中央にて 欠片の三
◇
中央大陸にある一つの領地。聖都から北東に、大きく外れた辺境の地。其処に建つのは、貴族の邸宅としては質素に感じられる洋館。
昨今では珍しい善政が敷かれた領地。経営手腕が見事とは口が裂けても言えないが、領主は筋金入りの善人である。
故に人々の顔には、貧しいながらも笑みが浮かんでいる。皆が貧しいのだから、己も節制しなくては。そう言う人物こそが、この地の領主だ。
能力がない善人。そんな彼は当然の如く、王党派に属している。実力面でも性格面でも、大臣派には合わない者だった。
そしてそんな人物だからこそ、王党派の指導者である男の懐刀。ヨアヒムにとって一番信用の出来る、そんな領主であったのだ。
窓から見る景色を前に、クリフは一人想いを浮かべる。南から戻って直ぐに起きた出来事と、此処に来るまでにあった物事を。
出頭命令に従って中央へ向かい、船を降りて直ぐの事。港町を包囲していた聖騎士団から向けられたのは、無数の敵意と鋭い刃。彼らが掲げる理由は、とても薄く軽い物。
最南端の騎士、シャルロット・シュヴァリエは瘴気に汚染され魔物と化した。故に即刻にも浄化せねばならない。
だが、その貢献は確かな物。これまでの聖王国への忠誠に報いる為にも、慈悲深き教皇陛下は異端審問を決定したのだと。
クリフもシャルロットも、異端審問の悪辣さは知っていた。出頭命令に従えば最後、生きては帰れぬと理解した。
故に彼らは包囲網を突破すると、そのまま姿を隠し潜んだ。古き友であるヨアヒム。彼の派閥であると確信できる、そんな知人を探し歩いた。
友の配下に保護されて、この領地へと移された。そんな旅路の過程でクリフとシャルロットは、王国の現状を目の当たりにした。
十年。口にすれば僅かな時も、現実の物として流れれば大きな変化を生む物。この聖王国と言う大国は、最早形容する事も出来ぬ程に腐り果てていたのだ。
飢えて死ぬ民が居る横で、貴族が食べ掛けの物をゴミと捨てる。不当に妻を奪われた農民が、己より下の立場である亜人の娘を襲う光景。その程度なら、余りに可愛らしい物。
飢饉が起きた村が納税出来ないからと、男を殺して女を売る。領主がそれを平気で行い、結果として滅んでも気にしない。特に理由もなく、人を獲物に狩りをする貴族たち。それを誇らしく喧伝している姿を余りに多く見た。
貴族が民を殺し、民が亜人を食い物にする。そうしなければ、貴族も民も生きられない。そんな国。
父母が娘を奴隷と売り、聖職者が奴隷を買い、犯し壊して捨ててしまう。そんな光景が、当たり前でしかない国。
絶叫が響く街中を、誰もが平然と歩いている。ゴミと同じ様な扱いで、街の角には使い潰された奴隷が当たり前の様に捨てられていた。
その余りにも破損が酷い身体を見た時、クリフの瞳から流れる涙は止まらなかった。これ程までに腐り果ててしまったかと、それに気付かなかった自分が余りに情けなかった。
旅路の中で、クリフもシャルロットも剣を振るった。助けられる人を助ける為に、助けられないとしても戦おうと。
救えた命は確かにあった。救えなかった命の方が多かった。それでも国は変わらない。この腐った国は余りにも、巨大に過ぎたのだ。
一人では変えられない。二人でも足りていない。義憤を燃やして立ち上がろうと、変革を為すには余りに遠く、立ち上がるのが遅過ぎた。
一人では変えられなかった。二人でも足りていなかった。そんな国に友を一人残していたのだと、彼は今になって漸くに自分の不甲斐なさを嘆いていたのだ。
「クリフ」
そんな彼へ、懐かしい声が掛けられる。窓から振り向いた先に居る男の声だと、顔を見る前に分かっていた。
それ程に、近い間柄だった。勇者や聖女と同じくらいに、彼ともう一人の友人は大切な戦友だったのだから。
「ヨアヒム」
名を呼ぶと、何処か嬉しそうに。盲目の男は笑みを浮かべる。近付いてくる黒髪の男、名をヨアヒム・マルセイユ。
