殊な染料で染めた髪を、腰に届く長さにまで伸ばした少年。
全身黒か白しかない。そんな黒き白貌を地面から見上げて、アマラは面倒そうに口を開いた。同時にその髪を見て、僅か思考する。
根本近くが、本来の色である白に戻りつつある。恐らくは、先の一戦で使い過ぎたのだろう。染色が剥がれかけていた。
その染髪剤は、アマラが作った特注品だ。もう少し髪を短くしてくれれば作業も楽になるのだが、伊達や酔狂で伸ばしている訳ではない以上無理な話であろう。
そうとも、この人形の様な相方は、伊達や酔狂と言った言葉から最も遠い。アマラが知る限り、これ程に遊びがない人間など他にはいない。
黒き白貌のルシオ。その真髄はアマラの同質にして真逆。互いに弱い者虐めが得意と言う点では同じだが、ルシオのそれは対人に特化し過ぎていた。
例えば、この今この瞬間、ルシオは何時でもアマラを殺せる。そう言われても、何ら不思議ではないとアマラは考える。
それこそ彼がその気になれば、アマラは死んだ事にすら気付けぬ内に終わるだろう。だがだからと言って、アマラはルシオを恐れない。
恐れても無駄だと、相方だからこそ良く知っている。そして何より、互いにリオンを絶対視する者同士。彼の不利になる事は、決してしないと信じているのだ。
「ただいま、アマラ。っていうか、今日はダウナーなんだね」
「アマラちゃんは~現実に~打ちひしがれているのですよ~」
「そうなの? どうでもいいや。それより、リオンは?」
「相方が無関心過ぎてつらぁい。あ、リオンも少し前に、帰って来てるわよ~」
遊びが過ぎるアマラに対し、ルシオは遊びが無さ過ぎる。多くの物事に無関心なこの少年にとって、アマラの奇行など思考する価値もない事。
故に、比較にならない。彼が今逢いたいのは、彼にとっての全てである灰被りの猟犬。母であり姉であり父であり兄であり師である人に、今直ぐに会いたいのだと目が口程に物を言う。
そんな彼の問いに対して、アマラは間延びした声で怠そうに返す。彼女も今来たばかりであるが、しかし嘘を言ってはいない。
アマラはこれで小心者だ。そんな彼女が逃げ場と選ぶのは、最も安心できる場所。即ち、彼女にとっての絶対者が居る場所以外にはないのだから。
「今は~、お楽しみ中~、みたい~? 中央で~、護衛している間~、あんまり殺せなくて~、ストレス溜まってたじゃないの~?」
「ふ~ん。何時も通り、地下でやってるのかな?」
「多分~、そ~う。……あ~、会話ってぇ、面倒~」
欠伸混じりに探知魔法を発動して、何処に居るかを察知する。予想に反する事はなく、リオンは地下の部屋に居る。
其処は彼の遊び場所。其処は彼女の玩具箱。命を捕える牢であり、命で遊ぶ実験場であり、命を奪う処刑台に他ならない。
今もまた、誰かが苦しんでいるだろう。今もまた、誰かが弄ばれている。そんな事に気付きながらも、心を痛める善人などはこの場に居ない。
「まだ少ししか喋ってないじゃん。間延びしてて聞き難いし。そんな風に直ぐ鬱になるから、アマラは根暗だって言われるんだよ」
「……相方に駄目だしされた。もうだめぽ」
「そう。別にどうでもいいけどさ。俺、リオンの所に行ってるから、戻ってくる前に顔でも洗っておいたら? 根暗のアマラでも、少しはマシになると思う」
「毒舌過ぎる~。心が傷付いた~。なので~、アマラちゃんも~、地下に行きま~す。リオンに~慰めて~貰わないと~」
「え? リオンが慰める? 寧ろ傷口に喜々として塩を塗り込むタイプじゃないの、あの人?」
「言ってみただけですぅ~。アマラちゃんは~一途な女なので~、虐められるなら~、ルシオよりも~、リオンにされたいんですぅ~」
「ふ~ん。まぁ良いけどさ。煩くしたり、逆に鬱引き摺ってうざかったら、頭弾くから」
「相方が酷過ぎる件。人事に相談が必要ですな」
「人事権を持つリオンなら、良いぞもっとやれ、としか言わないんだろうね」
「なんてこったい」
軽い言葉を交わしながら、彼らは地下へと歩いて進む。地下室へと近づく度に、見知らぬ誰かの悲鳴が大きくなろうとも、彼らは決して止まらない。
少年の持つ死んだ魚の様な瞳は冷たいままで、女の纏う腐った生ゴミの様な気配は一切変わらず、彼らは日常の如く言葉を交わす。それこそ確かな異常であろう。
そうして、彼らは程なく地下へと至る。その扉を開いた瞬間、誰かの命が弾けて飛んだ。
「ひ、ひぃぃぃッ!? た、たす、助け――」
火薬が弾け、鉛の玉が飛び出す音。扉の先にある鉄に囲まれた四角い部屋。その内側で弾けた頭蓋が、まるで柘榴の様な亀裂を晒す。
弾けた頭の中身を零して、男の身体が崩れ落ちる。硝煙を噴き上げる鉄塊を手の中で遊ばせながら、血染めのローブが嗤っている。
「おいおい、逃げるなよなぁ。罰ゲーム受けねーのは、ちょいとルール違反じゃねぇの。って、もう死んでりゃ聞こえねぇか。駄目だねぇ、亭主さん。奥さん助けないでぇ、それでも玉ぁ付いてんのかよ?」
崩れ落ちた中年男性の死体を、踏み付けながらに嘲笑う。そうして彼は、或いは彼女は、もう一人へと顔を向けた。
「その辺どうよ、奥さん? 実際コイツ、玉無しだったん?」
「あ、ぁぁ、いや、いやぁ」
「おいおい、嫌々じゃ分かんねぇよ。言葉分かります? 言っている意味が分かりますかぁ?」
倒れた男の顔は分からず、だが年はそう離れていないであろう。そんな女は腰を抜かしたまま、涙と鼻水で歪んだ顔を必死に振るう。
偶然にも運悪く、外道の遊び道具に選ばれた一般市民。そんな彼女はたった今に死した連れ合いに縋り付くでもなく、殺した狂人へと言葉を紡ぐ。
