中央にて 欠片の二
※2017/11/18 加筆修正。
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頭上高くに輝く集合灯。溢れる光が照らし出すのは、宝飾飽食満ちた大会場。
飾り立てられた水晶花が、種々様々な食卓を僅かに染める。絢爛豪華なその輝きは、まるで現世と想えぬ程に。
並ぶ晩餐、輝く宝飾。その数が膨大ならば、その質もまた一切妥協なき至高。
この食卓に載った料理を一つ減らすだけで、一体どれ程の民が飢えずに今日を乗り越えられた事だろうか。
ワイングラスを片手に持ちながら、詰襟軍服の男は思わずそう思ってしまう。
盲いた瞳を持つ黒髪の男にとっては、唯この場に居るだけの事が既に苦痛であった。
(だが、必要だ。……民を思えばこそ、此処で税を凝らさずにはいられない)
最高峰の舞台。最高級の歓待。それを以って迎え入れるのは、それに相応しいと言うべき賓客。
ヨアヒム・マルセイユは静かに見詰める。気付かれない様にさりげなく、聖都に招いた男の顔を覗き見た。
(此度の賓客。西の若き獅子の協力が得られなければ――最悪、我ら王族派は滅び去るのだから)
まるで澄んだ水の様な青い色。それを薄めた様にも見える銀髪の美丈夫。
瞳に映すは、何処か憂いを思わせる水の色。すっと伸びた長身に、程良く付いた筋肉量。
浮かべた笑みに気品があれば、一挙手一投足、全ての所作にも品がある。華美に過ぎるこの舞台が、相応しいと思える人の格。
西の商売人である彼を、成り上がりと称する貴族は多い。だが、真に貴族と言うべき高貴さを彼は持っている。そうであると、素直に想えた。
商業者連合の半分、北を掌握した若き獅子――ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェ。
西方北部を統べるこの男こそ、エリーゼ姫の婚約者。王配候補として選ばれて、彼は聖都の城内でこの歓待を受けていた。
(……彼との縁を結べたのは、この上ない幸運だ。叶うならば、そのまま縁談を進めたい物だが)
西に居る知己を介して、姫君との縁談相手として選んだ人物。それが西方北部の雄である彼だ。
如何にダリウスが国政の大半を牛耳っているとは言え、他国にまでは口出しを行えない。まして相手が西北の雄ならば、手を拱くより他にない。
最初は余りにもビッグネームが過ぎるかとも思えたが、実際に話しが進んでみればこれ以上にない上策だったとも思えてくる。
ヨアヒム・マルセイユは、会場の端で静かに願う。若き獅子とにこやかに、談笑を続ける金の姫。きっとこの縁談こそが、彼女の幸福に繋がってくれる事を。
そんな彼は、故に気付かない。盲した瞳である彼だけではなく、この場に居る多くの者らが気付いていない。
それに気付いた僅かな一人。獅子は小さく微笑む。そうして彼は手を差し出すと、語らう相手を踊りに誘った。
「一曲、よろしいですかな? セニョリータ」
「……えぇ、是非に」
含んだ物言いに気付いたのか、エリーゼはその手を受け取る。そうして二人、テーブル席より離れていく。
手を繋いだままゆっくりと、管弦楽が鳴り響いている広間の中央へ。優しくリードを取ったまま、ディエゴは囁く声音で口にする。
「それ程、不安になる必要はありませんよ。貴女が望まないならば、この婚約は一旦白紙と致しましょう。……無論、それで我が社の対応は変わりません」
「……気付いておられたので?」
「ええ、勿論。美しい花弁が何を憂いているか。乙女の恋とは愛でる物。手折る物ではないのだから」
手を引き、腰を抱きながらに言葉を交わす。囁く様なその音は、鳴り響く歌曲の影に隠れて消える。
互いの言を聞くのは、この一時に互いだけ。そうであるからこそ、望まぬ婚姻ならば破棄しよう。そう男は告げるのだ。
ディエゴは気付いている。恋に浮かれる少女の瞳が、一体誰を見ているか。誰を愛しているのであるか。
