一時閉幕
◇
少年少女が約束を交わし、ヒビキが牛歩戦術で叱責の時を引き延ばしている頃。
瓦礫と大穴だけが残った巨大な邸宅跡地にて、肥えた豚の様な男、ガリコイツ・ペーニャは意識を取り戻していた。
汚物に塗れた男の顔に、浮かぶ色は恐怖と焦燥の色――ではない。男の顔に浮かんでいたのは、憤怒の相だった。
「くそっ! くそっ! くそっ! この儂を、馬鹿にしおってぇぇぇぇっ!!」
拳を大地に打ち付けて、歯噛みする男は全く懲りていない。どうしてこんな目にと、理不尽に思えど悔いる事などあり得ない。
ヒビキは見誤っていた。このガリコイツと言う男の性根を、欲深い小物と言う存在の精神性を、彼は全く理解してはいなかったのだ。
人は恐れる物に対して、触れる事を望まない。恐怖によって心を折って、関わりを断とうとする試みは愚行と言う訳ではない。
だが同時に、人は抑圧に対して反発心を抱く生き物だ。死への恐怖を正しく理解出来ない小物であれば尚の事、恐怖だけでは縛り付ける事など出来ないのだ。
「あの怪物に、クソガキめ。今に見ていろ。この屈辱、全て晴らしてくれる!」
幻覚であったと言う事実がそれを助長する。態々幻覚を使ったのには、理由があったと考える。
殺したくないと言う発想は、この男には浮かばない。身勝手な彼はそれ故に、殺せなかったのだと理屈を付けた。
あの怪物は弱いのだと、己一人殺せぬのだと、眼の前にある被害から目を逸らしてそう思い込む。
魔獣兵器が倒されたのは、試作品の兵器が弱かった所為だ。そう内心でノルテ・レーヴェを呪いながらに、ガリコイツは倒れた部下を蹴り飛ばした。
「おい! お前達ぃ! さっさと起きんか、馬鹿共がっ!!」
蹴り飛ばして叩き起こして、唾を飛ばしながらに指示を出す。
蹴り飛ばされて漸くに動き始める部下を後目に、悪竜王の脅威を正しく理解しようとしない小物は復讐の為に一手を打った。
「指名手配だ! 何処にも、逃げ場は残さん! 西の全てが敵に回る様、奴らの首に金を掛けろ!!」
ヒビキ。セシリオ。キャロ。市長の名を使って、彼ら三人の首に賞金を掛ける。
全員揃って生死を問わず、最新式の魔道具を用いて即座に大陸中へと触れを出すのだ。
蹴り飛ばされた部下が用意した魔道具に手を当てると、ガリコイツは脳内にイメージした情報を映し出す。
魔道具は暗く輝くと同時に一枚の紙片を作り出し、此処に契約は成立する。彼ら三者を捉える為に、必要な書類が其処にはあった。
「支払えぬ際には、儂の全てを明け渡すと誓った公文書だ。これを使えば、どんな額でも受理はされるだろう」
ここからの打開策など浮かばない。故に破滅は避けられず、ならば一人でも多くの巻き添えを増やそう。
故に三人全員生死を問わず。掛ける賞金額は今のガリコイツでは支払い切れぬ程に、余りに膨大が過ぎる額。
確実にガリコイツはこれで終わるが、己を舐めた者らも破滅するなら十分だった。
その場の怒りに身を任せて、暗い愉悦に汚く嗤う。何れ後悔するであろうが、そんな何れを思考する余裕すら今の彼にはなかったのだ。
「最早儂の破滅は確実。ならば貴様らも、皆諸共に破滅すれば良いんだっ!!」
これで最早、彼らに安住の地などない。人が住まう都市部には、最早立ち寄る事すら出来ぬであろう。
追い立てられて、追い詰められて、そうして破滅すれば良い。
猫背の男はぐふふと笑い、僅かに鬱憤を晴らすと先ずは着替えようと――
「あ?」
歩き出そうとした所で、そのまま地面に転がり倒れた。
丸い樽が転がる様に、男の身体が転がり落ちる。
立とうとして、だが立てない。何故、どうして、頭に浮かぶは疑問一色。
「ひ、ひひ、なぜ――」
痛みはない。苦痛はない。唯分からない。
意味が分からない。訳が分からない。分からぬままに己を見詰めて、其処で漸くに異変に気付いた。
「何故! 儂の足がないんじゃぁぁぁぁぁっ!?」
足が、ない。根本から、根こそぎ抉り取られていた。