それは憎悪ではない。それは憤怒でもない。そんな感情など生まれる余裕は既にない。彼女は唯、生きたいのだ。
それしか考える余裕はなくて、そうするにはどうすれば良いかだけを必死に考えて、故に彼女は縋り付く。夫を殺した、下劣畜生の足元へと。
「た、助け、助けて」
「えー、助かりたいのー。連れ合いは先に逝っちまったけど、それでも一人で助かりたいのかよ。許さないとかぁ、殺してやるとかぁ、何かねぇーの」
「お願い助けて! 何でも言う事聞くから! 助けてくれるなら、私なんだって――ッ!!」
愛はない、と言う程に冷めてはいない。それでも、愛するが故に死する事も辞さないと、それ程に燃え上がっても居なかった。
女と男の関係性などその程度。極々平凡でしかない愛情と、熟したが故の倦怠感が確かにあった。そして、言い訳が出来てしまう余地もある。
彼女の夫は間違えた。この外道が出した悪辣な二者択一を間違えて、罰を受けると決まってしまった。
そうなった瞬間に、男は一人で逃げたのだ。扉に向かって、自分一人でもと。先に裏切ったのはあちらなのだから、女が死人に殉じる義理もあるまい。
助けてくれるのならば、靴の裏でも嘗め回そう。見逃してくれるのならば、何であろうと差し出そう。
縋り付く女の姿はみっともないが、しかしとても必死である。そういう必死な表情が、何より灰被りの好みであった。
「ん~、やっぱ良いよなぁ、これ。惚れて結ばれた男より、自分の命が大切ってよ。そういうの、俺は大好きだぜ? 西だと滅多に居ないレアだからよぉ、見付けると何か嬉しくなっちまう」
西の住人は、何故だか如何にも頭の回りが悪くなる時がある。生きる事よりも、誰かに殉じる方が大事だと、そう狂う気質を持つ。
まるで誰かに、そう呪われているかのように。彼らは己の感情に従って、必ず破滅の道を選ぶ。中央の出である灰被りには、とんと理解が出来ない感情だ。
だが同時に、配下とするならこれ程に便利な輩は居ない。適当にマッチポンプで状況を整えてやれば、彼らは心の底から忠義を誓う。
全てが上手く行く訳ではないが、そういう奴の処分もまた簡単だ。水の誓約があればこそ、適当に嵌めてやれば勝手に死んでくれるから楽で良い。
だからこそ灰被りの猟犬は西の人間を便利だと思うし、だからこそリオンと言う人物にとって西の人間とは玩具しても詰まらない存在だった。
それでも、こうして遊んでいると偶にだが、如何にも気質が違う者が見付かる。呪いの効き目にも個人差があるのか、如何にも西にらしからぬ者が見付かるのだ。
それを見付けた瞬間と言うのは、中々に喜ばしい。まるでアイスの当たり棒を見付けた時の様に、開いたカードパックに珍しい物が混じっていた時の様に。
或いはガチャガチャを回して最高ランクの物が出て来た時の感動と言った方が、当世風で伝わりやすいだろうか。兎角、彼女の反応はそういう貴重品の類であって、リオンにとっては最高の玩具であったのだ。
「まぁ、どうでも良いんだけどな。ってかよぉ。どうすれば助けてやるか、親切丁寧に教えてやっただろう? ちゃぁんっとその通りにすりゃぁ、助けてやるって最初から言ってんじゃねぇか」
「ほ、ほんとう、本当に、それで」
「何度も言わせんなよ。面倒くせぇなぁ? さっさと答えねぇと、気が変わっちまうかもしんねぇぜぇ」
「こ、答える。答えるわ。答えるから、殺さないでッ!!」
これは遊びだ。灰被りの猟犬が気紛れで為す、誰かの命が掛かった遊び。答えを選び取れたのなら、助かるという遊び。
女の連れ合いは失敗した。彼女の夫は間違えた。だから背を向け逃げ出して、その頭を撃ち抜かれた。だが、彼女にはまだチャンスがある。
彼女は間違えてはいないし、灰被りの興味は此処に残っている。だからこそ助かると、助かる道があるのだと、彼女はそう信じ込む。
全てがこの下劣畜生の舌先三寸であると気付かずに、いいや気付きたくもないのだ。人は見たい物だけを見て、知りたい事だけを知りたがる生き物なのだから。
そんな必死に、自分は助かるのだと信じる心。何としてでも生きて此処から逃げ出すのだと、そんな姿に笑みを深める。実に実に実に実に、それは灰被りの好みであった。
「ん~、Excellent。良いねぇ、良いねぇ、その表情。血みどろの地獄の中で、自分は何をしてでも助かろうと考えている。そんなお前は今、今までの人生の中で最も生に執着している。命の終わりが目の前にあるから、安寧の日常を心の底から求めている」
裏切られたとは言え、嘗て愛した人を殺されて、それでも必死に乞い縋る。浅ましく、醜く、生に執着した姿。
それを美しいとは言えないだろう。それを素晴らしいとは言えないだろう。だがそれが真面目でないと、真摯でないと、一体誰に言えるのだろうか。
この瞬間に、生きたいのだと考える。其処に余念は一切無ければ、それは何より真摯な祈りであろう。灰被りの猟犬はそう考える。
「普段は安穏と過ごしていた日々が、どれ程に大切だったのか。今、すっげぇ実感してんだろう? この一瞬、きっと誰より真面目に命と向き合ってんだよなぁ」
死を思い、死にたくないと思うから、生の尊さを其処に知る。足りていれば分からない、足りなくなるから分かるのだ。
彼女は今、生の価値を真に知った。当たり前にあった物の尊さを、此処で確かに理解した。ならば生きる為に必死な姿は、真面目に生きていると言えるのだろう。
そんな彼女の耳元へと、唇を近付けて囁き掛ける。灰被りの猟犬が此処に行うのは、より自分好みにする為の味付けだ。