嘗てはクリフォード・イングラムとオリヴィエ・ロスの二人と並べて、聖王国が三英傑と称された古い戦友が其処に居た。
「部下から保護に成功したとは聞いていたが、心配していたのだ。本当に、逢えて良かった。久方振りだな、戦友よ」
「……ああ、そうだね。随分と久しぶりだ、戦友」
「ん? 何だ、久し振りだと言うのに、歯切れが悪いな。クリフ」
「いや、色々とあったし、色々とあるから、さ」
言葉に語った様に、再開するのは久方振りだ。凡そ十年、クリフがこの地を追放されて以来、逢ってはいなかった。
懐かしいと語る彼と同じく、クリフも喜ぶ情は確かにある。それでも素直に喜べる程に、抱えた物は軽くはなかった。
だからこそ、感じる情けなさを隠す様に。何処か歯切れ悪く答えるクリフ。
友の言葉に頷く様に、過去を想うヨアヒム。確かに彼が言う様に、色々な事があったと今更になって実感していた。
「……そう、だな。色々と、合ったな」
「戻って来て、思ったよ。随分と、本当に随分と――この国は悪化していた」
「すまん。力不足だった」
「いいや、君の謝る事じゃない。君が居て、それでもこんな形になってしまう。元からこの国は、寿命を迎えていたんだろう」
クリフの言葉に、ヨアヒムは目を伏せる。この地に残っていたたった一人の英雄は、腐敗を止められなかった事を悔やんでいる。
仕方がない事だった。クリフは追放され、ヨアヒムも実権を奪われた。名声だけで如何にか出来る程、ダリウス・ローガンは容易くなかった。
彼の人物はあれで非凡な者である。政治と言う分野においては、他に類を見ない程の傑物だった。
故にこそ政敵はほぼ全てが潰され、残るはヨアヒム一人のみ。そんな状況に追い込まれた彼が、一人で腐敗を止められる筈がなかったのだ。
「それに、謝るべきなのは私の方だ。……エレノアちゃんの為とは言え、最悪の時期に抜けてしまった訳だからさ」
「……公人としては、確かに思う所はある。お前が居ればと、思った事は一度や二度じゃない。だが実を言うとな、私人としては少し違う。ロスの――オリヴィエの娘をお前が守ってくれた。その事には、確かな安堵と感謝を抱いてもいるんだ」
寧ろ彼の努力が、経済の悪化を助長した。大臣を如何にか食い止めた事で、有象無象の貴族が横行する事を止められなかった。
そしてヨアヒムは気付いていないが、無能姫の暗躍も確かにある。己の愛する男と添い遂げたいエリーゼにとって、それを阻むこの国は枷でしかない。
故に彼女は、外患を誘致して国を滅ぼす為に動いていた。その過程でどれ程に人が苦しみ死のうとも、恋に狂った無能な姫は分かろうともしないのだろう。
皮肉にも、ヨアヒムの存在が悪化を促している一面があった。
彼がダリウスを止められる程に強くなければ――
彼がエリーゼに恋心を抱かれる事がなければ――
彼がディエゴをエリーゼと逢わせようとしなければ――
この国はもう少しだけ、マシであった事だろう。それでも、所詮は誤差であったのかも知れない。
聖王国は、長く続き過ぎたのだ。もう当の昔に寿命を迎えていて、後は腐るだけだったのだろう。この国の救いなんて、世界の何処にもありはしない。
「一つだけ聞かせてくれ。……ロスの娘はどうなった?」
「エレノアちゃんの事なら、大丈夫さ。彼女は強く育ってくれたし、傍らには頼れる男の子が居てくれてる」
「そうか。それなら良い。お前の十年は、無駄ではなかったのだな」
悪い話ばかりがある。そんな彼らに共通した明るい話題は、友の遺した忘れ形見に対しての物であろう。
エレノア・ロス。空将ヨアヒム。最南端の騎士にして、雷将とも呼ばれたクリフ。両者に共通する戦友である、刀匠にして闘将オリヴィエ・ロスの一人娘。
その子が健やかに育っていると聞き、ヨアヒムは確かな笑みを浮かべる。
嘗てはロスの屋敷に住み込んでいたヨアヒムにとって、赤子の頃におしめを変えた事もある少女は友の娘と語る以上の存在だった。