まるで獣の爪に引き裂かれた様に、あの悪夢が現実になったかの様に、同じ場所が欠落している。
気付いた瞬間に、痛みが訪れる。悪夢ではなく、これはリアル。
思い出したかの様に噴き出す血が周囲を赤く染め上げて、ガリコイツは叫びを上げていた。
「足! 足! 儂の足ぃぃぃぃっ!?」
痛い。痛い。痛い。痛みにもがき叫ぶ太った男。
顔を醜く歪めた姿に、その見苦しい叫びの声に、のたうち回る男の姿に、何かがニヤリと笑みを浮かべる。
笑う。哂う。嗤う。見下しながらにゲラゲラと、ソイツは腹を抱えて嗤っていた。
「きはっ! きったねぇなぁ。おい」
嗤っていたのは、一人の女だ。ガリコイツの姿を無様と見下していたのは、仕立ての良い服を着た美麗な女。
ガリコイツは彼女を知っている。知らない筈がない。己の部下の一人にして、彼が嘗て見初めて地獄に落とした女だ。
その美しさが欲しくなり、借金漬けにして破滅させた。手を差し伸べた後は奴隷と同じく、性欲処理も兼ねた秘書として侍らせていた女である。
「あれか? 顔がきたねぇと、悲鳴も汚いんかねぇ? おいおいおいおい。悲鳴も汚いんじゃぁ、一体何を見りゃいいんだよ。短小野郎」
閨にて美しく鳴いていた声が、下種の如き言葉で嗤う。顔に浮かんでいる表情は、一度たりとも見た事がない嘲笑。
何時か壊そうと決めていた女のこれが本性だったのかと、ガリコイツは顔を真っ青に染めていた。
「な、何故だ。儂が死ねば、お前とて一緒に。一蓮托生の身であろうにぃ!?」
「ん? ああ」
真っ赤に染まった鉈と、抉り取られた足を両手で遊ばせる女。彼女に向かって、ガリコイツは口にする。
信じられない。理解が出来ない。金で彼女は縛られている。水の誓約がある限り、己に逆らえる筈がないと知っていた。
だからこそ、どうして此処で裏切ったのかと。そんなガリコイツの言葉に、一瞬何を言っているのかと女は戸惑う。
そうして数瞬。今の偽装を思い出した女はニィと笑みを浮かべて、勘違いをしている彼へその事実を突き付けた。
「ワリィワリィ。この顔じゃ、勘違いするのも仕方ねぇよなぁ」
「ふへ?」
「……これ、な~んだ?」
足と鉈を投げ捨てて、片手に展開したのは転送魔法。陣が暗く輝いて、印が刻まれた物が送られる。
呼び出されたのは、丸い物体だった。長い髪と整った顔立ちを、恥辱と白濁に染め上げた女の首が其処にはあった。
「おな、同じ、顔!?」
笑う女と抱える生首。その顔立ちは同じ物。生きているのか死んでいるのか、違いはそれしか存在しない。
そうとも、ガリコイツが破滅させた女はこの生首だ。その首を掲げて嗤う女を騙る別人は、ガリコイツの部下などではないのだ。
「応よ。正確に言えば、この顔の本来の持ち主さ。中々具合の良い女だったぜぇ」
「い、一体、何時からっ!?」
「お前さんが、貴種たる青を見付けた日から、さ」
女は凌辱されて殺された。その死後に顔を奪われて、当の昔に入れ替わっていた。
入れ替わった女の目的は明白だ。カロリーネと言う名の少女。その身柄を求めていたのだ。
嗤う女を見上げる男は、信じられない事実に絶句する。信じたくはないと、ガリコイツは震えていた。
彼が“青”を見付けたのは、もう一週間も前の話だ。実際に取引が締結し、引き取れたのが昨日であっただけなのだ。
その間に、何度もこの女を抱いている。閨に引き込んで、常と同じ様に抱いていた。
それに絡み付く様に、甘える様に応えていた。そんな女が別人だったと、どうして誰が信じられるか。
「魔法ってのは便利だよなぁ。棒を生やすも、穴を増やすも自由自在ってさ。抱いてみても、違いは分かんなかっただろう?」
この女はイカレている。この女に成りすましている存在は、人間として終わっている。
女を犯して殺して入れ替わり、そのまま男に抱かれて平然としている快楽主義者。その精神性は、最早異常の域にある。