「考えてみろよ。此処から無事に帰れた時の事を。命の危機が過ぎ去ってぇ、生きてる事の素晴らしさを、全身で余す事なく感じる事が出来る瞬間を」
現実から逃避したがっている彼女の耳に、囁く言葉は正しく毒だ。追い詰められた女は思う。助かった瞬間に感じるであろう解放感を。
必死に生きたいと、そう願って、果てに助かる。その瞬間に得るであろう快感は、予想するだけでも濃厚なのだ。恐怖の余り失禁して濡れていた衣服が、違う意味でも濡れていく。
麻薬の様な快感を、言葉に魔法で込めて囁く。そんな灰被りの猟犬には、あり得ぬ未来を夢見てトリップしている女の気持ちが、手に取る様に分かった。
何故なら、彼もまた同じだったから。彼女もまた、女と同じだったのだ。戯れに囚われて、気紛れに壊されて、果てに得た解放感に今も酔い痴れているのがこの下劣畜生なのである。
「解放のカタルシスって奴だ。これを知らねぇのは勿体ない。喜べ愉しめ今を真摯に生きて行け。たった一度の人生なんだ、真面目に楽しく生きねぇでどうするよ」
生まれはもう覚えていない。物心付いた時には、既にある貴族の屋敷で飼われていた。愛玩用の奴隷として、弄ばれて壊された。
そんな貴族は、雇った傭兵に裏切られて殺された。ならば灰被りが自由になれたかと言うと、それも違った。柄の悪い傭兵達も、灰被りを性の捌け口としたのだ。
貴族に愛玩されるだけあり、容姿はとても整っていた。顔から下はぐちゃぐちゃだったが、首から上には傷一つなかった。
だから、傷を見なければ使う事に否はない。グロテスクだ、気持ちが悪い、そんな風に嗤われながら、彼、或いは彼女は遊ばれ続けた。
そんな日々を送る中、彼女は学習を続けた。文字も言葉も計算も、何も出来ないけれど人の顔を見続けて学び続けた。
物心付いた時から考えていた。どうすれば、人は喜ぶのか。どうすれば、人は悲しむのか。何をすれば、人に求められるのか。そうした果てに、彼は動いた。
傭兵の新米を、まだ色を知らなかった一人を誑かし、己の虜にしてやった。そしてその人物を利用して、傭兵団より武器を奪った。
そして、反逆を開始する。真面に考えれば成功する筈がない博打であったが、しかし彼には才があった。故に彼女は成功してしまったのだ。
誰も彼もを殺し尽くして、虜にした愚鈍すらも嬲り殺して、その果てに青い空を見上げた。何処までも何処までも透き通っていたその空は、とてもとても美しかった。
「生きるって事は素晴らしい。生命って奴はとても素敵だ。だから俺はよぉ、愉しまねぇ奴が嫌いだ。愉しめよ、こんなにも世界は喜びに満ちている」
彼は気付いたのだ。彼女は理解したのだ。己はこの景色を見る為に生きていた。これまでの苦しみは全て、この瞬間の悦楽の為だけにあったのだ。
そう考えてしまえば、嘗ての苦痛すらも愛おしい。ああ、何と素晴らしい人生だ。世界にはこんなにも素晴らしい喜びがあって、ならば生きているとはどれ程に尊い事なのだと。
その瞬間の歓喜に酔った。痴れてしまう程に虜になった。だからこそ、今の彼はこうなった。だからこそ、彼女はもう終わっているのだ。
「だから、コイツは俺からの贈り物だ。確かな善意であるんだぜ? それを証明する様に、俺の課した条件はくっそ簡単だろう?」
震える身体を優しい手つきで愛撫しながら、耳元で囁く言葉を続ける。お前にもこの悦楽を知って欲しいのだと、その言葉に嘘はない。
誰も彼もが、生きる事に真摯となれば良い。こんなにも素晴らしい景色が直ぐ傍にあるのに、それが分からないなんて悲し過ぎる。それは紛れもなく、リオンの本心であった。
「質問に答えろ。その答えがあってれば、お前たちを解放してやる。とても単純な二択だ。んで、テメェの連れ合いは間違えた。ならもう、答えは一つしかねぇよなぁ」
女の肩に手を回し、抱き締めながらに優しく語る。言葉はとても優しいが、浮かべた笑みは歪んでいる。
そんな表情に気付けない女は、何度も何度も頷き返す。彼の言葉に嘘はなく、彼女の想いに嘘はない。そう感じられる程に真摯な声であったから、もう助かるのだと確信した。
助けて貰える。幸福な日々がもう目の前にある。そう確信した女はにこやかに笑って、そんな彼女に向かって灰被りは問い掛ける。
「さぁ~て、問題です。俺の性別は、男でしょうか? それとも女でしょうか?」
それは余りに単純な二択。一人が間違えたのならば、残るは正解しか存在しない。だから女は確信と共に、その答えを口にした。
「女! 女よ! だって、あの人は男と答えて殺されたのよ! だったら貴女は――」
「はい残念。罰ゲーム」
「…………え?」
カチャリと、冷たい物がこめかみに突き付けられる。何を言っているのか、何をしようとしているのか、分からないと呆気に取られる。
そんな無様を晒した女に、灰被りの猟犬はニコリと嗤う。とても美しい容姿をした彼は笑って、そして彼女は手にした凶器の引き金を引いた。
乾いた音と共に、女はその命を終える。最期まで呆気に取られた顔を晒したまま、そんな女の死体に唾を吐きかけながら、灰被りは腹を抱えて嗤うのだった。
「正解はぁ、どっちでもありませんでした~ッ!!」
ケラケラゲラゲラ、堪えられないと嗤い続ける。ケタケタワハハと、涙が零れる程に嗤い続ける。悲しくて、悲しくて、腹が捩れてしまいそうな程に悲しかったのだ。
「ん~、良いねぇ。その助かるって確信してたのに、何で殺されたのか分かんねぇつー顔でくたばっちばうの。素晴らしい命がくっそ軽くなるのが、ほんっとゾクゾクすんだよなぁ」