「そんなに気になるんだったら、一度くらい逢いにくれば良かっただろうに。それと、エレノアちゃんよ。名前で呼んであげなよ」
「情勢が許さなかった、と言うのは言い訳だな。……私には、合わせる顔がない。無論、その名を呼ぶ資格もな」
そう。ヨアヒム・マルセイユは嘗て、ロス公爵家で日々を過ごした。彼にとって彼ら一家は、家族にも等しい友だったのだ。
「大恩あるロス公爵家。記憶を無くし、死に瀕していた私を拾ってくれた彼らには、本当に言葉で表せない程の恩がある」
気が付けば、森に一人倒れていた。賢狼の森と呼ばれる其処は、勇者が最初に冒険をした場所であり、ロス公爵家の領地であった。
そんな森に一人、記憶を無くして彷徨っていた男。亜人の血を引く特徴を持つ彼を、オリヴィエ・ロスは笑って受け入れた。豪胆にも、素性の知れぬ彼を己の友としたのだ。
オリヴィエに拾われ、ロス公爵家で日々を過ごした。共に切磋琢磨し、才気に溢れていた彼と同じく、ヨアヒムもあっという間に成長した。
実力はあれど、その瞳が故に多くの者に拒まれた。そんな彼を受け入れて、臣下としたのは先代国王。今尚忠義を誓う王と同じくらいに、友は大切な者だった。
彼が降嫁した王妹と婚姻を結んで、故に二人の邪魔をしない為に距離を置いた。そうして離れている時間の内に、彼らの間に娘が生まれた。
その子が三つの齢に起きた第二次人魔大戦。アリス・キテラの襲来と共に、ヨアヒムは視力を失った。
それでも王家に拾われて、より一層に忠誠心を強くする。そんな彼が幼いエリーゼにロスの娘を重ねたのは、代償行為であったのだろうか。
少なくとも、両者には血縁がある。故に何処か似ていると、目が見えない彼でも感じ取れたのだろう。
それでも、胸に抱えた忠義は確かな本物だった。王と王の娘を守り抜こうと、盲目の男は確かに心に誓ったのだ。
「だと言うのに、私は彼らを――友とその妻子を救いに行けなかった。ましてや、その犠牲に隠れる様な形で、台頭した下らぬ男だ」
助けに行こうとは思った。友の窮地を前に、立ち上がろうと決意した。だがしかし、彼の腕は既に埋まっていた。
行かないでと縋り付く、エリーゼの姿に決意が揺らぐ。この魔境と化した王国で、姫を置いて動けばどうなってしまうかと。
恐怖に震える彼女を寝かしつけ、どうするべきか悩み迷った。それでも行こうと思った時に、運悪く発作を起こしてしまった。
大魔女に呪われて、彼の身体は衰えていた。意識は連続せずに、時折記憶が飛んでしまう。気絶する程の苦痛に耐えかね、意識を手放してしまう。
そうして、目が覚めた時には全てが終わっていた。ロスの夫妻は殺されて、一人娘が孤独な形で逃げている。
間に合わなった男は其処で迷いを抱いて、それでも身を引く小さな腕に止められた。その手を握り返した時に、男はもう一人を切り捨てたのだ。
「そんな愚物が、どの面を晒して逢えば良い。あの幼子の名を、どうして呼べると言うのだ。結局何を言おうとも、国の為、王の為、姫の為、私はあの子を切り捨てたのだよ」
ヨアヒムは知らない。幼いエリーゼはあの日の時点で、既に歪んだ情を抱いていた事を。
彼女が震えていたのは、自分よりも従妹であるエレノアを選ぶのではないかと不安だったから。それ以外の恐怖などはなかった。
ヨアヒムは知らない。国を守ろうと言う王への忠義と、彼の子の内、最後に残った子を守ろうとする想い。それが矛盾している事を。
エリーゼは無能と呼ばれるが、それでいて知性に溢れる者だ。いと高き人々の直系である彼女は、まるでその呪詛を引き継いでいるかの如く、誰よりも聡明だったのだ。
故にこそ、彼女は画策した。ダリウス・ローガンの動きやすい状況を整えて、自分以外の王族を彼に殺害させた。全ては唯、たった一人の男の特別になりたいが為だけに。
ヨアヒムは知らない。彼は知らないのだ。何時も何時も間違えて、最悪の選択ばかりを選んでしまっている。