己は眼中にもない。それは面目に泥を塗られた様な物だろう。婚姻を頼まれた側なのに、相手は彼を見もしないのだから。
それでも、彼は優雅な笑みと共にそう告げる。所作を崩さず微笑む姿は、エリーゼをして高貴と確信出来る物であった。
「残念です。貴方の髪が黒く、瞳が金色だったら良かったのに」
そうであったのならば、彼を王配としても良かった。そう思える程度には、分を弁えている男。
一線を踏み越えて来ない気楽さは、周囲に見せる偽りの相手としては十分過ぎると言える物であっただろう。
最も、銀髪と青い瞳と言う特徴的なその色が、そんな仮面夫婦と言う関係を許容してはくれないだろう。
エリーゼは恋する男以外に抱かれる心算はなく、ならばその子は黒と金を宿してしまう。彼では擬態にすらなれぬのだ。
「怖い女性だ。ですが恋する可憐さを、その怖さが際立たせている。だからこそ、貴女はそんなにも美しいのでしょうね」
「あら? 実権は全て委ねると言うのに、怖い事を言っている事になりますの?」
「私はこれで、家庭には安らぎを求める狭量な男ですので。鮮やかな華を受け止める程に、我が身は強くはないのです」
「……本当に残念。貴方の色がもう少し、彼に近ければ――ヨアヒムの愛するこの国を、捨てない選択肢もあったでしょうに」
睦言を交わす様な距離感で、互いに交わす言葉はそんな物。毒々しい少女の色に、ディエゴは小さく苦笑する。
やはり自分は、王の器ではないのだろう。彼女の毒を飲み干せる自信がないだけではない。故に男は静かに思考を進める。
それは西の民としての性。どう動くのが、自分にとって一番利益となるであろうかと。
そして男自身の性格。まるで温かなチョコラテの様に、彼は優しくて甘いのだ。そして、決して強くはない。
「成程、国を捨てると。それ程に想いが強いのならば、婚約者としての形だけは保ちましょうか?」
「……貴方自ら、虫除けを買ってくださると?」
「ええ、勿論。それが私にとっても利となりますれば――それに、乙女が恋の成就を願うのは、男の甲斐性と言う物でしょう」
「紳士ですのね、ディエゴ殿」
「何時だってそうありたいと、その程度には思っていますよ。……これが中々に、難しいのですがね」
軽やかにステップを踏みながら、囁く声音で言葉を交わす。手を繋ぎ合った男女はこの今、相手を全く見ていない。
一人の男を盲目的に、愛する無能姫。彼と添い遂げる為ならば、全ての民も全ての国も、塵の如くに使い捨てるであろう。
その手を取って微笑む獅子は、やはり同じく少女を見ていない。冷たい合理を選んだ男が思い浮かべていたのは、嘗てに捨てた一つの絆だ。
相応しい男で居たかった。家族だからこそ、ずっと愛していたかった。今も後悔し続けていて、それでも甘いだけだから、振り返る事しかしないのだ。
「では少し、甘えさせて頂きますわ。……無論、その代価として」
「ええ、この肩書を利用させて頂きます。王族派、大臣派、そして聖教。取引先は、それこそ山の様。価値は計り知れません」
互いに妥協点を見出して、満足した表情で結論付ける。時をほぼ同じくして、一つの曲が終わりを告げた。
手を引きながら食卓へと、戻った所で暫し離れる。一先ず婚約者として最低限、周囲に見せるべきは終わったのだから。
王女と別れて、ディエゴは進む。情深き合理主義者は突き進む。全ては嘗て、重ねてしまった罪が為。
此処で為すべきは王女の相手と、そしてもう一人への挨拶。此度の主催者へと向かって、彼は確かに言葉を掛けた。
「此度はお招きに預かり、真にありがたく思います。空将殿」
「これはこれは、ご丁寧に。こちらこそ、お越し頂き有難く思います。ディエゴ殿」
言葉を掛けられた黒髪の男は、慇懃な仕草で言葉を返す。彼らが口にする応対は、杓子定規染みた定型文。
「本来ならば主催として、こちらから向かうべきだったのですが」
「いえ、それには及びませんとも。姫殿下との語らいを優先させたそちらの差配、決して過ちとは思いません」