言葉に偽りなどはない。偽りがあったのならば、あれ程に真に迫った想いは語れない。リオンは真実、命を素晴らしいと思っている。
世界はこんなにも美しいし、それを誰にも知って欲しいと感じている。だが同時に、それが叶わないと言う残酷さ。素晴らしい物が腐って台無しになる一瞬を、リオンは心の底から愛している。
生きる事が素晴らしければ素晴らしい程、ゴミ屑の様に死ぬ瞬間が輝いて見える。己の想いに共感してくれた理解者が、居なくなる悲しみに胸が躍る様に高鳴る。
まるで恋する乙女の様に、熱い息を口から吐く。恍惚として余韻に浸る血塗られたローブの姿を見詰めて、扉の前に立っていた灰被りの両腕たちはその首を傾げるのであった。
「……あれ、リオンって女じゃないの? 前に奴隷だった頃、穴に溶けた鉄棒を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃにされたって言ってたよね?」
「え~、アマラちゃんは~、男って聞いてますよ~。奴隷時代~、棒と玉を切り落とされて~、自分の睾丸を食わされたってぇ、笑いながら言ってた筈ですけど~」
先の悪趣味な二択。男か女かと言う問いかけ。リオンに最も近い腹心たちですら、その解答が分からない。
互いに口にした内容と、食い違いに気付いて首を傾げる。己の主が嘘を吐く理由などはないが、相方は虚言を言っているとも思えない。
ならばどちらが正しいのだろうか。揃って首を傾げて考え込んだ後、共に至るは解答は同じく。分からないのならば、本人に聞けば良いのである。
『…………ねぇ、本当はどっち?』
「あぁッ!? どっちだったかなんざ、忘れちまったよッ!! ってかどうでも良いだろ、んな事よぉ」
余韻を無粋な問いに打ち壊されて、何処か不機嫌そうにリオンは答える。それでもちゃんと答える辺り、彼なりに二人を特別視してはいるのだろう。
事実、彼はもう忘れている。彼女は性別なんて、どうでも良いと考えている。元より子宮も精巣も残っていなかった身体だ。
魔法で全身を作り変えてしまう事に拒否感はなく、三大欲求が満たせるならば形すらもどうでも良いと考えている程。そんな意識しかないのだから、首から下が元はどうだったかなど、もう彼にも分からないのだ。
「割と重要じゃないの? リオンが男だと、俺がホモ経験した事になるし」
「そうよね~。アマラちゃんは~、大手を振るって~、レズじゃありません~って、言ってみたいのです、まる」
「そりゃお前ら、偏見だろ? 同性愛者だって、愛に真摯に生きてんだぞ。真面目に生きてる奴を馬鹿にするのは、一番やっちゃいけない事だぜ」
『え、リオンがそれ言うの』
「俺は馬鹿にするんじゃなくて、褒め称えながら台無しにするからノーカンだっつーの」
死体が転がる牢獄内で、交わす言葉は似つかわしくない程に軽い物。どうでも良い語りに嗤って、リオンは死体の上に腰を下ろす。
頭が砕けた男の身体を椅子の代わりに、跨り座りながらも表情を変える。下らぬ遊びの時間はこれにて終わり、これから先はもっと愉しめる遊びの時間。祭りの準備を始めるのだ。
「ま、どうでも良い駄弁りはこんくらいにしておいて、だ。――折角テメェらが自発的に揃ったんだ、良からぬ悪だくみでも始めようじゃねぇの」
標的は万夫不当の悪竜王に守られた、小さく儚い少女が一人。悪竜王が沈黙している今、彼女を攫うのはとても簡単だ。
そうでなくとも、彼の怪物の性根は知れた。だから仮に彼が健在であったとしても、欺き躍らせるだけならばどうとでもなるだろう。
だがしかし、それでは詰まらない。仕事だろうが、過程にも拘らなければ勿体ない。派手な祭りに出来そうなのだ、楽しまなければ意味がない。
そも、灰被りの猟犬が北の獅子に従う理由がそれだ。ディエゴと言う男は、見ていてとても愉しいのだ。
与えられる仕事も、得られる結果も、そして彼自身の生涯やその苦悩ですら、全てが愉しいから従っている。
故に、唯仕事を果たすだけでは意味がない。折角あれ程の怪物が居るのだ、舞台に上がって貰わなくては詰まらない。自爆を恐れて一線から退くというのなら、衆目の中で派手に爆発させてやろう。
結果として、悪竜王と言う怪物が、無様に踊る姿が見れるのも良し。逆に己の思惑を暴かれて、果てに殺されるのもまた良しだ。
ディエゴから与えられる仕事は何時も、とても愉しく出来るのだ。だからきっと、今回だって愉しくなってくれるだろう。その時の為に、祭りの準備を始めよう。
「さぁ、一度切りの人生。リセットボタンは何処にもなしだ。ならば精々、派手に愉しく、真面目に生きて逝こうじゃねぇの、お前たち」
真摯に悦楽を求める灰被り。彼女は生きているだけでも幸福を感じているが、彼はそれ以上を常に求めている。
猟犬たちが狙っている。冷たい瞳の白貌が、腐敗臭を漂わせる呪術師が、生命賛歌を語る外道が、ヒビキ達を狙っていた。
◇
大渓谷を乗り越えて、西方北部へと辿り着く。最初の一歩を踏み出して、軽いステップの後に身体を半回転。
猫の尻尾が軌跡を描き、振り返った少女は笑みを浮かべる。晴れやかな表情で、ミュシャは口にする。その内情はしかし、浮かべた表情の真逆であった。
「生ぞ~ん戦りゃ~くッ!」
「おぉ~」
「別に合わせなくても良いんだぜ、ヒビキ」
彼女に続いて、北部へと渡り来る仲間たち。下から上る皆とは違い、上からふわりと降り立ったヒビキは両手を叩く。
皆が此処に合流する。西方南部を乗り越えて、西方北部に到達した。しかしその表情は、やはり一様に冴えない物。ぼんやりとした一人を除いて、誰もが理解出来ていた。