守りたかった全てにとっての敵は、ダリウスだけではなかった。そんな簡単な事実でさえ、彼の盲いた目には映らない。
「私に出来る事など、陛下への忠義を貫く事だけ。ロスは切り捨てた。ならば、それは為さねばならんだろう」
間違い続ける彼にとって、エレノアは既に死んだ者。生きていると知って安堵はしたが、優先順位としては国が上。
そんな風に考えている。そんな風に決意した。故に彼女の事など二の次であり、そんな考えをしている男が逢ってはならない。それが筋合いだろうと、ヨアヒムはそう想うのだ。
「ロスと守った。お前と守った。陛下が愛した。そんなこの国を、民の命を、明日に繋いでみせる。それだけが、私に残った生きる意味だとも」
逢わないと、逢ってはならないと、そう決意し断言する。そんな彼の決断は、しかしきっとこれも間違いだったのだろう。
きっと何かが変わっていた筈だった。もう少し早く、ヨアヒムがエレノアに逢っていれば、結末はもう少し救いがあったのかも知れないから――
けれど、何時もヨアヒムは間違える。だからこそ、空将と言う男の末路は最悪の形で終わるのだろう。
「見ない間に、随分と堅物になったもんだね。若き日に浮名を流した、プレイボーイは何処に行ったんだい?」
「お前こそ、随分と軟派になったものだ。人の事を言えんだろうさ、その有様ではな」
所詮は神ならぬ身。そんな未来を知らぬ彼らは、懐かしむ様に話題を変える。重い空気を払拭するかの様に、茶化す様に語るのだ。
「そうかい? ま、必要だったからねぇ」
「そうだな。私も必要だったんだよ。女遊びに現を抜かしていられないくらいにはな」
「……もしかして、あれから一度も女遊びしてなかったりするの? あのヨアヒムが? マジで女日照りなの? 明日は槍でも振るんじゃない!?」
堅物だった騎士は笑う。嘗て盲目でなかった頃、男はロスの所領で最も名の知れた遊び人であったのだ。
女と見れば声を掛け、フリーならば口説き落とす。その手腕は見事と言うしかない物で、一時期は数十人の女性と同時に関係を持っていた。
コイツ、何時か刺されるんじゃないか。そんな風に戦々恐々しながらも、誠実になれと苦言を呈した事は一度や二度じゃない。
だが実際に女遊びを止めた姿を目にすると、まるで世界の危機が迫っているかの様に思えてくる。終末の予言もかくやという物だ。
「抜かせ。純度の高い物とは言え、ヴァン・ブラン・ルミエールを一杯飲んだだけで潰れていた貴様が、酒を大量に飲んでいたという報告を受けた時の私の驚愕が分かるか? 自暴自棄になって、自殺未遂をしたんじゃないかと本気で心配したんだぞ!?」
軟派な遊び人だった男が笑う。余りに杓子定規とし過ぎていた堅物騎士。彼の変化は余りに大きい。
嘗ては酒の匂いだけで酔っ払い、一杯飲めば意識を無くしていた程の下戸だった。そんな彼に一体何があれば、こんなにも飲兵衛になれるのか。
最早人体の神秘と言うべき程であろう。真面目に解剖してみたい誘惑を感じながらも、茶化す様に笑い飛ばす。
それ程に変わったお前に、己の変化を指摘される謂れはないと。そうとも、互いに逢わない時間で、互いは余りに変わっていたのだ。
「ははっ」
「ふっ」
「変われば、変わるもんだねぇ」
「互いに、な。十年と言う時は、存外に長い物だ」
「それでも、時が経とうが、変わらない物もある。例えば、互いの友情、とかさ」
「何だ、クリフ? 何とも、青臭いセリフじゃないか」
「そうさね。けど偶には良いんじゃないかな?」
「……ああ、そうだな。偶には良いだろうさ」
それでも、変わらない物もある。そんな絆は確かに残っているのだと、僅かな時間で確かに知れた。
故に彼らは笑うのだ。嘗ての様に、今も笑う。希望なんて見えなくて、国は腐り果てていて、それでも一緒に笑うのだ。
「この国は、もう末期なのかもしれない」
クリフが語る。ヨアヒムが頷く。最早国家は末期を迎えて、死ねず腐り果てている。