この女は、確かに悪夢を見ていた筈だ。ガリコイツと同じく、血肉を蟲に喰われる恐怖を味わっていた。
小物の男とは異なって、女はその脅威を確かと知って理解している。それでも恐怖に目を背ける事をしなければ、それに屈する事すらしない。
「俺としちゃ、テメェの粗末な代物より、さっきの悪夢の方が良かったがね。見るかい? 下着が濡れて、ベトベトだぜぇ」
女は被虐趣味の快楽主義者だ。その異常な精神性は、向けられる死の恐怖すらも受け入れる。
苦痛も恐怖も快楽として享受する度し難いマゾヒスト。そんな女の精神性が異常ならば、女の肉体機能は規格外だ。
生首を軽く放り捨てて、手首を返す。転送魔法が展開されて、その手に握られているのはハンドガン。
幻想世界では一般的とは言えない武装の銃口から、鉄の弾丸が放たれる。一発金貨十枚以上、数百万と言う大金を霰の如くばら撒いた。
「ひぃぎぃぃぃぃぃぃっ!?」
「アハハハハッ! おらおら、テメェが大好きな金の雨だぜ! 喜び喰らって逝っちまいなぁっ!」
圧倒的な速さと精確さで、放たれるのは弾の雨。急所を避けての一撃が、男の身体をすり減らしていく。
徹底した嬲り殺し。それを可能とする動体視力や技巧が出鱈目ならば、倒れていた状態から気付かせる事なく足を奪い取った身体能力とて反則だ。
少なくとも片手間で、鏖殺されていく警備兵らでは相手にもならない。周囲の魔物を狩るだけの、冒険者など比較にすらなりはしない。
この女は、間違いなく西大陸でも別格の存在。いいや、この大陸だけではない。世界全体から見ても、十指に入る英雄級の実力者であった。
「手間かけさせやがってよぉ。こちとらずっと追い掛けて、北から態々やって来たって言うのに、鳶が横から搔っ攫っていきやがった。全く、腹が立つよな。おいおいおい!」
彼女――或いは彼の目的は、最初から貴種たる青、唯一つ。それを狙ったのは、この男よりも先だった。
足跡を辿って、追い続けて、辿り着いた場所は奴隷市場。自社の子会社の更に子会社。末席が確保していたと言う馬鹿みたいな話。それに気付いた時には既に、買い取られてしまったと言うのが運の尽き。
面倒だと息を吐きながらに、表と裏から手を伸ばす。正式な取引を持ち掛けるのと同時に、子飼いの誰かと入れ替わり、中から隙を伺っていた。
醜男に抱かれてみるのも一興かと試してみたが、思っていた程には楽しくない。だからこそ、その鬱憤を晴らすかのようにガリコイツを甚振っているのである。
「た、助け、て」
「嫌だよ。てか縋り付いてくんな。気持ち悪ィ」
体積を半分ほどに減らしながら、それでも死にたくないと嘆く醜男を踏み躙る。その目は異様な程に冷えていた。
刹那主義の快楽主義者の目から見て、この男は落第だ。嬲っても楽しくないし、嬲られても楽しくないのだ。だからガリコイツは、もう価値がない。
「あばよ」
撃ち尽くした弾倉を入れ替えると、だらんと垂らす様に腕を伸ばす。
そうして脱力したままに、放たれるのはヘッドショット。硝煙が立ち上り、空薬莢が地に落ちる。
赤い血潮が、花と散った。南部最大都市の支配者は、こうして命を終えたのだった。
手にした拳銃を転送魔法で倉庫に戻し、代わりに一枚の外套を取り出す。
色褪せた灰色のローブは幾つもの返り血によって赤く染まって、女のその身を覆い隠した。
そうして、変身魔法を解除する。ローブに隠れたその身体つきは、男とも女とも取れる中性的な物だった。
「あーあ、つまんね」
屍山血河を作り上げ、椅子代わりにドカリと座る。そうして懐から煙草を取り出すと、魔法の炎で火を付ける。
口に咥える事はない。彼は煙草が嫌いだから、これはあくまで鑑賞用。火の付いた煙草を死体に投げて、燃える様を鑑賞するのが趣味なのだ。
「不完全燃焼なんだけどよぉ。クソ、これならアマラの根暗でも連れて来るんだったぜ。治療魔法掛けて死体で遊ぶなり、あの女の穴使うなり出来たのによぉ」