形式ばった挨拶を終えて、互いに利き手で握手を交わす。そのまま口に上げるのは、中身のない軽い遣り取り。
幾つか言葉を交わして、互いに笑みを浮かべ合う。社交の延長としての遣り取りの中、先に一歩踏み込んだのは若き獅子だった。
「時に、空将殿はご存知ですかな?」
世間話を語る様な気安さで、思い付いた事を告げる様な気楽さで、微笑んだままディエゴは問い掛ける。
問い掛けの言葉に、同じく笑みを浮かべていたヨアヒムの表情が凍る。それ程に、その問いは触れられたくない事だった。
「異端審問に招聘されていた、最南端の騎士シャルロット・シュヴァリエ殿。彼女が聖教総本山への移送中、突然姿を消したらしいと」
「……寡聞にして存じませぬ。その様な出来事があったとは」
笑みを少し深めて、笑うディエゴに如何にか返す。その青い瞳はまるで、全てを知っているぞとでも言いたげに思えてくる。
胃が痛むのを隠しながら、ヨアヒムに出来る事など誤魔化す事だけ。その事件の真相を暴かれていたのだとしても、こんな場所で語れる筈がなかったのだ。
中央に呼び戻されたシャルロットに待っていたのは、魔物と化した事を理由とした異端審問への招聘。
聖教の異端審問は形こそ裁判であるが、その実態は唯の処刑だ。被疑者に拷問を与えて、その結果を神のお告げと断定する。
拷問途中で死んだのなら、神がそれを求めていたのだ。死ぬべき定めの悪である。
死んで当然の中を生き伸びるなら、それはもう人間ではない。裁くべき悪である。
招聘に応じた時点で最期。必ず死に至る処刑の宣告。それをシャルロットは受けたのだ。
故に彼女は姿を消した。同行していた師と共に、移送途中で失踪した。其処に彼の友人が、手を貸していない筈がない。
「同行していたクリフォード・イングラム殿が同様に姿を消している事から、彼と個人的に友誼があった貴方ならとも思ったのですが……」
「…………」
既に明確な物証は掴んでいる。クリフとシャルロットを匿っているのは、この男の協力者である。
今も聖教に異端審問の撤回を要求しながら、同じ口で対象者の捜索を続けていると欺いている。そんなヨアヒムに、ディエゴは微笑む。
一体何を望んでいるのか、沈黙の中でヨアヒムは思考する。底の知れない笑みを浮かべた獅子を前に、空将は言葉を返す事すら満足に出来なかった。
「いえ、失礼を。この様な祝いの席に、相応しい話題ではありませんでしたね」
「その様な事は……我が国の恥を晒す様で、こちらとしましては、一体どの様に申し開きをするべきかと」
この事実を指摘されれば、唯でさえ不利な王族派が更に苦境となるだろう。
そんな弱みを握っている事を示してから、ディエゴは追及の手を止める。それは唯の甘さじゃない。
ディエゴにとって、中央の内乱は都合が良い。彼の目的は西大陸にこそ、なればこそ王族派が詰んでしまうのは望ましくない。
「ああ、そのように重く捉えないで下さい。私が持ち掛けましたのは、聖教に用件があったからなのです」
「聖教に、ですか?」
「ええ、少々厄介な案件が本国にて発生しまして、尊き方々のお手を借りられないかと。……異端審問の件が大事となっているのなら、今持ち掛けるのは或いは不都合かとも思いましてね」
「それは、どの様な案件ですか?」
そして西の大陸にて、それを為すにも障害がある。己の片腕とも言える部下をして、容易くは覆せないと語る敵が居る。
故にこそ、この弱みに付け込んで一つ手を打つ。上手く嵌れば有効打となり、下手をしようと中央は荒れてくれる。そんな一手を此処に打つ。
「悪竜王アジ・ダハーカ」
ディエゴの笑みが深くなる。彼にとって必要な、貴種たる蒼を守っているその怪物。
それを取り除く為に、時間が欲しい。故にディエゴは一手を打つ。その言葉こそが、その為の楔であった。
「ヘロネ・ゴーシオにて出現した魔物が、そう名乗ったそうなのです。曰く、我は第五の魔王であると」
もしも、その言葉を聖教が知ればどうなるか。あらゆる魔の存在を許さない彼らが、その言葉を知ればどうなるか。
