その9
◇
カタカタと、カタカタと、笑い声が響いている。
人の神経を逆撫でして、その心を不快感で染め上げる音が止まらない。
「どうして」
悪なる竜は、屍で出来た山の底に埋もれたまま動かない。
手にした矛の先端は赤き血に濡れ、戻って来た感覚が否応なしに結果を伝えて来る。
「どうして」
涙を流す。言葉を零す。
四肢は動かない。胴体は動かない。
与えられた自由は仮初のもの。
顔と口を動かす事だけが、今の彼女に許された自由。
「どうして」
そして、その僅かな自由とて、彼女の為に与えられた物ではない。
襲い来る理不尽に、救い手の敗北に、涙を流す彼女の悲しみさえも――
その嘆きを甘露と嗤う。
悪意を張り付けた死人の王が為にある。
「まだ、絞り出せるであろう?」
歪な笑みを浮かべた髑髏が、暗闇の中に浮かび上がった。
悪なる竜を封じた屍の山が、腐臭を漂わせる。
桃源の如き果実の香りすら、隠し切れない程の悪臭が周囲に満ちていく。
〈何で?〉
死体が、泣いていた。
彼らは空洞の眼下で、涙を流していた。
〈何で、お前だけ〉
山を織りなす死体の群れが、その首を動かす。
空洞の眼下が、唯一人だけ生きている少女を見詰めていた。
〈お前だけ、生きている〉
〈私達は、こんなにも苦しんでいると言うのに〉
それは彼ら、死者の恨み言。
傀儡となった口から紡がれる嘆きの声は、今も生きる少女へと向けられている。
〈その目も、その髪も、その耳も、その鼻も、その口も、余りにも残り過ぎている〉
〈それは余計でしょう。だって、私達は何も持っていないのだから、それは余計でしょう〉
羨ましい。妬ましい。理不尽だ。
嗚呼、どうして彼女は生きているのに、自分達はこうして今も苦しんでいる。
〈全身の皮が剥がされたのに、死ねない〉
生皮を剥がされたネコビトが居た。
赤い筋肉を外気に曝して、痛い痛いと泣いている。
〈身体の中身が引き摺り出されたのに、死ねない〉
皮と骨しかないネコビトが居た。
口から全てを引き摺り出されて、痛い痛いと泣いている。
〈もう眠りたいのに、死ねないの〉
彼らは死者だ。既に救いがない死者だ。
だが、彼らの魂は此処にある。
不死身の王に囚われて、眠る事も出来ずに此処にある。
〈この夢は、何時覚めるの?〉
これは悪夢だ。猫人達が見た悪夢だ。
一夜明ければ夢は覚めるのが道理だろうに、この悪夢は覚める事がない。
〈永遠が、終わらない〉
この悪夢は、永遠だ。
不死身の王が居る限り、永遠に目が覚ませない。
〈殺して〉
何時しか、生者を呪い恨む声は懇願へと変わっていた。
〈殺してくれ〉
歯が抜け落ちた死体が語る。
死した身体に縛り付けられ、苦しみ続ける彼らが語る。
〈痛い。痛いよ〉
〈痛い。痛いのは、もう嫌だ〉
〈だから、お願いだから〉
苦しみ続ける彼らの願いは、唯一つ。
生者を憎む感情に染められた彼らが、それでも心の底から願う事は唯一つ。
〈もう眠らせて〉
もう眠らせて欲しい。もう終わらせて欲しい。
この絶望に終わりを。この悪夢に終焉を。この悲劇に救いを。
「あ」
屍の山の中で、小さい子供の死体と目が合った。
〈ミュシャ姉ぇ、助けて……〉
自分に良く似た腐った死体は、空洞の眼下からドロリと濁った血肉を零す。
腐って変色した黄色い液体はまるで涙の如く、溢れ出して零れ落ちた。
「ああああああああああああああっ!」
その涙を見て、限界を迎えた。
自由にならない身体を振り回しながら、涙を零して絶叫を上げる。
「どうして!!」
その疑問は、何に対してか。
「ミュシャ達は、ネコビトは!!」
その言葉は、何に対してか。
「あああああああああああああああっ!!」
滝の様に流れ落ちる涙は止めどなく、口を吐くのは耐え難い悲劇への絶叫。