死体の山で行われるキャンプファイアー。人の油で燃え上がる炎をぼんやりと見詰めながらに、詰まらないと吐き捨てる。
道徳などありはしない。天に唾する罰当たりな行いをしながらに、それすら真面に見てはいない。そんな彼の胸元で、一つの魔道具が静かに震えた。
取り出したのは、結晶媒体。ギルドカードにも似た薄手の板は、ノルテ・レーヴェ社で開発中の小型通信端末。
第一級の部外秘情報。最新技術の塊を慣れた手つきで操作すると、ローブの性別不詳は軽い笑みを浮かべながらに言葉を発した。
「あいあい。こちら、貴方の忠犬。首輪付きですよーっと」
誰からの連絡かなど、確認する必要もない。この端末を使えるのは、西でも僅か三人だけ。
一人はこのローブの性別不詳であり、もう一人は端末の開発者。片方は己で、もう片方が連絡する筈もないのだから、自然相手は一人に絞れる。
男なのか女なのか、ハッキリとしない声で軽い対応を見せるローブの人物。
空間に転写された画面に映った若い男は、そんな己が腹心の対応に苦笑していた。
〈無事、終わったようだね。灰被りの猟犬〉
「塵掃除だけっすからねぇ。そりゃ、簡単に済みますぜ」
画面に映るのは、薄く青みがかった銀髪の白人男性。端正な顔に柔らかな笑みを浮かべている彼こそ、西の雄ノルテ・レーヴェ社が頂点。ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェ。
ヘラヘラと笑って返す赤いローブの性別不詳。この者こそは第二次人魔大戦の折に名を上げた西方最高峰の英雄。灰被りの猟犬。
嬲り殺した死体を塵と嗤って踏み付ける灰被りの姿に、ディエゴは僅か眉を顰める。
その端正な容姿に浮かんだ表情は、不快の二字。互いに長い付き合いとはなるが、相容れない部分は確かにある。その一つが、コレだった。
〈……いけないな。塵と言う言い方はいけない〉
死者を嬲り、塵と嗤う。人の生き死にを使って遊ぶ。そういう一面を、度し難いと思ってしまう。
それは自覚がなくとも、彼が本質的には善人である為。根っこの部分で情に厚いが故にこそ、ディエゴにとっては譲れない。
「相変わらずですなぁ。殺せって命じた人が言う言葉とは思えませんわ」
そんな雇い主の不快を隠さぬ表情に、灰被りは分かり易い皮肉を返す。その程度の皮肉しか返せない。
偽善者であると言う誹りなど、本人が理解しているが故に罵倒にならない。自己満足と言う言葉を掛けても、ディエゴは鷹揚に頷くだろう。
彼は本質的に善人だ。情の人であり、心の底から他者の死を嘆ける人物だ。
だが同時に、彼は何処までも合理の人だ。必要だからと言う理由だけで、己の心を殺せる人間なのだ。
〈生きている彼は邪魔だった。だが、死んでまで鞭を振る意味はない〉
誰もが幸せになれば良いと、心の底から願っている。そうでありながら、必要とあれば不幸の底へと突き落とせる。
ディエゴ・イブン・アブド・レーヴェと言う男はそういう人物であり、なればこそ快楽殺人鬼に過ぎない灰被りの猟犬ともやっていけるのだ。
灰被りの悪趣味も、ディエゴは許容している。灰被りの猟犬と言う特級の戦力を用いる為には、必要な犠牲と割り切っている。
だが、彼はやはり本質的には情の人だ。見ず知らずの誰かが苦しむ姿にも、偽りのない涙を流せる人物だ。故にこそ、必要のない犠牲を彼は許さない。
〈死ねば全て等しく躯だ。確かな礼儀を払うべきだよ〉
「あいあい。了解っと。……ディエゴの旦那はその辺、面倒でいけねぇわ」
故にこそ、これ以上は辱めるなとディエゴは命じる。その命令は、灰被りの猟犬としても聞けぬ物ではない。
死体は嬲っても反応がないから詰まらない。そんな遊びにも使えぬ玩具に拘って、金払いの良い依頼主と仲違いなど笑えない。
面倒だと思いながらに、さりとて反感を抱く程ではない命令。長い付き合い故に己の譲れぬ面には口出ししないだろうと理解している灰被りの猟犬は、此処が落としどころかと自ら引いた。
