その1
◇
西方大陸の中央に、南北を分かつ形で巨大な亀裂が存在している。大地の裂け目は幅にして5km、深さにして3kmはあるという巨大な渓谷だ。
自然の要害とでもいうべきこの断絶を乗り越える為に、嘗ての人々は様々な趣向を凝らした。試行錯誤の果てに生み出されたのが、大渓谷を跨ぐ大橋の存在だ。
都合三本。5キロに渡って存在し、南北を繋げる巨大な橋。西を旅するならば、その橋の何れかを用いる事が基本である。
だが、ヒビキたちはそれを選べない。何故なら彼らは逃亡者。南北を繋ぐ接点だけあって、大橋の警備は厳重だ。渡ろうとすれば、高い確率で発見されてしまうであろう。
故に大橋は使えない。ならば何とすれば良いか。悩む彼らに対し、ミュシャが出した答えは実に単純な物であった。
渡れないなら、下れば良い。大地の裂け目を下山して、底を歩いて渡った後、聳え立つ崖を登れば良いのであると考えたのだ。
旅慣れた者でも、聞くからにハードな行程となるであろう。それでも、決して不可能なプランという訳ではない。
古く、まだ大橋の存在がなかった時代。当時の人々は、そうやってこの断絶を踏破していたのだ。
ならばヒビキ達に、出来ない理由がない。少なくとも、ヒビキが提案した自作の飛翔魔道具を使う案よりかは遥かに安全だと言えた。
「……自然にお帰り」
「ごなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
そんな訳で、崖を下る事になった一行。当然の如く、その巨体が災いして黒き獣は追随出来ない。
ヒビキは泣く泣く、この怪物を野に放つ。元よりこの草原生まれの魔獣である。草原に返すが筋であろうと、彼は本気で思っていた。
「おい、駄猫。あれ、生態系が変わるんじゃね?」
「……材料、草だから。多分、きっと――変わらないと良いにゃね」
そんな少年の行動は、傍目に見れば日本の川にブラックバスを放流するかの如き暴挙である。
絶対に色々と問題が起きそうだと頭を抱えるエレノアに、頬を引き攣らせながらにミュシャは返す。
元が草だから、微弱な瘴気と日光さえあればあの魔物は生存出来る。そんなウジャトの瞳が出した結論に、持ち主自身がマジかよと驚愕していたりした。
きっと黒き怪生物は、周囲の魔物を喰らいながら、元気に野生で育っていくのであろう。
色々と諦めた少女たちは思考を放棄し、ヒビキはその大きな背中が草原に消え去るまで見送り続けるのであった。
「――ごほん。気を取り直して、先に進むにゃよ」
黒き獣は姿を消して、見届けた後に咳払い。先に行こうと仕切る猫人の言葉に、皆が揃って頷き前へと進む。
西方を分かつ大渓谷。その底へと降りる崖を下っていく。進む道は正しく断崖。絶壁と言う言葉すら、甘く思える程の断絶だった。
「すっごく、深いですよね。これ」
「落ちたら一溜りもねぇから、気を付けろよ」
足の踏み場は最低限。キャロの小さな足でさえ、二つと置けばそれで一杯。成人した男性ならば、片足を置くのが精々だろう。
獣道と言うのも相応しくはない。そんな踏み場に足を置き、崖に飛び出す岩を手にする。片手と片足で身を支えながら、彼らは降下し続ける。
先頭を歩くのはエレノアだ。彼女を筆頭にセシリオとキャロが続き、最後尾をミュシャが歩く。
足一つ、腕一つで身体を支える。そんな姿でありながら、苦になる様子を見せないエレノアは正しく慣れているのであろう。
次いでスムーズな動きを見せるのはミュシャであり、幼少組の二人は怪しい足取りを見せている。因みにヒビキは論外なので、魔力を使って空中を浮遊している状態だ。
「足の踏み場を、選ばないと進めないこの感じ。これが登山って奴なのか?」
「降りてるから、どっちかって言うと下山っぽいけどにゃ~。ってか、最低限でも道がある分、ずっとマシにゃよ」