言葉にならない程に持て余した感情を撒き散らして、顔を歪めるネコビトの少女。
「甘露だ」
「っ!?」
そんな叫びの声すら、眼前に現れたしゃれこうべにとっては甘露にしかなり得ない。
何時しか、其処に化外が居た。
周囲に満ちる悪臭よりも、更に悍ましい異臭を漂わせる白骨死体。
「何故と問うたな。答えなど、簡単よ」
その身を包む法衣は、漆黒とは異なる黒。
糞尿と泥水に浸した様な、汚物を塗り込んだ異端の黒。
「お前たちの悲劇は、甘露だ」
余りにも近くで見つめて来る空洞の眼下。
その骨の指先が少女の頬を冷たく撫でて、ミュシャは恐怖で呼吸さえも出来なくなる。
「その絶望の嘆きは、実に甘露だ」
生命力が恐怖と絶望に歪められて、瘴気へと変わっていく。
そんな芳醇な瘴気を発するネコビトを嘲笑いながら、屍人の王は静かに笑った。
「儂は、醜かろう?」
それは問い掛けではなく、唯の確認作業。
不死者の王は、恐怖に震えるネコビトに笑い掛ける。
「儂ら魔に堕ちた者は、瘴気によって肉体を維持する。だが、命を持たぬ魔物には、その瘴気自体を生み出す事が出来ぬ」
カタカタと、カタカタと。
屍人の王の嗤い声に惹かれて、死者の群れが悲鳴を上げている。
「故に、役を果たしたお前は我が贄だ。お前に与えた自由は芳醇な瘴気を生み出し、我が糧となる」
ネコビトの魂は、その為にある。
唯一人の生者は、その為にある。
「悲劇を嘆け。それが儂の糧となる」
流れ落ちる涙は、魔物を生かす不死の霊薬。
天から降り注ぐ甘露の如く、成り果てた魔法使いに不死を齎す。
「絶望に喘げ。それが儂の糧となる」
少女の上げた絶叫は、魔物にとっては川のせせらぎ。
天の旋律の様に、その心を安らぎで満たしていく。
「その為だけに、今のお前の生命は存在しているのだ」
恨め。憎め。嘆け。悲しめ。
その全てが、この死人の王の糧となる。
その糧を生み出す為だけに、今のお前は生かされている。
「嗚呼、本当に――儂は醜かろう?」
そんな瘴気がなければ生きられぬ己を自嘲しながら、死者の王はカタカタと嗤い続けていた。
嗤い声を聞きながら、心折れた少女は呟く。
自由にならない身体で、吐き出した嘆きすら喰われながら、少女は擦れる様な声で呟いた。
「助けて」
それは死人の山と同じく、誰かの助けを求める声。
もう自分ではどうにも出来ない絶望の中で、唯救いの手を求め続ける。
「誰か、助けて」
頼りがいのある父は、死んだ。
優しくて温かい母は、死んだ。
だから、救いの声が求めるのは――
「……ヒビキ」
ダマーヴァントの底に眠る竜。
「無駄じゃよ」
否定の声は、静かに告げる。
精霊の矛に砕かれた今、悪なる竜が起き上がる事はない。
「ヒビキ!」
「助けなど、来ない。救いなど、ない」
何処に、立ち上がれる道理がある。
魔物にとっては最も恐るべき力に砕かれた、その命は最早潰えている。
ネコビトがどれ程にその名を呼ぼうとも、死した者は救いに来られないのだ。
「さあ、永遠の悪夢の中で、その全てを捧げよ」
暗い眼下に、黄金の輝きを宿す死者が嗤う。
瘴気と骨だけしかない異形が、絶対の勝利を前に嗤う。
だが一つ、此処に一つ。
死者の王が想定していなかった事がある。
「ヒビキィィィッ!!」
故に、少女の叫びは彼へと届いた。
轟と音を立てて、間欠泉の如く蒼き光が湧き出す。
その蒼く透き通った銀の輝きは、人の持つ希望の色をしていた。
◇
屍人の山に埋もれた大地の底で、少年は再生を終えていた。
不死者の王の想定外。それは悪なる竜の生命力。
大地の精霊王すら殺し切れぬと語った命が、何故に精霊が作り上げただけの武器に奪い取れようか。
(けど、どうしよう)
目の前を埋め尽くす死体の山。