己の腹心が一歩を引いた。譲ってくれた姿に、ディエゴは満足そうに微笑む。
紅茶が湯気を立てるカップを傾けながらに、彼は灰被りの猟犬へと本題を切り出した。
〈それで、灰被り。本来の目的は、果たせそうかな?〉
「カロリーネ、でしたっけ? タッチの差であのデブに持ってかれなきゃ、今頃回収出来てたんですがねぇ」
貴種たる青を求めていたのは、ガリコイツだけではない。ノルテ・レーヴェ社も同じく、彼より前から求めている。
全てはディエゴの望みを果たす為に。情によって道を定め、合理によって道を歩く。そんな男が目的の為に、カロリーネの身柄が必要なのだ。
北から逃げ出した時からずっと、灰被りの猟犬は動いていた。彼女を売った盗賊を惨殺して、その足取りを追って此処に来たのだ。
なればこそ、ガリコイツにノルテ・レーヴェ社が取引を持ち掛けていた。買ったばかりの奴隷が欲しいなど、そうでもなければ持ち掛ける事すら出来ないのだから。
そこまでして求めた“貴種たる青”。予想外の事も多くあったが、このままならば問題なく回収できる筈だった。
ガリコイツが素直に応じれば良し。そうでなくとも、入り込んだ灰被りの猟犬が回収すれば良い。それで全てが解決する筈だった。
その目論見が崩れたのは、一人の少年と悪竜の王が存在故にである。
そそる要素を持つ彼らを想い、灰被りの猟犬は肩を竦める。共に犯して嬲りたいのだが、同時に彼の優れた嗅覚が言っているのだ。
アレに無策で手を出せば、己が潰されてしまうぞと。
「ありゃ駄目だ。東の王様と同じですぜ。人間が関わって、如何にかなる域を超えている」
〈悪竜王。その手から青を取り戻すのは、名高い君でも難しい、か〉
「不可能、とは言いませんがね。もう少し、見に徹しさせて下さいって所っすか」
不可能に挑む、と言うのも悪くはない。あれ程の怪物との戦い、感じる快楽はどれ程になるだろうか。
其処に期待を抱かぬ訳ではないが、最初から可能性が零では些か以上に詰まらない。
結果としての死亡は笑って受け入れられるが、最初から死ぬと分かって突っ込む自殺願望は灰被りにはなかったのだ。
だがそれでも、黙って見過ごすと言う手はありはしない。
弱者を嬲り殺すのと同じく、強者を手玉に取るのは愉しいのだ。ならばこそ、こんな好機は逃せない。
故にこそ、悪竜王に襲撃を掛ける事は最早、猟犬の中では確定事項。その絶望的な力など、欠片たりとも恐れはしない。
「後はあれだ。特別ボーナスくらいはあるんすよね」
〈ペーニャ市長が掛けた賞金額の倍くらいは、追加払いの余地はあるよ〉
「ひゅー。さっすが、太っ腹な雇い主様ですな」
直接的に戦わないなら、やりようは幾らでも存在する。
目的は竜の手から、守る玉を奪い取る事。ならばどうとでも出来るのだと、彼は嗤いながらに断言する。
故に灰被りの猟犬は、雇い主へと問い掛ける。これからどうすれば良いのか、と。
「んで、取り敢えず、どう動きます? 自由で良いっすかね?」
〈……ふむ。そうだね〉
問われて、ディエゴは僅かに思考する。市長が出した指名手配は、このまま通して良いだろう。
暫く見に徹すると言うなら、賞金稼ぎは囮として重宝出来る。寧ろノルテ・レーヴェ社のバックアップで、全国規模に広げてしまおうと考えた。
そうして、コップを静かに傾ける。中身が空になったカップを机に置くと、優雅に笑ってディエゴは告げた。
〈死ねば全て等しく躯だ。先ずは元市長殿の為に、墓を建てる事から始めようか〉
そんな言葉に嫌な顔をする灰被りの猟犬。部隊を連れて来るんだったと愚痴る性別不詳に、ディエゴは小さく微笑み瞳を閉じる。
優しい瞳で、瞼の裏に思い描くは嘗ての情景。人を愛し過ぎたが故に間違った道を選んだ情深き合理の男は、愛する少女を瞼の思い描いて笑っていた。
◇
夜明けを前にしたヘロネ・ゴーシオの街中を、リュックを背負った竜が駆け抜ける。
