その11
◇
誓約を破った者へ、下される罰は大きく分けて二つの段階に分かれている。
一つは警告。其れは痛みや苦しみを伴って、誓約者に思い知らせる。
此処から先はもっと苦しいぞと、だからもう退けと、思い止まらせる為の呪詛である。
それでも退かぬ者。苦痛で止まらぬ者に対しては、誓約はその形を変える。異なる形で力を示す。
許す訳ではない。認める訳にはいかない。契約の違反には、必ずや罰が必要だ。でなくば全ての契約は、強制力を持ちえない。
されど大いなる母は、決して人を傷付けたい訳ではない。故にこそ、水の誓約が齎す結果は安楽死。
警告で止まらぬ者への苦痛は、少しずつ消えていく。そしてそれに比例する様に、その生命力も消えていく。
穴が開いたバケツから水が零れ落ちる様に、命が零れて消えていく。それが今のセシリオだ。
目が霞む。視覚が掠れて消えていき、今はもう何処を進んでいるのか分からない。
耳が遠くなる。音が聞こえなくなっていく。聴覚機能が衰え始めて、彼の現実は乖離する。
触覚はもう消えている。背に負う重みが分からなくなって、大切な彼女が其処に居るのか不安になった。
「あー、もっと鍛えておけば、良かったかも」
だからそんな不安を跳ね飛ばす様に、セシリオは軽口を此処に紡ぐ。
牛歩の様に進みながらに、笑う声はもう儚い。幾ら想いが募っても、覆せない物が此処に在る。
「セシリオ」
蚊の鳴く様な小さな音に、キャロはその背をぎゅっと握った。
引き返すには、もう遅い。二段階目に入った以上、今更止めても助からないと知っていた。
「ん? 何か言った? 悪い。聞こえなかった」
名を呼ばれた事にすら、もう真面な反応を返せない。それ程に追い詰められていて、それでもセシリオは前に行く。
昼間だと言うのに、人気のない路地の裏。たった二人の静かな場所。北の門へと向かって、彼はまた一歩を踏み出した。
そうして、一歩。また一歩と進んで、足が動かずよろけた。
体勢が崩れた彼は、そのまま大地に倒れていって――その直前に、光が零れた。
淡い光だ。黄色に近い輝きの、とても淡く儚い輝き。その光を、キャロは確かに知っていた。
「精霊の光」
「へへっ、綺麗だろ。俺の、切り札」
輝く光は、少年の首に掛かった飾りから。銀細工のアクセサリーには、大きな宝石が一つある。
星の息吹。大地の結晶。水の誓約から少年を守らんと、儚く輝く力は大地の王が加護だった。
「兄ちゃんがさ、クロエが一番信頼できるって」
水の誓約。命を奪うその呪詛に、セシリオが考えた対策がこれだった。
残る四属が内の一つ。他の精霊石で抵抗する。そう提案したセシリオに、ならば土が一番良いとヒビキは返した。
この今になって輝いたのは、セシリオが生命力を自覚出来たのが今だから。
死に瀕する状況になって初めて、氣を認識する事が出来たからこそ、大地の光は輝いたのだ。
だから、セシリオはもう一度立ち上がる。儚い光に支えられて、もう一度彼は立ち上がる。
だが、立って歩ける時間は長くはない。水の誓約への抵抗。それが出来るのは、この儚い輝きがある間だけなのだ。
精霊石が無くなれば、もう立てない。そうでなくとも生命力が尽きれば、其処から先へは進めない。
それでも今は進めるから、一歩前へと足を踏み出す。進める間に救える場所へ、辿り着こうと前に行く。
「なあ、何処へ、行けば良い?」
進みながらに、問い掛けた。何処まで行けば、君は助かるのかと今更ながらに問い掛けた。
「何処まで行けば、君を守れる?」
背負われた少女は、儚く微笑む。彼女に安住の地などはない。
だから、けれどそれを誤魔化す様に、キャロは静かに彼へと問い掛けた。
「……セシリオは、何処へ行きたい、ですか?」
「ん。俺が、決めて、良いのか?」
淡い光が零れている。火の粉の様に浮かび上がって、空に擦れて消えていく。
水の誓約は消えた訳ではない。停滞しているだけならば、一歩進むだけでも命掛け。
故に微笑むキャロの本心に気付けず、セシリオは何処へ行きたいかだけを考えた。
「なら、そうだな。ピコデ・ニエべに、行きたいかな」