傷付ければ彼女が泣く、だから壊せない肉の檻。
越えられないのではなく、乗り越えない。
無数の屍で出来た山から抜け出せば、今尚苦しむ彼らを傷付けてしまう。
少年の傷は軽く、されど動けない理由はそれだけだ。
彼が動かないのは、この死体の山を救いたいと我儘にも願ってしまったから。
だからヒビキは、誰も傷付けない道を模索する。
(……魔物を生かすのは、瘴気)
悪竜の持つ膨大な知識が、この状況を覆す術を探し出す。
誰も傷付けないで、誰も傷付かないで、この絶望を塗り替える術を見つけ出す。
(彼らを今、動かしているのも瘴気)
それは魔物と言う、物理法則に反した化外が生きる理由。
アンデット。ゴースト。
生命なき虚ろな化外が動くのは、その全身に瘴気と言う力が満ちているからに他ならない。
(なら、それさえ浄化できたなら)
人の生命が歪んだ力、魔物を生かす瘴気と言う力。
それを浄化する方法は、人と異なる世界に満ちた力以外に存在しない。
精霊。世界の触覚であり、星が持つ意志。
人が希い、その希望が形作った瘴気を払う聖なる力。
確かにその力を、ヒビキはこの手に持っている。
現状を打破する至高の剣を、彼は確かに受け継いでいた。
「けど、怖い」
だが、これは彼の生命線。
内に植え付けられた悪竜の因子から、人の心を守る最後の砦。
それを失えば、彼はまた狂気の中へと堕ちてしまう。
「嗚呼、怖いや」
此処は精霊の世界ではない。
瘴気に満ちたこの不死者の城では、己は一秒足りとて自我を保てない。
この力を僅かでも消費すれば、この拮抗は崩れ落ちる。
光と闇の均衡は崩れ去り、大切な想い出さえも忘れた狂気の竜が目を覚ます。
「怖いよ。キョウちゃん」
恐れるのは、これを失い狂う事。
怖いのは、狂ったまま戻れなくなる事。
悍ましいとさえ感じるのは、大切な記憶さえも悪意に染まってしまう事。
「嗚呼、でも――」
それでも、そう成り果てると知っていても――
「ヒビキィィィッ!!」
その声は届いたから、ヒビキは此処に選択する。
涙に暮れる少女の全てを救う為に、彼は身勝手な決意を此処に抱く。
「呼んでいる。助けを求めて、友達が呼んでいる」
友達は見捨てるな。それが彼との大切な約束。
約束は絶対だ。それが彼と最期に交わした、一番最後の約束だから。
「なら」
その蒼き瞳で、空を見上げる。
肉の山ではない。大地を閉ざす天蓋ではない。
その果てにあるであろう。幻想の空を確かに見上げて。
「行くよ。キョウちゃん。力を貸して!」
胸に輝くその蒼き宝石に、異形の腕を押し当てる。
そして深く、その心の臓を掴む様に深く。
めり込む様に肉に埋もれたその五指が引き抜いたのは、星の輝きを宿した光の剣。
「聖剣――解放!!」
それは希望の剣。
その蒼銀の輝きは、この世全ての善なるモノ。
悪なる魔王を討つ為に、紡がれたのは未来を望む人の意志。
星の意志たる精霊が生み出し、人々の託した希望が紡ぎ上げた幻想聖剣。
少年は紛れもない人の手で、その蒼き光の剣を振るった。
そして間欠泉の如く、沸き上がる蒼銀の輝きが大地を満たす。
蒼く清浄なる風が穢れを払い、淡く輝く銀色の光が死した者らを包んでいく。
「あ、あぁ」
涙が零れ落ちた。
その瞳から流れ落ちた滴が、その幻想的な光景を見詰めている。
〈ああ、これで漸く眠れる〉
死者が安らいだ顔で、淡い輝きの中へと消えていく。
全ての苦痛と憎悪が清められて、集合無意識の中へと溶けていく。
〈もう痛くない。苦しくない〉
〈悪夢はもう、終わるんだね〉
それはきっと、誰もが夢見た天上楽土。
長く苦しみ続けた彼らに齎されたのは、希望に満ちた輝きの中へと帰る結末。
もう苦しむ事はない。もう傷付く事はない。