状況は悪い。前途は多難であって、自分達は決して万全などとは語れない。皆の顔が曇るのは、疲労だけが理由じゃないのだ。
「ノリが悪い奴らはさて置いて、状況も色々変化して来た事だし、ここらでそろそろ予定の見直しが必要にゃよね」
「……見直しって、何やるんだよ。ミュシャの姉ちゃん。北を目指すのは、変わんねぇだろ?」
「と、こんな風に何も考えてなさそうにゃ頭悪い意見が出ましたので、先ずは現状確認の為に色々並べてみましょうにゃ。はい、先ずヒビキ!」
軽いノリで口にする、そんな仕草の所々に感じる寒々しさ。明らかに無理をしていると、それは誰にも分かるであろう事。
それでも、盛り上げていかなくては胃や頭が痛くなる。そんな出来事ばかりがあったから、そして何も解決してはいないから、ミュシャは此処で提案するのだ。
先ずは足場を固めよう。互いに理解を深めよう。そうした意図で、ミュシャは指差し示す。ピシリと指で差されたヒビキは、ぼんやりとした思考のままに言葉を返した。
「え、と。アリスは、もう暫く、動けないと思う。アカ・マナフも、僕が無理しなければ、出て来ない。……変わりに、僕ももう、暫くは、戦えない、けど」
長い髪の半ばまで、黄金に染まってしまった悪なる竜。内側のアカ・マナフの肥大化は一端止まってはいるが、それも何時まで持つか分からない。
アカ・マナフから瘴気を引き出せば、確実に彼は肥大化する。そうでなくとも、誰かに悪意を抱いてしまえば、明確な害意を有しただけでも、その浸食は進むだろう。
もう吐き出す事は出来ない。万全と言える状態でなかったとは言っても、あれ程の被害になったのだ。容易く切り捨てるなど出来はしまい。
そうである以上、ヒビキは最早動けない。この現状が大きく変わる様な何かが起こるまで、魔法を使えない所の話ではなく、戦う意志を示す事すら出来ないのだ。
最高戦力が、完全に封じられてしまった。そんなヒビキの言葉にうんうんと、ミュシャは頻りに頷き思考を進める。
色々残念ではあるが、それでも素晴らしい事もある。特に大魔女が動けないと言う辺りが素晴らしい。
仕留めきれなかった事や、アカ・マナフの浸食増大など、悪い要素は二つもある。それでも大魔女撃破が素晴らし過ぎる戦果なので、ミュシャは一先ず良しとした。
「はい。悪いニュースが二つ。良いニュースが一つ出ましたにゃね。次はエレノア!」
「あ? お前も一緒に居ただろうに、何で俺が。……まぁ、ぶっちゃけて言えば、俺らの方は襤褸負けしたな」
空元気ではなく、個人的に良い事を聞けたので意気を高める。そうして次には流れる様に、ミュシャはエレノアを指差した。
指摘されたエレノアは、面倒そうに髪を掻く。それでも言われた通りに説明を行うのは、彼女の性根の真面目さを証明していた。
「西の獅子ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェと、その腹心である灰被りの猟犬。そいつらどころか、その猟犬の手下相手に手も足も出なかった」
「……ミュシャの姉ちゃんの話が本当なら、ルシオの奴も、あのアマラってのの仲間、なんだよな」
「…………兄さん」
「はい。そこのガキども、無駄に暗くなるにゃよ! ウジウジしたいのは、ミュシャも一緒にゃ。けど、そうしている暇はないにゃよ」
そんなエレノアの説明にミュシャは二度頷いて、無駄に沈み込む年少組の頭を軽く叩く。
彼らの気持ちも、分からなくはない。片や実の兄が、片や初の友人が、あんな外道の仲間だった。そういう悪性を、許容する人間だったのだから。
それでも、沈み込む事に意味はない。空元気でも出してみせ、兎に角進んでみせねば無駄となる。時間は恐らく、それ程に残されている訳ではない。
「此処で一番重要なのは、アイツらの目的にゃ。精霊王殺し。そんな事をやられたら、何が起こるか分からんにゃ」
「一応、影響を最小限に出来ると連中は考えてるみたいだけどよ。消える直前の精霊王の様子を見る限り、碌な事にはなりそうにねぇよなぁ」
アマラが外道であるとか、ディエゴの望みの正当性など、正直に言えば何ら重要な事ではない。
冷たい意見となってしまうが、セシリオやキャロにとっては無視出来ない事であっても、ミュシャにとっては極論どうでも良い話である。
問題は、彼らが四元の一つを滅ぼそうとしている事だ。精霊王は星の化身であり、彼女らが死すれば該当する要素が未来永劫消滅する。
水の精霊王メアリーが滅ぼされれば、海は干上がり、湖は窪地に変わり、雨は永劫降らなくなる。この星に存在するありとあらゆる水が消え去ってしまうのだ。
それを維持したまま、水の精霊王を弑逆する方法を探していたのだろう。そうして無数の思索の果てに、見付け出したのだろう。
水の血族による呪詛。命を代価とした術式。それを以ってすれば、世界を滅ぼさずに水の精霊王だけを打ち破れる。彼らは本気で、そう確信して行動している。
その真偽、ミュシャにも分からない。彼女の瞳で呪詛を生み出す術式を見れば分かるだろうが、其処に至るまで確証などは何もない。
一歩間違えば、彼らの見込みが甘ければ、この星から水が失われる。ありとあらゆる水が消滅してしまえば、此処は死の大地と化すだろう。
「とにかく、事の次第はどうあれ、放ってなんておけないにゃ」
「まぁ、だろうな。世界規模で何が起こるか分かんねぇのに、食い止めないって選択肢はねぇだろうよ」
故に見逃すなどは出来ない。如何なる正当性があるとしても、食い止めないと言う道がない。少なくとも、その本質を暴くまでは。