いざとなれば、空中に浮かんでいるヒビキが助けに入れる。そうと思えばこそ、ある程度の安心感の様な物はある。
だがそうと分かっていても、不安定な足場を行き来する行為は重労働だ。一歩一歩で心身をすり減らしながら、セシリオはボヤク様に呟く。
これが山登りなのかと、間違った思考を浮かべている褐色の少年。彼の言葉に苦笑しながら、ミュシャはこれでもマシだと補足する。
ダンジョンの奥地や秘境など、道すらない場所はざらにある。一秒後に崩れる足場を移動しながら、魔物と戦闘しないといけない事だって少なくない。
悪辣な罠がある遺跡や、一歩間違えば死ぬ状況すら冒険には付き物だ。それを考えれば、移動の為の足場があって、魔物が余り出てこない。その上、ヒビキと言う最終安全装置がある現状は、随分と恵まれた状況なのだ。
「僕が抱えて跳べば、一瞬なのに」
断崖絶壁に沿って、崖下へと進む仲間たち。彼らと同じ様に進んでみたいヒビキだが、その提案は満場一致で否定されている。
曰く、足場や崖を壊してしまうだろうと。崩落に巻き込んでくれるなと。故に崖下りを禁じられたヒビキは、傍らで浮遊しながら愚痴る様に主張をする。
正直言って、見ているだけでは詰まらない。だからさっさと移動する為に、自分が四人を連れて対岸まで渡ろうと。
そんな彼の提案に、返る言葉は全員一緒。仲間たちはこの悪竜王が、戦闘以外では孫の手程の役にも立たないと既に知っているのだ。
「却下」
「きっと落ちるな」
「或いは生身で、空の向こうまで飛んでくんじゃねぇの?」
「こ、こうして自分の足で動くのも、その、旅の醍醐味、ですから」
「解せぬ」
一考の余地もなく、バッサリと切り捨てられる。前例が無数にあるのだから、彼に頼った移動手段への信頼などは既にゼロ。
空中で両手を突いてガックリと、無駄に器用な姿を見せるヒビキを余所に彼らは進む。底へ向かって、崖を下って行くのである。
進む道は、聳え立つ断崖。直線距離では三キロ程度の代物だが、真っ直ぐに下まで降りられる様な物ではない。
此処は人間の生活圏からは離れているのだ。如何に西方は魔物が少ないとは言え、ゼロではない。崖を真っ直ぐ降りる為に両手両足を使ってしまえば、余りに無防備な背中を晒してしまうだろう。
それに三キロの距離を、崖下りするなど現実的とは言えない話だ。だからこそ、少し遠回りになるのだが、斜めに降下を続けている。
これは古き人々が移動の為に残した道。魔法や精霊術を用いて作ったのだろう、断崖絶壁の中に作られた不自然な隆起が道となっている。
ならば休憩できる様なスペースも、若干ではあるが存在している筈だ。ミュシャの瞳はそう判断を下していて、故にこのルートで進めると考えたのだ。
何事も無ければ、の話ではあるが――
「…………来た」
それに最初に気付いたのは、浮遊していた悪竜王だった。彼は感じた気配を探って、視線をそちらへと動かす。
そして、変化が起きる。太陽を覆い隠す様に、黒い雲が空を満たす。蠢く雲が移動して、日差しを完全に遮った。
まるで夜。一変した景色の中、日の光を遮るのは雲ではない。雲に見える程に大量の、空飛ぶ魔物の群れである。
余りにも小さき羽虫の群れ。余りにも数が多い魔物の群れ。黒雲の如き大群を従えて、その先陣に浮かぶは第三魔王。
【La―la―la―】
赤いリップが笑みを浮かべる。真っ黒な空の下、大地を赤に染めながら、アリス・キテラが嗤っている。
黒い闇夜の中で、ひっくり返したトマトのスープ。瞬く間に異常と化した空間に、しかし少女たちは狼狽えない。
「ま、来るとしたら、此処で来るわな」
「だにゃ。不安定な足場で、行動が制限される状況。アレが動かにゃい理由がないにゃ」
既に聞いていた。だから分かっていた。アリス・キテラが動くとすれば、この大渓谷を越えんとする瞬間にしかない。