「……北の果て、ですね」
出て来た答えは、その場所だ。西方最北端に位置する大山脈。
万年雪が深々と降り続ける山の麓。其処にある白き輝きこそが、セシリオの抱いた原風景。
「其処がさ、故郷なんだ。写真でしか見た事ねぇけど、すっげぇ綺麗なんだ。だから」
気付いた頃には、もう人買いに売られていた。物心が付く前に、口減らしとされたのだろう。
それでも胸に残った想い出は、写真に勝るとも劣らぬ程に綺麗な場所。ノルテ・レーヴェ社と契約して、其処へ行こうと目指していた。
望んだのは、自由になる事。自由になって、その場所へ。故郷へ帰る事こそ願い。
今になってその事実を思い出し、だからこそセシリオは憧れる様な色を瞳に浮かべて口にした。
「一緒に、行きたいなぁ」
「……はい。其処へ行きましょう」
キャロは思う。カロリーネは此処に想う。彼はとても変な人だと。
言葉も交わす前から好きだと、それで命を賭ける人。
死ぬと分かっていながらに、泣いたままにはさせられないと叫んだ人。
変だ。間違っている。どうかしていると思うのに、その姿はどうしようもない程に綺麗に思えた。
何も選べないで流され続けている自分と違って、想いを胸に刹那を生きる。その姿はとても尊く思えたのだ。
「本物はさ、きっとすっげぇ、綺麗だろうなぁ」
「……はい。きっと、凄く綺麗です」
きっと綺麗な場所だろう。こんな綺麗な人が生まれた場所だ。美しくない筈がない。
キャロは彼の言葉を肯定する様に微笑んで、ゆっくりと歩き続けるセシリオは嬉しそうに笑っていた。
一歩、一歩と進んでいる。少しずつ歩く速度は、牛歩の如くゆっくりと。
淡い輝きは消えていく。一片一片、少しずつ弱くなっていく。ほんの少しずつ、儚くなっている。
北の果ては遠い。万年雪の山は遠い。ピコデ・ニエべは遠いのだ。
どれ程進んでも、まだ街の門は見えて来ない。どれ程進んでも、まだ雪の山は見えて来ない。どれ程に進んでも、一片の雪すら見えてはくれない。
だから――
「だから、ね。駄目、です。セシリオ」
進んでいた心算なのに、何時の間にかセシリオは倒れていた。
何時倒れたのか、何時止まったのか。今倒れている事すらも、彼は気付けていなかった。
「こんな所で寝てたら、幾ら時間があっても、北に行けない」
「…………あれ? 俺、寝てた?」
意識が断絶している。記憶が繋がっていない。起こされて初めて、寝ていた事を自覚する。
精霊の光が消えていく。大地の光はもう後僅か。命の蝋燭はこの今にも、消えそうな程に儚いのだ。
「大丈夫。起きるよ。直ぐに、起きる、から……」
「セシリオ」
「うん。大丈夫。起きる、起きれる、から」
寝ている場合じゃないと分かっている。だから立ち上がらないとと、セシリオは力を込めようとする。
けれどどうした事だろうか。どうしても立ち上る事が出来ない。起きないと、起きれるから、だから――彼は小さく口にした。
「起きたら、北へ。一緒に、行こう。約束、だ」
「約束、です。だから――」
倒れた少年の傍らで、歩けぬ少女は言葉を掛ける。声に返る、音はない。
最後の一片。大地の輝きは儚く消える。倒れたセシリオは、静かに目を閉ざしていた。
それで終わりだ。交わした約束を守れる筈もなく、此処にまた一つ。
水の誓約は悲劇を起こした。これは数多ある悲恋の一つ。唯、それだけの話であった。
「あ」
涙が零れた。彼の事は何も知らない。それでも涙が止まらなかった。
「ああ」
何もしなかったから、流され続けたから、それがどうしようもなく悲しかった。
「……太母、マリーアに、祈ります」
命が零れ落ちていく。ゆっくりと冷たくなる少年。最期に雪の一片も、見る事は出来なかった少年。
倒れた彼の傍らで、座り込んだ少女は目を閉じる。両手を握り締めた少女は此処に、大いなる母に祈り始めた。
「大いなる母に、どうか希います」
何も出来なかったから、こうなった。何も選ばなかったから、失ってしまう。何時だって、キャロはそうだった。