騙りであっても、魔物の王。そう名乗った存在が居るのだ。それを聖教は許せない。その存在意義故に、彼らは必ず動くであろう。
「騙りならば問題はないのですが、事実相当額の被害が出ている。万が一、彼の言が真実ならば――我々は恐ろしいのですよ」
何よりも優先するだろう。誰よりも優先するだろう。魔王と言う名は、騙る事すら在ってはならない。
そう信じる聖教は、教義に狂った信者たちは、必ずや魔王の廃絶に動く。そしてそれは、ヨアヒムにとっても都合が良い。
「故に、貴方にもご協力願いたい。大した事ではありません。私が聖教にある提案をしますので、それが国の中央に上がった際に、一つ保証して頂きたい」
今はクリフやシャルロットを追っている聖教だが、魔王廃絶の話が出ればそれも無くなる。
上手く立ち回れば、魔王退治に助力した恩赦と言う形で、異端審問自体を撤回させる事すら出来るだろう。
弱みを握られ、利益を見せられ、故に選択肢などあり得ない。此処で頷く以外に、空将に出来る事など何もなかった。
「もし、万が一、本当に魔王であったのならば――そうする他に、術はないのだと。唯それだけを発言して下されば、それで十分です」
力なく、頷いた空将ヨアヒム。そんな彼の姿に、若き獅子は笑みを深める。此処で為すべき事は、これで終わりだ。
丁度タイミング良く、会の閉幕を告げる最後の楽曲が鳴り始める。役目を終えた会の主役は、微笑みながらに最後に語った。
「ああ、それと――次の機会がありますれば、この様な歓待は控えていただけますか?」
「……理由をお聞きしても?」
まだ何かあるのか。腹黒い遣り取りを苦手とする武辺の男は、疲れを隠し切れないままに言葉を返す。
そんなヨアヒムの姿に苦笑して、情と合理の怪物は口にする。理由として挙げたのは、この飽食が合わぬ事。
「何、大した事ではありません。私はこれで、貧乏性な性分でしてね。この様な豪奢絢爛な舞台は少々、肌に合いません」
「ですが、国賓とも言うべき方にその様な……」
「なら、せめて財の使い方を変えて頂けますかな? 料理を幾つか減らして頂き、代わりに民へと振る舞って頂きたい」
そう答える事は分かっていた。故に男は、前以って用意していた言葉で返す。
会に掛ける費用を減らして、その分を民に還元して欲しい。そう語るディエゴの発言は、利でなく情から生まれた物。
「西の民は強欲なのです。私は肉の飽食よりも、心の飽食を望んでいる」
ディエゴは真っ当な善人だ。そう言う感性を持って生まれて来たし、そんな感情を捨てたくないと思っている。
合理主義者故に己の利益を捨ててまで、それ程に願う事などは出来ない。それでも余裕があるならば、施したいと思ってしまう。
そんな男のそれは、中途半端な甘さである。それを為したから、民の状況が根本的に変わる訳ではない。唯の自己満足と分かって、それでもディエゴは語るのだ。
「私が来て良かった。そう多くの民が、思ってくれる。料理が一品増えるから、私が来て嬉しい。その程度で良いのです。その想いこそが、何より私が欲しい飽食です」
「……畏まりました。では次の機会には、その様な宴をご用意しておきます」
民の喜ぶ顔こそが、己にとっては利益となる。そう微笑むディエゴを前に、ヨアヒムはその要求を了承する。
国賓自らが望んでいるのなら、それを理由に押し通せる。其処にどんな裏があろうとも、それで今日を乗り越えられる民が増えるのだから、彼に断ると言う選択肢はなかったのだ。
そして城を出たディエゴは、共も付けず暫く歩く。国賓にしては有るまじき、そんな無防備なその姿。
されど、真実無防備と言う訳ではない。誰も引き連れずに移動していると見える彼は、事実最高の護衛を侍らせている。
「車を出してくれるかい。灰被り」
「あいあい。了解ですよ」
己の影に向かって、そう微笑み掛けるディエゴ。彼の言葉に応じる様に、その影が大きく膨れ上がった。