足場は小さく、剣を振るえば担い手が落下する。下手に暴れ動き回れば、動いた者が墜落死。そんな状況をこの魔女が、見逃す筈がないのである。
予測していたからと言って、対策がある訳ではない。分かっていたからと言って、対応出来るとは限らない。
それでも、覚悟は出来る。腹を括って、意志を決めておく事は出来る。だから、ミュシャもエレノアも、決して狼狽えてはいないのだ。
【La―la―la―】
「あ、あれが、大魔女、アリス・キテラ」
「だ、大丈夫なんだよな。兄ちゃん」
対して、幼少組は恐怖を隠せない。怯え慄く程に大魔女の名は重く、その狂気が振り撒く圧は更に重い。
既に慣れてしまったミュシャとエレノア。そんな彼女たちと異なって、セシリオもキャロも魔王と遭遇するのは初めてなのだ。
恐れ慄くのも無理はない。そう思ってしまうのは自然な事。余りに外れ過ぎた五大の魔王を前にして、それこそ正常な反応と言う物だった。
【アリス・キテラは偽りだらけ♪ ドゥルジ・ナスは嘘吐き魔女よ♪】
「うん。大丈夫。来るって、分かってたから」
震え慄く子らに、強く言葉を返して睨み付ける。敵意の籠った視線を受けて、アリス・キテラは笑みを深める。
視線が合った。片や強く闘志を燃やし、片や何を考えているのか分からぬ視線を向けて。そうしてヒビキは、彼女たちへと言葉を投げた。
「こっちは、任せた」
「応。任された」
「ま、やるだけやってみるにゃよ」
迫る脅威は二つ。大魔女アリス・キテラ=ドゥルジ・ナスがその筆頭ならば、彼女が従える羽虫の群れもまた脅威。
されどヒビキが相手取れるのは、アリス・キテラだけであろう。だから後は任せたと、語る言葉に返す。情勢は不利だが、打破不可能な物ではないのだ。
エレノアは真っ直ぐに、ミュシャは肩を竦めながら、それでも言葉に籠った意志はどちらも同じく強い物。
それが分かったヒビキは頷いて、そうして前傾姿勢を取る。張り詰めた弓を思わせる程に、そんな姿勢で敵を見た。
【教えてあげるわ。その嘘、本当♪】
「僕は、アイツを倒す」
「っ! 頼むぜ! 兄ちゃん!」
「ま、負けないで下さいッ!」
恐怖を如何にか飲み干して、頼むと語るセシリオ。彼と違って震えを隠せぬまま、それでもキャロも応援する。
二人の言葉を背に受けて、振り返らずに一度頷く。そうしてヒビキは、空を蹴り付けた。まるで大地で踏み込む様に、空で踏み込み跳躍したのだ。
「アリス・キテラッ!」
【ウフフ、フフフ、ウフフフフ】
まるで弾丸の様に、前へと飛翔し飛び込む姿。迫る悪なる竜を前にして、アリス・キテラの笑みは変わらない。
本当に思考をしているのか、それさえ怪しい笑顔を浮かべて。そんな大魔女の眼前にへと、迫ったヒビキは巨大な腕を振り抜いた。
「打っ飛べぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!」
【アララララ♪ アララララ♪ アララララララララ~♪】
振り抜かれた竜の拳に、アリス・キテラの身体が宙を舞う。まるでトラックに轢かれた様に、大きく大きく飛ばされる。
吹き飛ばされて、木の葉の様に落ちていく。嗤いながらに舞う魔女に、ヒビキは更に追撃する。空を固めて踏み込んで、大振りの拳を打ち込んだ。
何度も、何度も、何度も、拳で打ち付けながらに飛ばし続ける。仲間たちから距離を取る為、大魔女の身体を打ち続ける。
例え己が狂ったとしても、彼女らを傷付けぬ為に。そんな覚悟を抱いたヒビキに対して、アリス・キテラは何一つとして変わらない。
【アラアラアラアラ荒々しいの♪ シンシンシンシン静かなの♪】
叩かれながらも嗤っている。痛みなど感じていないかの様に、アリスは常の狂気を纏ったままで変わらない。