「この大陸は、もう滅んでしまった方が良いのかもしれない」
人々は苦しみ、誰もが壊れて、そんな国。そんな大陸。
滅びた方が良いのだろう。誰に言われずともに、きっと誰もが分かっている。
「だけど、友が守った国なんだ。ならば、何も遺さずに終わらせる訳にはいかないだろうさ」
それでも、友が守りたいと願った国。間違い続けたヨアヒムが、それでも確かな忠義を今も抱く国。
終わるとしても、せめて何かを遺したい。そう想うのは、友達だから。きっと確かな友情があるから、クリフはこう語るのだ。
「私も協力するさ。ヨアヒム。お前が守ったこの国を、何か残していく為にさ」
「……ああ、ありがとう。本当に、心強いよ。クリフ」
クリフの言葉を受けて、込み上げる想いがあると実感する。盲目の瞳が開いていれば、瞼は涙で潤んでいただろう。
忙しい中、無理をしてでもこの場に来た。その判断は間違っていなかった。きっと正しかったのだと、ヨアヒムは確かに安堵する。
(本当に、良かった。これで、後は託せる。友と過ごした日々の欠片を。仕えた王が娘の一人を。明日に遺していけるだろう)
彼が抱えた問題は、国に関わる事だけではない。彼自身の身体も最早、限界が近付いてしまっている。
意識が飛ぶ頻度が増えて、血を吐く回数もまた増えた。眠っている時間が長くなり、身体も自由に動かなくなってきている。
大魔女に呪われたあの日から、覚悟していた終わりの日。それはもう遠い先の未来ではないと、彼は何となく察していたのだ。
(後は頼むぞ、クリフ。……私はもう、余り持たないだろうから――)
故に、後を託せる友が居る。此処で共にあろうと誓ってくれた。そんな彼が居る。
その事実がヨアヒムにとっては、何にも代えられない程に大きな救いとなっていたのだった。
「それで、話は変わるんだけどさ。――ヒビキ君と、シャルちゃんの件は、どうなるんだい?」
一頻り語り合ってから、クリフは話題を変える。再び話題は暗い現状へと、話したくなどないが話さない訳にもいかない内容だった。
「……シャルロット・シュヴァリエは、宗教裁判自体を有耶無耶に出来た。騎士爵の剥奪は免れないだろうが、処刑の可能性はなくなったと見て良いだろう。タイミングを見て、こちらの派閥に正式に取り込む心算だ」
その問い掛けを耳にして、先ず最初にヨアヒムが語ったのは比較すれば良い話。クリフが過ごす部屋の隣、其処に保護されている女騎士シャルロットの案件だ。
最初は執拗なまでに追及していた聖教側だったが、より重要な案件が入り込んで来たからだろう。最早シャルロットの件には執着しておらず、故に存外軽くその問題は解決出来た。
とは言え、流石に魔物化した彼女に騎士爵を与え続ける事は不可能だった。爵位の剥奪と引き換えに恩赦を得る。纏まったのは、そんな形の結論だ。
対して、渦中の話題となった悪竜王。ヒビキ・タツミヤ=アジ・ダハーカに関しては何も出来ない。今のヨアヒムが如何にか出来る領域を、既に超えた話となってしまっていた。
「悪竜王の件は…………すまない、私では流れを変えられん」
「君でも、か」
「ああ、西の獅子は随分と腹芸が得意らしい。私が保証せずに反対に回ろうとも、聖教が動けるだけの状況を整えられていたよ」
獅子に脅され、一度は悩んだヨアヒム。だが彼は、その脅しには屈さなかった。約定を違える形で、議会で語ったのだ。
悪竜王は所詮、騙りに過ぎないだろう。もしも本当に魔王ならば、聖都は既に襲われていたはずだ。故に勇者は必要ないと。
目の前で、約定に反したヨアヒム。彼の言葉に反発するだろうと思われた西の若獅子は、しかし優雅な笑みを浮かべたまま。
激昂どころか、真面な反応すら見せないディエゴ。その理由を理解したのは、ヨアヒムの発言に対し議会全体から批判が飛んだ瞬間だった。
前以って、仕込んでいた。脅されていたのは、ヨアヒムだけではなかった。時に鞭で、時に飴で、多くの者らを陥落させていたのだ。