ずっと影に潜んでいた、己が最も信ずる護衛。灰被りの猟犬と共に姿を見せるのは、小型サイズの乗用車。
現世と繋がる門より流れ来て、西の技術で再現した物。魔導機関で動く絡繰りに、ディエゴ達は乗り込んだ。
「んで、何処行きますー?」
「取り敢えず、聖教の総本山に。アポイントメントは取れなかったが、誰かは対応してくれるだろう。王女殿下の婚約者と言う立場があれば、彼らも無下には出来ないからね」
馬車用に広く作られた道を、灰被りの猟犬が操縦する乗用車が走り出す。
緩やかな徐行でも、速度はそれで十二分。それ以上を出せば、周囲を行き交う人が危険だ。
(あー、無意味に轢きてぇなぁ)
とは言え、周囲の危険を考慮する様な善人は、ディエゴだけだ。
もう一人は寧ろ、遊び半分にアクセルを踏み抜きたいと考える様な危険人物である。
そんな危険人物を悠然と見るディエゴは、ふとその事実に気付いた。
今日初めて直接顔を合わせた猟犬。血のローブに隠れた身体付きを、目敏く見付けて問い掛ける。
「おや、今日は男性なんだね。珍しい、何時もは女性の日が多いのに」
「そりゃあれですよ。中央は治安悪いっすから、女じゃ今一護衛としてって奴ですよ」
性別不詳な灰被りだが、彼は男性的な身体よりも女性的な身体を演じる事を好んでいる。
故に元の性別は女性だったのではないか、そう踏んでいるディエゴ。そんな彼に、灰被りは殊勝な台詞を口にする。
とは言え、それが事実と言う訳ではないだろう。刹那主義の快楽主義者である彼の事だ。絡まれたのなら喜々として、殺しに掛かるだけである。
それもまた楽しいと、故に殊勝な台詞な筈がない。ならば唯の思い付き。意味のない発言だろう。そんな思考が見抜ける程度には、互いの付き合いは長いのだ。
「ふむ。聖都でも影響が出る程に、治安悪化は進んでいるのか」
「いやー、割と昔っからですぜ。貴族に非ずんば、人に非ずって感じのノリは」
「……そう言えば、君もこちらの出だったね。中央はそんなに、変わっていないかい?」
「あー、どうですかね。俺もこっちに居た頃は、貴族様の奴隷やってたんで、正直深くは知りませんわ」
故にディエゴが気にするのは、治安が悪化しているという発言。その言葉に眉を顰めて、灰被りに問い掛ける。
嘗てはこの地で、貴族に飼われた奴隷であった。幼い時分に中央の腐敗に染められて、価値観が壊れている猟犬は嗤って返した。
「けど、ま。悪化してんじゃないですかね? 良くなる要素、皆無じゃないっすか」
「そう、か。……悲しい事だね。誰かの罪で被害を受けるのは、何時も弱い立場の人間達だ」
道行く人を見る。その窶れた頬を、その粗末な服を、飢えている人々を悲しそうに見詰める。
比較的裕福な筈の、聖都の平民でさえこの有り様。ならば他の地に住まう人々は、一体どれ程に苦しんでいるのであろうかと。
「だったら、この国取ります? 大将なら、結構良い線行けるんじゃねーですかね?」
「私は器じゃないよ。この国は、私の懐には大き過ぎる」
割と本気で、灰被りの猟犬はそう提案する。このまま姫との婚約を進めて、実権を奪い取ってしまえば良いと。
そんな片腕の言葉に対し、ディエゴは悲しそうな表情をしたまま首を左右に振った。自分では救えぬと、そう彼は諦めている。
「甘いだけさ。合理で判断しているのに、無駄に甘いから、こうして無駄に悲しんでいる」
己は決して、優しくなどはない。強くもなくて、甘いだけ。そんな弱い男である。
だから、古くに友を失くした。だから、家族を切り捨てる事しか選べない。そんな男が王になっても、決して世は良くならない。
「愚かだね。分かっていて、後悔ばかりだ。……妹一人救えぬ私は、やはり王の器じゃない」
ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェは王者じゃない。王になってはいけない者だ。彼は己をそう定義する。
そんな情深き合理主義者の姿に、これは筋金入りだと手を上げる。胸中で付ける薬がないと断定しながら、灰被りは息を吐く。