そして、ミュシャもエレノアも、碌な物じゃないのだろうと辺りを付けている。あれ程に必死だった水の精霊王。彼女の存在こそが、一握の不安を残していたのだ。
「そう、だな。俺も、ルシオに聞きたい事が出来た」
「はい。私も、です。兄さんの真意を、他に術がないのかを、話合ってみたいと、思います」
「ま、その辺は全会一致だろうにゃね。ミュシャ達は此処まで逃げて来たけど、これからは腹を括って戦う為に行動するにゃよ」
食い止める。そう決めたのなら、為すべき事は変化する。それは逃げ回る事ではなくて、敵の懐へと自ら踏み込み戦う事に他ならない。
敵の首魁と、顔を合わせる機会は必ずやあるだろう。面と向かって何故なのかと、問い質す機は必ずある。ならばこそ、此処に皆の意見は一致した。
戦うと決めた。そう、戦う事を決めたのだ。星の滅びと言う最悪の可能性。それを食い止める為に、西方の獅子に真っ向から挑むのである。
「……っても、やる事は変わんねぇんじゃねぇのか? ヒビキが戦闘不能になっちまった以上、俺らだけで仕掛けるなんて道も無くなった訳だしな」
「そうにゃね。基本的な方針は変えらんないにゃ。冒険者ギルドを味方に付ける、それは大前提にゃね」
逃走を主目的としていた今までと、為す事が変わると言う訳ではない。戦うと決めても、それだけの力が今はない。
悪竜王が動けぬ以上、個の質も軍の数も負けている。そのどちらかを、或いはその両方を、拮抗させなければ戦いにすらならない。
故に為すべきは変わらない。冒険者ギルドを味方に付ける、その目的は変わらない。違うのは、其処に籠った必死さと時間制限の二つである。
「けど、その過程を変えるにゃ。確実に味方して貰わないと詰むんにゃから、これからはちょっと危険を犯していくにゃよ」
「何を、するんですか?」
これまでは安全策を取っていた。もし万が一冒険者ギルドが敵に回っても、この大陸から逃げて北方大陸入りすれば良いのだと。
だが、精霊王殺しを行わせる訳にはいかない。そうである以上、北に逃げると言う選択肢は無しだ。絶対に、冒険者ギルドは引き込まねばならないのだ。
これから先、相応のリスクを自ら負っていく必要性がある。追われているから街を離れると、そんな選択肢すらも選べない。
「此処から北、西方北部に入って直ぐにある闘争都市ゲレーリオ、其処で行われる大闘技会。これは予定通りにゃけど、エレノアにはせっしーときゃろっちを連れてって貰うにゃ」
「俺が、二人を? ってか、その間テメェとヒビキはどうすんだよ」
「西方北部最東端のリントシダーに行く心算にゃ。目標は、海底大迷宮の調査にゃね」
冒険者ギルドを味方に付ける方法は、ギルドにとって貴重な人材であると認識させる事。とにかく大きな功績が、目に見える形で必要なのだ。
そしてこの西方大陸で、功績稼ぎになりそうな要素は二つ。その二つの内どちらかで、成果を上げなくてはならない。必ずや、失敗などは許されないのだ。
一つは闘争都市ゲレーリオ。此処から程近い、西方北部の玄関口とも言われる大都市。其処で行われる大武闘会こそが、名を上げるに最も効果的な檜舞台。
もう一つは臨海都市リントシダー。その街にある海底遺跡こそが、西方最大のダンジョンと呼ばれる大迷宮。未だ最深部まで、誰も到達した事がない未踏の遺跡。
闘技会は一週間に渡る日程で行われる。リントシダーの海底遺跡も、熟練の冒険者が腰を据えて年単位で攻略を考える様な場所である。
どちらも、時間が掛かり過ぎる。精霊王殺しにどれ程の時間的余裕があるのか、中央の内乱が起こるのは何時になるのか、兎角この今は僅かな時間が重要だった。
だからミュシャは、二手に分かれようと言うのである。その言葉に一定の利を認めて、しかし内訳に気付いたエレノアが不満そうに睨み付けた。
「って、ちょい待て。……何自然と、二人っきりになろうとしてるのよ」
「にゃっはっは。これも役得っつーか、役割分担にゃよ。海底大迷宮の事前調査にゃら、ミュシャが一番向いてるにゃ。闘争都市にはエレノアが行かにゃいと意味ない訳にゃし、せっしーにも良い刺激となるにゃ。……それと、きゃろっちはその、移動手段的に付いて来れなさそうだしにゃ」
「移動手段? って、あ」
好いた相手と、恋敵が二人きりになろうとしている。その事実に嫉妬していたエレノアに、ミュシャは乾いた声で笑いながらに言葉を返す。
移動手段の問題と、言われてエレノアも気が付いた。時間的に急がねばならない以上、移動手段には拘れない。兎に角早い移動法をとなれば、今はこれ以外に術がなかった。
「謎の生き物も、転移も使えにゃい。けど、ヒビキに抱き抱えて、ダッシュして貰うだけにゃら、大丈夫にゃよ。戦闘しなきゃ、問題にゃい訳だし。現状では、最高速度にゃ。……ミュシャの尊厳は確実に、ナイアガラリバースするけど」
いくら戦闘不能な状態とは言え、移動まで出来ない訳ではない。魔法や権能は一切使えないし、他者に悪意を抱くだけでも浸食が進んでしまう。
それでも体力や体術は、まだ健在なのだ。だからこそ、現状で選べる最高速度の移動手段はこれ一つ。ミュシャをヒビキが抱え込んで、今出せる全力でリントシダーまで走って貰うと言う物である。
確実に揺れる。それも生半可ではないだろう。常は防風の魔法を使っているが、今はそれすら使えない。
音越えの速度を出されてしまえば、ミュシャは音の壁に激突する。流石に其処まで早くはならずとも、ジェットコースターが観覧車に感じられる程度の速度は出る筈だ。