血涙を流しながらも、祖の罪を拭わんとした兄の様な意志はない。死ぬ事も生きる事も選べずに、流されて此処に流れて来た。
だから、失ったのも当然だ。これは何時も通りの結末。何もしなければ、何も得られない。それは当然の話であって――だけど、もうそんなのは嫌だった。
「太母マリーアに願います。大いなる母よ。貴女が子であるこの私を、未だ愛してくれると言うのなら――」
自分を好きになってくれた少年を、好きになる為に、知る時間が欲しかった。
また流されたままに、何も出来ないと諦めてはいたくない。もう失いたくはなかったのだ。
だから、キャロは真摯に希う。生まれて初めて心の底から、強い願いと共に祈る。
願えば叶うとは思わない。祈れば届くなんて信じていない。それでも、祈る事しか出来ないから。
強く、強く、強く。想いを強く、彼女へ届ける。失いたくはないのだと、連れて行かないでと彼女に願う。大いなる祖。貴種たる青を与えた母。西の民を今も呪う女へと。
「どうかお願いします。水の精霊王」
太母マリーア。それは西の言葉で、彼女の綴りを呼んだ場合の呼び名である。
中央で使われている。英語から変化した言語で彼女の名を呼ぶ時、その名は即ちこう変わる。
水の精霊王メアリー。そうとも、貴種たる青は彼女の末裔。その巫女として、選ばれた証明なのだ。
「セシリオを未だ、連れて行かないでっ!」
青き髪が、強く輝く。彼女と繋がる少女の声が、精霊王の下へと届く。
これまでは届かなかった。どれ程祈りを重ねていても、想いが弱いから届かなかった。
だが、漸くにキャロは願えた。自分の心で、想いを伝える事が出来たのだ。
涙と共に願う娘の言葉に、母は静かに目を閉じて――そうして彼女は、愛し子の願いを此処に叶えた。
ゆっくりと儚い輝きが、セシリオを優しく包み込む。
そうして淡い光に包まれて、彼はもう一度その目を開いていた。
「……青い、光を見た。水みたいなのに、冷たくねーの」
「セシリオ!」
身体は疲れて動かないが、苦痛も五感も確かにある。水の誓約による裁きは、此処に一先ず納まっていた。
そうなったのは、キャロが初めて己から願ったから。だからマリーアも此処に、その想いに応えたのだろう。
「何となく、分かった気がするんだ。上手く言葉に出来ねーけど、何となく、さ」
淡い水の輝きの中で、セシリオは確かに見た気がする。それは彼女の祖である母。
大いなる母。精霊の王。この地の人々を今も呪うマリーアは、しかし呪いたかった訳ではないと。
「望まれたのは、悲劇じゃない。だから、あの水は、冷たくなかったんだろうなぁ」
悲劇を求めたにしては、彼女の光は暖か過ぎる。その輝きは優しかったのだ。
だから、水の誓約が求めた対価は悲劇じゃない。きっと、水の精霊王が見たかった物は違うのだ。
「セシリオ。約束を、しましょう」
もう少しで出そうな答えに、首を傾げるセシリオへと手を伸ばす。
右の小指を一つ立てて、キャロは言葉を口にする。今度こそ、破らない約束をしようと。
「契約じゃない。約束です。今度こそ、破っちゃ駄目、ですよ」
「ああ、約束する。今度は絶対、守るから」
身体は未だ動かないけれど、指を動かすくらいは出来る。
互いの小指を絡めると、指切りげんまんと少年少女は此処に一つを約束した。
『一緒に北へ。万年雪を見に行こう』
これは、在り来たりの悲劇で終わる筈だった一つの話。
これは、在り来たりの悲劇にはならなかった。少年少女の恋話。
声を揃えて、約束を交わした。そんな少年少女達は、手を繋いで北へ行く。
〇
貴種たる四色は精霊王の血筋であり、同時に人界に置ける代行者として選ばれた証。
血が濃いとネコビト部族の様に亜人種の特徴が出るが、血が薄いと人間種と殆ど変わらない見た目となる。
ある程度の血の濃さがあれば、後は精霊王に選ばれるだけで貴種にはなれる。逆に選ばれない場合、幾ら血が濃くても貴種にはならない。
今話までに出て来た貴種たる四色は、青と赤。西がキャロで、東が炎王。魔王との戦いで余裕がなかった南は貴種なし。北の風はまだ未登場ですが、その内出て来る予定です。