もう誰かを恨んで、憎んで、その足を引き摺り続ける必要はない。
彼らはもう、救われたのだから。
〈ゴメンね。それとありがとう。ミュシャ姉ぇ、ヒビキ兄ぃ〉
「……ニナ」
涙を零すミュシャと、蒼き輝きを手にしたヒビキ。
彼らへ微笑み掛けながら、擦れていく少女の霊はそんな風に感謝を口にした。
〈ありがとう〉
「あぁぁ」
感謝を抱いたのは、彼女だけではない。
傷付けられ、苦しめられ、それでも最後に彼らは救われた。
〈本当に、ありがとう〉
「あぁぁぁぁぁっ」
その蒼く清浄なる銀の風が、全ての嘆きを吹き飛ばす。
悲劇も恐怖も絶望も、その全てを希望の光が塗り替えた。
そして涙に濡れる少女の下へと、剣を手にした少年が歩み寄る。
清浄なる蒼銀の輝きを纏って、人の姿に戻ったヒビキがミュシャの下へと近付いた。
瞬間、ミュシャに纏わりつく濃密な瘴気。
それは彼女の内より生じて、その身を縛る。
「ヒビキ」
「大丈夫」
その命すら盾にする。死人の王の悪足掻き。
半精霊の身体は浄化の風に耐性を持ち、故に内に潜む不死王の分体に光が届かない。
「もう、大丈夫」
そんな悪霊の思惑を見抜いて、それでもヒビキは小さく微笑む。
その程度の企み等、あっさりと踏み越えてしまえるから。
「っ!?」
目を丸く見開いた少女の唇が奪われる。
交わした口付け。交わる舌を介して、その体内を浄化の光が駆け抜けた。
「……ヒビキ」
体内を膨大な光が吹き抜ける。
激しい力の本流に、その意識が遠のいていく。
擦れる意識の中、蒸気した頬で、熱を抱いたミュシャが名を呼んだ。
「もう大丈夫。眠かったら、寝て良いよ」
そんな彼女の身体を抱いて、少年は優しく笑みを返す。
心中に渦巻く激情に疲れ果てた少女の頭を、温かな人の手が優しく撫でた。
「寝て起きたら、きっと悪夢は終わっているから」
「ん」
その優しい手付きに促されて、ミュシャは静かに目を閉じた。
もう悪夢は終わる。
この永遠と思う程に長かった夜は、漸く明けるのだ。
「お休み。ミュシャ」
眠りに落ちた少女を優しく横たえ、その身体を守る様にヒビキは一歩前に出る。
「後は、お前だ」
竜の腕はない。竜の足はない。竜の尾はない。
肥大化した魔性の力を封じたまま、人の器を一時的に取り戻した少年は敵を見据える。
「何故だ」
あり得ない。信じられない。
目の前の光景を見た死霊の王は、戸惑う感情を隠せない。
「何故なのだ!?」
死んだ筈だ。生きていられる道理がない。
否、それ以前に、それよりも、信じ難いのはその手に握った蒼銀の光剣。
「何故、魔王が聖剣を持っているのだぁぁぁっ!?」
忘れる筈がない。忘れられようがない。
草臥れた老人に勇者が見せた。あの輝きを見間違える筈がない。
「これは、友達から託された物」
聖なる剣を手に、幼い少年が魔物を見る。
人であった頃、人であった姿。十四歳。当時の年齢。
年相応よりも幼い。二次性徴が遅れたその見た目は、可憐な乙女の如く。
「僕を守ってくれた。大切な友達の剣」
蒼く輝く瞳は、蒼海の如く澄んでいる。
腰まで届く長い黒髪は、烏の濡れ羽の如くに美しい。
「何時だって、僕は友達に助けられて来た」
少年は、友達に貰った外套を羽織る。
少年は、友達に貰った聖なる剣を握り締める。
自分で得た物ではなくて、大切な人から貰った物ばかりだから――
「だからっ!」
せめて助けてくれた皆に、確かな物を返す為に。
彼らに誇れる自分である為に、ヒビキは救いの剣を執る。
「僕の友達を泣かせたんだ!」
彼の理由は、変わらない。
その胸を突き動かす想いは、善意を含んだ唯の我儘。
「覚悟は良いなっ! 不死の王っ!!」
その蒼く輝く星の光で、大切な全てを守り抜く為に――我儘で身勝手な悪竜は、此処に希望の剣を振る。