ウジャトの瞳は既に告げている。一番早い方法を選ぶ代償は、ミュシャの尊厳であるのだと。彼女のヒロイン力を犠牲にして、移動時間の短縮は漸く叶うのであった。
「……うん。良いよ。二人っきりで、少しくらい抜け駆けしても、私、許せるから」
「その菩薩の様にゃ瞳が憎いにゃ。マジでお前、半周以上遅らせてやるから、覚えとけにゃよ」
明日の今頃にはきっと、彼女は街の片隅で嗚咽を続けているであろう。その光景が明確に浮かんだから、エレノアは慈母の如き笑みで受け入れる。
素の言葉使いで恋敵を応援する姿に、ミュシャは青筋を額に浮かべる。とは言え、時間がないのは事実である。だからこそ、他の移動手段は選べなかった。
「んじゃ、決まりって事で良いのか?」
「私とセシリオが、エレノアさんと一緒に、ゲレーリオですね」
「其処で俺が闘技大会に出て、闘争王エドムンドをぶちのめして知名度を稼ぐ」
今後の予定は定まった。危険を犯すと分かっていても、時間が足りないからこそ、此処でパーティを二つに分かつ。
エレノア率いる闘争都市組。ヒビキが戦闘不能な今、戦力の殆どを集めた組み合わせ。アキレス健であるキャロを、確実に守れる戦闘班。
「その間に、僕がミュシャを、リントシダーって言う所まで、連れていく」
「んでミュシャが、海底大迷宮の調査を進めながら、お前らが合流するのを待つにゃよ」
もう一つの組み合わせは、移動と探索特化の組み合わせと見て良いだろう。
誰かに悪意や敵意を抱く事も真面に出来ない、そんなヒビキが移動手段と逃亡手段を兼任する。
そして本命となるミュシャが、智慧の瞳と言う反則技を使って遺跡を丸裸にしていく。攻略に必要な物を、予め揃える為に先に行くのだ。
「闘争王を倒せれば、ギルドもA級判定を出さねぇ訳にはいかなくなる」
「そっちで失敗したとしても、前人未踏の海底遺跡の最深部にまで行ければ良いにゃね。どっちかを達成するか、どちらもで相応のリターンを得るか。そしたらピコデ・ニエべを経由して、コメルシャデソルへと向かうにゃ」
可能ならば、どちらかで目的の達成を。それが不可能な場合でも、双方で相応のリターンを得ていれば可能性は十分にある。
例えば闘技会でベスト4以上に残り、海底遺跡で貴重な宝物を見つけ出す。その程度の評価でも、後は口八丁手八丁で如何にか出来る。ミュシャはそう自負していた。
そして、少なくともその程度の功績がないと信用はされないとも分かっている。そうする以前に、ギルドに行っても時間の無駄だ。
如何に精霊王殺しが危険とは言え、ヒビキらは賞金首なのだ。その信用性は、十羽一絡げの冒険者にも劣るであろう。そんな言葉では、大企業との敵対などは選べない。
賞金首であることを撤回させた上で、精霊王殺しを信じさせる。それが絶対に為さなければならないことで、それをする為にはやはりエレノアのA級昇格は必須条件と言えるのだ。
「コメルシャデソルでギルドを味方に付けたら――」
「いよいよ連中の本拠地、ノルテ・レーヴェ」
冒険者ギルドと協調し、ノルテ・レーヴェへの攻勢に出る。A級の信頼性で、精霊王殺しの話を持ち込めば、ギルドも確実に動くであろう。
A級とは、実質的な冒険者の頂点だからだ。AAA級は勇者にのみ贈られた永久欠番であり、その次であるAA級とは次代のギルド長の証明。故にこそ最高位階であるA級なら、ギルドも決して無碍には出来ない。
だが動いてくれたからと言って、果たして何処まで役に立つか。不安は確かに残っている。質と言う面で、灰被りの猟犬一人に劣る可能性だってある。
それでも数と言う面では、優位に立てると言えるだろう。個として競い合える者は居なくとも、軍としてギルドは優秀だ。冒険者ギルドは、西方にとっての軍事力なのだから。
西方大陸の企業連合は、軍と言う組織を持たない。それを代替しているのが、冒険者ギルドと言う巨大な組織だ。
ノルテ・レーヴェ程の企業ともなれば、灰被りの猟犬の様な私兵を抱え込んでいる。それでも私兵に過ぎぬから、数と言う面ではギルドに劣ってしまうのである。
「先は長いですけど、やる事は見えて来ましたね」
「ああ、一つ一つ達成しながら、俺らは強く成っていけば良いんだよな。師匠」
「応、その息だ。……私も次は、遅れを取らないわ」
前途は多難で、しかし道の先は見えた。何処に向かえば良いかが分かるなら、其処に向かって歩けば良い。
決着の日はまだ先で、しかしそれ程に遠くはならぬであろう。西の旅路はもうじき半ば、残る大地は半分なのだ。
「けど、実際、どうなってるんにゃね。この大陸」
けれど、やはり不安は拭えない。考えれば考える程に、この大陸はおかしいと感じてしまう。
嘗て安寧の地を抜け出して、外を目指した冒険者たち。彼らはどうして楽園の中を飛び出して、地獄の中を渡り歩いて行ったのか。
そして、そんな彼らが築いた国。この西方商業者連合に何故、水の誓約などと言う余りにも噛み合い過ぎる呪いが存在しているのか。
「明らかにおかしいにゃよ。水の誓約って、昔は単純に考えてたけど、よくよく考えてみたらおかしいにも程がある代物にゃ」
「本当に、性質悪ぃよな。致命的な形で噛み合っちまってる。此処が西でなけりゃ、こんなに酷い被害は出てなかっただろうによ」
合理的な判断を出来なくなった時、牙を剥いて襲い掛かる呪詛。若き獅子が消し去りたいと、そう願うのも分かってしまう呪い。
助けたいという想いこそが、自らを破滅させると言う。誰かを助けたいと想える西の民ならばこそ、その呪詛は誂えた様に組み合うのだ。
「……マリーアは、何故この様な呪いを」
「キャロ。気にすんなって、……そんな風には、言えねぇけどさ」