だが、その嘆息は早計と言えるだろう。純粋に人々を案じている善人であるのだと、そんな定義は間違いだ。ディエゴは極めて甘い男であるが、それでもやはり――
「それに割に合わない」
この男は、西の人間である。何処までも冷徹な思考を持つ、数理の呪詛を背負った男だ。
「中央の民を救う為に必要なコストと、それを行った上で得られるメリット。誰かを助けたと言う実感で、私が満たされるだけでしかない。故にこそ、私はこう口にしよう」
人々を案じる心配の情。哀れみの籠った瞳で、道行く人々の姿を見詰める。そのやせ細った身体に、確かな悲痛を感じながらもその結論は変わらない。
この今に中央の民を救おうと思えば、一体どれ程の労苦が待つ事か。一体どれ程を敵に回すか。一体どれ程、己を切り売りしなくてはならないか。
それが全て分かっているから、ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェは水の瞳に慈愛を浮かべたままに語るのだ。
「滅んでくれ。君達を救う利益がない」
ディエゴは甘い男である。王に相応しくはない狭量な器だ。故に彼の手が届くのは、西大陸と言う一つのみ。其処を救う為に生きると決めたから、この中央には滅んで貰わなくては困るのだ。
「はは、ははははっ! やっぱ良いなぁ、そうだよ、そうだよ、そうだよなぁ! 大将はやっぱ、そうでねぇとっ! だから、俺もアンタをつるむんは愉しいんだよ!」
灰被りの猟犬は嗤う。何処までも情深く、誰よりも情に心を揺ら続けながら、それでも合理しか選べないこの男。ディエゴと言う男は西の人間に相応しい人品をしているからこそ、灰被りの猟犬は彼に友誼を抱いているのだ。
「私としても、君と動くのは好ましいよ。もう少し、犠牲を減らしてくれれば、とも思うがね」
「そりゃ無理な話ですって、これでも十分自重してるんですぜ? これ以上我慢したら、それこそ俺の身体に悪い」
「殺人快楽依存症。そんな君を動かすのに、必要なコストだとは分かっているがね。それでも心は痛む物なのだよ。……ああ、私はやはり甘い男だ」
「どの口が言いますやら。ま、どうでも良い話ですが……結局、中央は予定通りに掻き回すんすか?」
「ああ、姫君が予想以上で助かったよ。彼女が民を想う者なら、もう少し心が痛んだんだが、彼女も最初から捨てる気の様だからね。精々、その名を利用させて貰うとしよう」
「けど、その場合でもやってたんでしょう?」
「無論。私は母祖の罪を償うと決めた男だ。故にこそ、誰が涙しようと止まらない」
笑って人を殺す外道の言葉に対し、涙を浮かべながらに人を殺す男は微笑む。彼は揺れている。何時だって揺れている。その心は悲鳴を上げて、それでも合理のままに進むのだ。
それがディエゴと言う男。彼は全てを捧げて来た。始まりの想いは情故に、ディエゴは決して止まれない。どれ程に苦しく辛くとも、彼は周囲に災禍を齎す。それが一番、効率的であるのだから。
「私は西に専念したい。中央の横槍など必要ない。故に彼らはその内で、共に相食み続けて貰おう」
「その為に聖教にタレコミですか。その結果がどうなるか、分かってやるんだから性質悪いですぜ」
これよりディエゴが打つ一手。それはたった一つの情報で、聖教を暴走させると言う手段。
その結果として起こるのは、先ず間違いなくそれである。そう成る様に、彼は誘導する心算であった。
「魔王に勝てるのは、勇者だけ。それは歴史が証明している。そう、聖教ならばそう考える。魔王を倒すのに、必要なのは勇者である」
「聖教の神聖術。その最秘奥である、勇者の召喚。大将の狙いって、要はそれでしょう?」
勇者召喚。聖教に魔王の存在を伝える理由は、即ちそれを求めたが為に。
大聖堂において、王族と聖女が祈りを捧げて起こす奇跡。魔王を倒せる存在を、異なる世界から呼び込む大儀式。
それが成れば、必ずや現れるであろう。悪竜王を打ち破ると言う因果を持った、新たな勇者が降臨する。