大臣も同じく、聖教も同じく、評議会の者たちも皆同じく。彼の若き獅子の手に踊らされ、聖王国は勇者召喚を決定した。最早その決定は揺らがない。
「勇者召喚は避けられない。悪竜王討伐は、必ずや為されるだろう。少なくとも、我が国はその為に動かなくてはならない。そういう形で、意志統一が為されてしまった」
「……今、論点になっているのは、召喚された勇者を誰が召し抱えると言う事辺りかい?」
「そうだな。召喚直後は聖女様が預かる形で決まったが、その後の扱いで揉めている」
微笑む獅子の目的は明白だ。国内で争いを助長し、聖王国の国力を削ごうとしている。
その果てに侵略を望むのか否かは分からずとも、被害を増やそうとしている意図はヨアヒムにも分かった。
分かって、しかし何も出来ない。ヨアヒムにも分かるのだ。ダリウスやエリーゼならば、もっと先に気付いている。
気付いて、それで己の目的の為に利用しようとしている。そんな腹黒い者達の政争に、立ち入れる程の力がない。彼は武辺者でしかないのだから。
「アリアちゃんが預かる、か」
「何しろ、勇者パーティの一人。確かな実績がある。誰も否とは言えないさ。……それに、こちらとしても、あちらとしても、互いの派閥でなければ反発は少ない。順当な判断と言う物だよ」
「勇者召喚は、聖女にしか出来ない神聖術の最秘奥だしねぇ。おっさんとしても、一番安心できる人選だとは思うよ」
せめてもの救いは、一先ず勇者を預かると決まったのが、聖女アリアであると言う事実であろうか。
嘗て勇者パーティの一人であり、今は聖教総本山にある塔に幽閉されている女性。
情に厚く、知性があり、実力者でもある。そんな彼女に任せれば、悪い事にはならないだろう。
故にその後の事を思考するヨアヒムに対し、同じく思考をするクリフが思うは違う事。
僅か黙り込んでから、思い付いた事を試さんとする。その発想力の差は、過去の経験が生んだ物。
「なぁ、ヨアヒム。無理を言ったら、聞いてくれるかい? 大分、迷惑だと思うけどさ」
「ふっ、愚問だぞ、クリフ。友に掛けられるなら、どんな厄介事だろうが、迷惑だなんて思わんよ」
嘗て聖女と旅をして、勇者召喚の原理を聞いた事がある。嘗て勇者と旅をして、その突拍子のない発想を見ていたのだ。
故に発想の仕方を変える。論点を入れ替えて、必要な事を考え出す。そんな柔軟性を身に着けていたからこそ、クリフは友に頼むのだった。
「勇者召喚の儀を前に、アリアちゃんと逢いたい。出来れば、二人っきりで、さ」
口にしたのは、正しく無理難題と言う望み。勇者召喚を直前にした聖女と逢おうなど、何か企んでいると語る様な物。
少なくとも、普通は快諾など得られない。何か吹き込むのではないかと、誰もが分かる事であろう。ましてクリフは、事実何かを吹き込む心算であるのだ。
「……難しいな。交換条件を提示すれば、不可能ではないだろうが」
「例えば、どうすれば出来そうかな?」
「そう、だな。……聖女に育てられた後の、勇者を召し抱える権利を完全に放棄すれば或いは――――少なくとも、その程度の利益を相手に約束しないと、首を縦には振らないだろう」
仮に他勢力が警戒する中、そんな機会を作ろうと言うなら、その程度の約束は必要になるだろう。
勇者を引き入れる事はないと、明確に示してからその代価として。それならばヨアヒムでも如何にか、場を設ける事が出来るだろう。
「うん。じゃあ、それで行こう」
「何?」
「だから、それで良いよって話。勇者を召し抱えなければ、召喚前のアリアちゃんと話せるんだよね?」
「確かに、それなら押し通せなくはないが……それで、良いのか?」
そう語ったヨアヒムに、悩む素振りも見せずにクリフは返す。それで行けるなら、それで行こうと。
余りに淡白すぎる言葉に、寧ろヨアヒムが困惑する程。思わず問い返した彼に苦笑して、クリフは理由を説明するのであった。