ケラケラケタケタ嗤っている。拳で打たれて運送される。目まぐるしく変わる周囲の景色。まるでそんな事実さえも楽しんでいる様な、童女の笑みを浮かべていた。
【遊びたいのねアジダハカ♪ 遊びたいのはアリスも一緒♪ キテラは猫さん遊びたい♪ 猫さん使って遊びたい♪】
そうとも、狂わない様に加減している。まだ狂ってはいけないから、拳の威力を抑えている。そんな程度の打撃では、彼女にとっては軽い刺激にしかなっていない。
気分は胴上げされてる子供である。高い高いと上げられて、キャッキャウフフと笑っている。だから楽しそうに嗤いながらに、しかしアリス・キテラは僅かに不満も抱いている。
【一緒に遊ぼ♪ 別れて使お♪ 一人が良いの♪ 一人は嫌よ♪ だって玩具が壊れちゃう♪】
アリスの狙いは猫人だ。彼女の嘘を暴いたミュシャである。あの少女を使って遊びたかったと言うのに、どうして邪魔をするのであろうか。
彼女の理屈は子供のそれだ。楽しそうな玩具があるのに、意地悪な弟が独占している。自分もそれで遊びたいのだと、アリス・キテラはごねていた。
【だけどアリスはお姉ちゃん♪ キテラはとっても良い子なの♪ 我慢をするのよ♪ 頑張るの♪ あーたんあーたん弟だから♪】
だが、限界までは我慢しよう。アジ・ダハーカが手放さない以上、自分が手を出せば壊れてしまう。
人の身体は脆いから、魔王二柱には耐えられない。遊ぶ前に玩具が壊れては台無しだから、貸してと強請るだけで我慢する。
【だけどアリスは嘘吐きよ♪ キテラはとっても悪い子だから♪ 我慢出来ない♪ 頑張れないの♪ あーたんあーたん玩具を貸して♪ アリスもアリスもアリスもアリスも♪ 猫さん使って遊びたい♪】
だけど、もう既に我慢は限界だ。何時も何時もヒビキが一緒に居て、アリスはまだ一度も遊べていないのだ。
だから貸してと強請っている。遊びたいのだと我儘を言う。どうして一人で遊ぶのだと、アリスは怒ってさえ居たのだ。
「…………一つだけ、言っておくよ。アリス・キテラ」
【ララ?】
そんな魔女を打ち続けながら、ヒビキは力を強くする。取り込んだ黄金が力を増して、内面に悪意が募っていくが問題ない。
もう十分に離れたから、もう直ぐには巻き込まないだろうから、もう溢れ出さんとする憤怒を抑えつける必要などはないのだ。
そうとも、ヒビキは怒っている。アリス・キテラの発言に激昂している。友達を物扱いする魔女に、彼は静かに切れていた。
それでも、頭ごなしに否定してもこの魔女は理解もしないのだろう。それでも、抱えた悪意が故に己の思考が歪んでいくのを自覚する。
故に彼は、黄金色に染まった瞳に喜悦を浮かべて、怒りと共にこう告げるのだ。
「ミュシャは僕のだ」
【ララッ!?】
告げると同時に、拳を振るう。魔女の身体を断崖に、思いっきりに叩き付ける。
其処で初めて痛みを感じて、思わず声を上げるアリス・キテラ。そんな彼女の頭を掴んで、更に地面に叩き落とす。
まるでエースピッチャーの剛速球。ボールになったかの様に、大地に落ちてクレーターを生み出す大魔女。
地に落ちた彼女を空から見下ろしながら、悪竜王は歪な笑みを浮かべる。彼の心は既にして、闇の汚染が進んでいた。
「薄汚い魔女風情が、手を出そうとするんじゃない」
地に落ちた羽虫を見下す様に、軽蔑を視線に宿して語る。告げる言葉は独占欲と所有欲。
感じていた想いは友情だった筈だ。確かな情であった筈だった。だがその感情が、僅か悪意に歪んでいる。
友を物と見る魔女に怒りを抱いたのに、そんな自分が彼女を物として見ている。余りに分かりやすいその矛盾。
そんな事すら自覚出来ない悪竜王。その鮮やかな銀髪は、一房だけ異なる色に染まっている。それは暗い黄金色。
闇を飲み干したヒビキは立ち向かう。彼がこの場で倒さねばならない敵手とは、アリス・キテラだけではない。