「――けど、本命はそれじゃない」
だが、勇者召喚は本命ではない。ディエゴと言う男が望むのは、勇者召喚によって起こるであろう中央の動乱。その政治対立の激化である。
「勇者召喚自体は、確かに行われるだろう。だが中央の情勢を思えば、直ぐにと言う訳にはいかない。何せ神聖術の最秘奥だ。発動には無数の枷があるだろう。真に魔王を討てるとすれば、付き纏う利権はそれこそ星の数程に。人は強欲な生き物だからね。それが新たな火種となる」
「大臣派と王族派。其処に聖教派を巻き込んで、中央動乱に王手って所ですかねぇ」
勇者自体を使う心算などはない。神聖術の秘奥を軽んじている心算はないが、勇者自身は直ぐに使える者ではないからだ。
神聖術の最秘奥。勇者召喚とは因果の操作を含んだ儀式だ。目的と定めた事を達成する為に、達成できるだけの要素を持つ。そんな存在をあらゆる並行世界より探し出して、勇者と言う形で召喚する大儀式なのである。
故にこそ、魔王を倒す事を望んで行えば、魔王を倒せる者を呼べる。絶対的な対抗術式。如何なる危機すら打開できる。そう言う禁じ手の類である。
だが、打倒する存在と言っても打倒手段は無数にある。単純な力で倒せるのかも知れないし、或いは何等かの形で封印する事が出来るのかも知れない。戦闘に限って言うだけでも、拳で打ち倒す者かも知れないし、剣で打ち倒す者かも知れぬし、精霊術で打ち倒す者かもしれない。可能性はそれこそ無数だ。
それに、その力が覚醒しているとも限らない。対抗手段を獲得する資質を持っているだけで、その時点では一般人である可能性は低くない。
事実、嘗ての勇者はそうだった。勇者キョウと言う少年は未完のままに呼び出され、旅路の中で人の絆を束ねて魔王を打倒した。
その資質を見極める時間が必要だ。見極めた上で、磨き上げる環境が必要だ。だからこそ、勇者と言う存在は即戦力とは成り得ない。
故にこそ、ディエゴがその一手で望むのは中央の混乱。魔王と言う存在が居るからこそ、誰が勇者と言う対抗手段を掌中に収めるのか。何処か主導して、その名声を手に入れるのか。
当然聖教が一番声高に主張するだろうし、大臣だって黙ってはいまい。勇者召喚の儀を行えるのは王族だけだから、王族派も巻き返しを狙って来る。故にこそ、それは火種と成り得るのだ。
「けど、分かってますかい? それ、一番苦しむのは民ですぜ?」
「ああ、そうだね。だが、その方が効率的なんだ。確実に中央を黙らせる。その方法が、他に浮かばなかったんだよ」
ディエゴはこれより、西の地にて望みを果たす。その為に積み重ねて来たのだ。後は貴種たる蒼をその手に掴めば、彼の大望は叶うのだ。故にこそ、彼は涙を一筋流しながら、それでも笑顔を浮かべたまま、その言葉を口にするのだ。
「確実に西を救う為、中央の民には滅んで貰う。……どうせ滅ぶんだ。ならば、絞り取れるだけ絞り取っておくとしよう」
笑みを浮かべる。心を痛めて、涙を流して、笑みを浮かべる。そんな男は外道である。
笑みを浮かべる。愉しそうに笑って、心の底から嗤っている。そんな獣は外道である。
此処に居るは二匹の外道。甘いだけの外道は語る。腐った様な外道は嗤う。共に夢見た未来は違えど、彼らが為すのは同じく外道だ。
「中央の民よ。哀れな人々よ。罪なく、救われるべき民衆よ。私の利益の為に――苦しみ悶えて死んでくれ」
全ては己の利が為に、情より生まれた利益を求めて、ディエゴはその手で世界を回す。
貴種たる蒼を手に入れて、彼が望むは血の贖罪。救われぬ者を救う為。求めているのはそれだけなのに、その為に救えるかも知れない人々を地獄に堕とす。
そんな己を下らないと想いながらに、それでも変わる事など出来ない。ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェとは、そんなどうしようもない外道であった。
そろそろ、心配になってくる。ヨアヒムさんの胃の強度。