「これはキョウの受け売りなんだけどね。目的の為なら、時に手段を投げ捨てろ。だが投げ捨てる前に、捨てる手段と拾える手段を考えろ、ってさ」
「それが、どう繋がるんだ?」
「うん? アイツなら、こういう時、どう考えるかって考えたのさ」
必要なのは、発想の転換。突拍子もない思考こそ、現状を打破する為に必要な事。
政治力を競えば勝てないのだ。頭脳で戦えば負けるのだ。ならば負けない為には、戦う土俵を変える他にない。
「おっさんの目的は、ヒビキ君への被害を減らす事。出来れば無くしたいが、それが無理なら最小限にする事だ」
土俵を変える。その上で重要となるのは、目的の再認識。絶対に譲ってはならない要素は何かと言う、そんな事実の確認だ。
欲しい結果は、ヒビキの安全。これ以上格好悪い大人にならない為に、あの少年を守る事。その為に尽力する事こそ、クリフが譲れぬ事である。
「って事はさ。勇者を抱え込む事も、アリアちゃんに接触する事も、どちらも手段の一つでしかない訳だよ」
その為に、勇者を抱え込む。その為に、聖女に接触する。どちらも共に、目的ではなく手段である。
ならば思考するべき事は、どちらの手段がより効果的か。どちらの手段を選べば、目的を果たせるのかと言う点だ。
「抱え込んだ場合、出来る事って何だろう? 勇者に命じて、その手を止めさせる事だ」
選んだ場合を思考する。そうなった果てを仮定して、得られる利益を試算する。
勇者を抱え込む利は薄い。権勢を狙うのならば兎も角、悪竜王の協力者である彼らの視点で旨味は少ないのだ。
出来る事など、高が知れている。誤報を流し続けて勇者を迷走させるか、いざと言う時に命令して止めさせるか。
どちらにせよ妨害が楽になる程度の違いであり、そしてそれも何度も使える手と言う訳でもない。一度使えば、底が尽きる手札である。
「けど、それも完璧じゃない。国是に真っ向から背いてる訳だし、他の陣営に突かれればそれで勇者を持っていかれてお仕舞いさ。だから、これは捨てても良い手段だ」
何せ、悪竜王を倒せと言うのは聖王国全体の決定だ。勇者にとっては、絶対的に正しい事になるだろう。
それを妨害すると言う事は、聖王国自体に弓を引く事と同義。内から弓を引けば、対立派閥に其処を突かれるだろう事は明確だ。
もう一つのメリットとして、勇者を説得しやすくなると言う物もある。王国に反旗を翻す際に、その助力を得ると言う方法だ。
だが、その方法は余りに不確定要素が強過ぎる。勇者がどのような人物か分からないのだ。場合によっては、説得の失敗から四面楚歌となる状況も十分に考えられる。
総じて、勇者を懐柔する案は旨味が薄い。一度だけ、確実に妨害出来る。それだけが確かなメリット。
「アリアちゃんと接触出来た場合、出来る事って何だろう? それには、いざという時に一度だけ勇者を止められる。その利を手放すに足るリターンであるのだろうか?」
対して聖女と会談を行い、得られる利益は果たして何か。クリフは思考を続けて説明する。
彼が見ている光景は、嘗ての勇者ならばこうしただろうと言う仮定。前提を覆してしまおうと言う発想だ。
「賭けの要素が強いけど、多分ある。勇者を止める事は最悪、後でも出来る。僕らが武力行使に出れば出来る事なんだ。けれど、召喚前に話せる機会は今だけしかない」
「……何をする気だ。クリフ?」
「勇者召喚の原理って知っているかい? ヨアヒム」
勇者召喚――それは神聖術が最秘奥。十年に一度しか行えないと言われる、正しく聖王国が誇る最後の切り札。
二つの月が重なる夜に、十年に渡り祈りを捧げ続けた聖女が神に願う。宵の頃から祈り初めて、夜明けが来ると同時に求めし者は訪れる。
「旅の最中、聖女様から聞いた事だよ。曰く、勇者とは、求められし望みを果たせる者。神に祈りを捧げて、事態を解決できる者を、三千世界から呼び込む大儀式」