両手に抱いているのは二人の友達。ミュシャとエレノアを抱き締めて、ヒビキは前へと進んでいた。
そんな彼の背後から、聞こえてくるのは怒声と罵声。フル装備をした冒険者や街の警備兵らが、必死になって追っている。
口々に叫ぶ言葉は、止まれだとか人質を離せだとか。ヒビキにとっては都合が良い、勘違いをした彼らの発言。それを訂正する事もなく、ヒビキは軽々と駆けていた。
「にゃ、にゃにゃ。これは、悪い夢にゃ。きっと、まだミュシャは夢を見てるんだにゃ」
「諦めろ、駄猫。俺は諦めた。……ヒビキを一人にした俺らの所為って事だろ。こりゃ」
手にしたヒビキの手配書類。零が九個も並んだ数字は、彼の首に掛かった賞金。ブロン換算の数字であっても、額としてはとんでもない域にある。
銅貨一枚で日本円にして、大凡十円。銅貨にして十億枚というその賞金額は、百億円と言う途方もない金額。一生を余裕で遊んで暮らせる金額だが、悪竜王の首に掛かった金額と思えば果たして安いか高いのか。
手配書類の金額を数えながらに、死んだ魚の様な瞳でそんな事を考えているミュシャ。
そんな彼女に向かって諦めろと、同じく死んだ魚の様な瞳でエレノアは告げる。たった一昼夜で百億の賞金首になるなど、一体何をすればそうなるのか。エレノアとしても疑問は尽きない。
大都市間の転送装置が使えない。どころの話ではなく、大都市は愚かもう村落にすら入れまい。
今まで立てていた旅の算段がご破算だと、これからどうしようかと思い悩む。そんな少女らを抱えたまま、ヒビキは北の門を目指していた。
其処に待つ彼らが居る。背負った荷物は、其処で待つ一人の少年への餞別だ。
下級寮の人々は、水の誓約故に全面的な協力は行えない。手伝おうとすれば、彼ら自身の命に関わる。だがそれでも、出来る事を彼らはした。出来る範囲で、彼らは為したのだ。
旅に必要な物資を集めて、不注意故に失くしてしまったのだ。そういう名目で、何も語らずに五人分の旅装を用意していた。そしてセシリオなど知らないと語りながらに、下級寮から出ようとしたヒビキに投げ渡したのだ。
誰とは言わないが、誰かに渡せ。そう暗に語る彼らに笑って、ヒビキは確かに請け負った。そうして旅の支度を整えたヒビキは此処に、新たな仲間達と合流する。
「おーい! 兄ちゃんこっち! ってうぉい!? 多っ!! 多いよ!?」
「す、凄い、数。街中の冒険者が、此処に居るんじゃ」
北門から手を振るセシリオと、寄り添い立つキャロの姿。それが見えた瞬間に、ヒビキの背後で怒声が響く。
指名手配されているのは彼らも同じく。人質を連れたまま、共に逃げる気かと追手たちは気炎を上げていた。
そんな追跡者らの前を進むヒビキは、踏み出す足に力を入れると一歩を大きく踏み出す。
瘴気の力で異形の腕を作り出すと、子供達を掴んで背中へと。荷物を避ける様に生やした大きな翼の上へと彼らを乗せて、その容貌変化に周囲がまたしてもざわついた。
「何処へ行く? セシリオ」
騒めく群衆を煩いと思いながら、背負った子供に問い掛ける。向かうべきは何処であるかと。
ヒビキの問いに対してセシリオは、子供の如く笑って語る。瞳を輝かせる少年が、目指す場所など唯一つ。
「勿論! 北の果てへさ!」
商人の街。ヘロネ・ゴーシオを搔き乱して、西大陸の冒険は此処に始まる。
旅する竜の物語。少年少女を加えた一行はこれから、北への道を目指す中で多くの物事に出会うであろう。
此処は幻想世界が一つ。西の大陸は、契約に縛られながらも自由を求めた場所。
黒き翼に小さな欲望を乗せて、悪なる竜はこの新たな大地を駆け抜けるのだった。
〇
書くの面倒なのに需要がなさそうなので、第二部のあとがきと解説は省略です。
次は第二部第二幕『竜と旅する仲間のお話』を予定しております。……その前に、もしもドラゴンじゃなかったらの方を更新するかも知れませんが。