己の祖の罪を、嘆く少女に向ける言葉。それは慰めの言葉、と言う訳ではない。
慰めたいという気持ちがない訳ではないが、今のセシリオが強く感じているのはそうではない。
「けど、なんだろ。何かズレてるって感じんだよ」
「セシリオ?」
「あの時、うん。あの時だ。俺が死に掛けた時、感じたんだよ。あったかいって感覚をさ」
彼は一度死に掛けた。その果てに蒼の力に繋ぎ留められ、再びこの地に舞い戻る。その時に、確かに感じていたのである。
それは温かいという感覚。優しい母に抱き締められた時の様に、確かな慈愛が籠った水を感じた。そうとも、太母マリーアは愛している。
「実際、見た精霊王は、何つーか、堅物っぽい感じって言うか。優等生然とし過ぎた、頭堅そうな見た目だったけどさ。……それでも、あの人、あったかい感じがしたんだよ」
彼女は子らを、子らと寄り添う人々を、確かな愛で見守っている。堅物過ぎる気質はあるが、それでも慈愛を有していた。
そんな存在が何故、と。そうとも感じるズレは即ち其処だ。水の誓約と言う呪詛が持つ悪辣さと、何処までも結び付かないのだ。
「なぁ、あんなに人を優しい目で見守れる人が、本当に水の誓約なんつー呪いを、この状況を意図して残したのかな?」
「……少なくとも、水の誓約自体は精霊力で成立してるにゃ。あの方が何かを考えて、呪いを残したのは間違いないにゃよ。だけど、何を望んだのかまでは」
だから、何かが違うのではないか。そう語るセシリオに、ミュシャはその首を横に振る。
水の誓約は、間違いなく精霊王が残した物。その事実は変わらずに、ならばこの状況も意図した物であったのか。
きっと違う。その裏にはきっと、更なる悪意が存在している。ヒビキはそれを、それが為せる存在を、確かに知っていたのである。
「多分、これもアイツの仕込みだと思う」
「アイツ? そう言えば、大魔獣を初めて見た時も、何か言ってた様な」
「アイツは、何時もそうだ。最悪の形で噛み合う様に、予め罠を仕込んでいる。人の善意が空回りする様に、ボタンの掛け違えで破滅する様に、色んな呪いを世界に撒いてる」
「……ヒビキ。知っている事、にゃんでも良いから、教えてくれるかにゃ?」
精霊王は何かを求めて、今とは違う誓約を作り上げたのだろう。そしてそれを、彼の存在に利用された。
西の民たちは何かを目指して、楽園から旅立ったのであろう。だがきっとそれすらも、彼の者にとっては予定調和でしかない。
この世界が生まれた瞬間から、あれは世界の全てを呪っていた。幻想の世を遥か高見より見下ろしながら、全てを操るその存在。彼の者の名は、即ち――
「邪神マリク=アングラ・マイニュ」
名を言葉に紡いだ瞬間、胸の中で悪意が広がる。ぞわぞわと、髪の色が変わっていく。
だから瞳を一旦閉じて、落ち着く様に深呼吸を繰り返す。騒めく感情を鎮めると、ヒビキは知った事実と己の予想を言葉として此処に語った。
「僕ら五大魔王を生み出した魔術の極みたる概念神で、……多分だけど、神威法を極めた実存神でもある」
単一の神格ではあるまい。それにしては、余りに彼は強大に過ぎる。何よりも、彼は神威法を知っていたのだ。
或いは、東国にそれを与えたのも仕込みの一つであったのだろう。余りにも遠大過ぎる視野を持つ、彼は全知全能に限りなく等しい重複神格だ。
「此処はアイツの箱庭だ。僕らはアイツの傀儡だ。――今は、まだ」
今は未だ、誰も神の掌から出てはいない。飛び出した瞬間に、処分されてしまうであろう。嘗ての勇者、神に殺された結城恭介と同じ様に。
「けど、何時か。何時までも、アイツの思惑通りになんてさせはしない」
それでも、何時までも唯々諾々とは従わない。踊り続けるのは止めだ。いつか必ず届くと信じて、立ち向かっていかねばならない。
「その為にも、今はこの悲しい争いを止めよう」
何故ならば、この地は遍く呪われている。あの邪神に魅入られている限り、此処に救いなんてない。
悲しい戦いは続くだろう。誰かの為にと想った心を、利用されて破綻する。そんな日々が永劫に、続いてしまうだろう。
水の誓約も、悪辣な罠に染められた一つであろう。それが誰かを傷付けた事で、他の誰かが血涙を流しながらに怨嗟を叫ぶ。
きっとそれさえも、その先さえも、その呪詛からは抜け出せない。掲げた正義に殉じた為に、誰もが破滅する結果だけが残される。
だからこそ、何時か超えねばならぬのだ。絶対に立ち向かい、果てに勝利を得ねばならない存在なのだ。
「悲しい戦いを終わらせよう。空しい改革を止めてみせよう。そうする事できっと初めて、僕らはあの邪神の思惑に打ち勝てるんだ」
今は未だ、届かないのだとしても――何時かきっと、この手を届かせてみせる為に。
この今は、悲しい戦いを終わらせよう。当事者たちは泣いていて、外道だけが嗤っている。そんな改革を止めてみせよう。
彼の邪神の為した思惑。内のたった一つに過ぎずとも、此処で食い止め破綻させる。それこそが、目指すべき勝利の形であるのだ。
〇今回のまとめ
・灰被り一派が合流。本格的な暗躍を開始。生きてるだけで最高さ、の人生葉っぱ隊な灰被り殿。けど殺人快楽中毒でもあるので、生きてるだけで他の人にはくっそ迷惑とか言う外道。
・ヒビキ一行が北部到達。パーティを二分割。現在の戦力はエレノア組に一括され、ミュシャヒビキ組は探索逃走特化と言う絶妙な布陣。
・今までチラホラ顔見せしていた邪神さん、遂に名称が割れる。概念神であり実存神でもあるとか言うチート。真っ向から戦うと、暴走状態のヒビキ君でも瞬殺されます。