呼び出される勇者とは、召喚者が望んだ偉業を必ず果たせる者。神と運命にそう定められた存在。
勇者とは求められた役割を、必ず果たせると言う運命を持つ。そうなるべくしてなると言う、因果律を宿している。
故にこそ、勇者召喚とは聖王国が最後の切り札。如何なる状況をも打破し得る、絶対勝利の因果を呼び込む秘奥であるのだ。
「ここで重要になるのは、何を望むかと言う点だ。召喚時に紡ぐ詔。其処に含まれた言葉によって、聖女が神へと祈りを捧げる。結果として、それを為せる者が訪れる」
例えば、悪竜王を倒せる者を望んで願えば、あらゆる並行世界の過去未来現在より、悪竜王を打ち破れる因果を持つ者を呼び寄せる。
必ず勝つと言う因果を持つ勇者は、必ず竜王を倒すであろう。その過程に何を犠牲にして、その果てに何を得るかは関係ない。勝利以外の結果などは保証されない。
志半ばに散るやも知れない。余りにも多くの犠牲を出すやもしれない。それでも面と向かって対立する事さえ出来れば、果てに必ず勝利する。絶対勝利の因果とは、そういう物だ。
だが此処で、問題となるのは勝利の道筋。何を以って勝るのか、何を為して勝るのか、それが余りにも不明瞭に過ぎると言う点。
術式を以って指定をしなければ、結果としてより良い物を導く存在が召喚される。全能なる神が、その状況に最も相応しい者を選び出す。
故にこそ、歴代の勇者召喚において、指定する対象は討伐する目標のみ。そう定められていた。明文化された法ではないが、誰もがそれを守っていた。
何せ神聖術とは、神への信仰心によって効果が変動する技術。聖女程に高位の聖職者ともなれば、信仰心も非常に高い。神の采配に異を唱える様な、そんな発想が生まれる筈もない。
だが、それは発想がないと言うだけであって、決して不可能だと言う訳ではないのだ。
「……まさか、お前は」
「そ。その召喚の詠唱を、ちょこっと弄らせてもらおうかなってさ」
勇者召喚は避けられない。悪竜王の敗北は揺るがない。ならば召喚される勇者の性質を、彼にとって都合が良い物としてしまえば良い。
クリフの案は正しく、発想の転換だ。問題とする箇所を根本から入れ替えて、自身に都合の良い回答を導き出す。嘗ての勇者キョウが、最も得意とした思考法。
「アリアちゃんは良い子だよ。だから、おっさんがヒビキ君を信じていると知ってくれれば、きっと乗ってくれると思うんだ」
「そうか、それなら確かに。……だが、余りにあからさまな改竄だと、流石に不味い。最悪、お前と聖女が揃って処断されるぞ」
「だね。強引に術式を使わせる技術もある訳だし、バレない程度に済ませないといけない」
それでも、出来る改竄には限度があるだろう。術式は改竄できる、その知識を持っているのはクリフだけではない。
エリーゼやダリウスは知らないだろう。ディエゴはどうだか分からない。だが少なくとも、聖教が誇る筆頭異端審問官は必ず反応する。
悪竜王を倒せない様な者。あからさまに彼へ加担しそうな者。そういった人物を呼び出す様な召喚術式は、使った時点で破滅が確約されてしまう。
術の行使を強要する枷を嵌められて、十年分の祈りに匹敵する膨大なエネルギーを生命力から奪い取られる。
術者一人では決して足りない。ならば犠牲となるのは民だ。数十万、数百万と言う民を犠牲にした上で、彼らにとって都合が良い勇者が召喚されてしまうだろう。
「呼び出されるのは、悪竜王を倒せる者。その部分を弄る訳にはいかないだろうさ」
「ならば、何とする?」
「……そう、だね。こんなのは、どうだろう?」
悪竜王を倒せる者。それ以外は呼び出せない。その前提は変えられない。ならば、クリフが其処に求めようとしている要素とは――
「心優しい、良い子が来て欲しい、ってさ」
どうかせめて、優しい子が来て欲しい。そんな余りにも小さな、それでいて確かな変化を求める言葉だ。
※闘将さんの名前をさらっと変更。被ってたことに気付かんかった。