その7
◇
真っ暗な空を見上げる。
雲一つない澄んだ大気に混じって、星々が小さく輝いている。
空に浮かぶ月は二つ。美しくも儚い輝きで、優しく二人を包んでいた。
瓦礫の上に腰かけて、二人はただぼんやりとしている。
何をするでもなく、ぼんやりと月夜の空を見上げている。
ひゅうと冷たい夜風が吹いて、刻まれた傷口に寒さがしみる。
身体に刻まれた傷も、心に刻まれた傷も、どちらも冷たく感じたから――二人は背中合わせに身体を寄せ合って、その月明りを見上げていた。
「ありがとにゃ」
互いの熱を感じる中、ふと呟く様に少女が口にする。
そんな消えそうな声音に小首を傾げて、疑問符を浮かべる蒼眼の竜。
何も分かっていなさそうなヒビキの姿に、ミュシャはくすりと微笑んだ。
「ミュシャを助けてくれた事」
「ん。友達だから」
どこか震える様な声音に、返されるのはそんな言葉。
特に意識をする事もなく、自分の意志のままに口にされた言葉。
友達を助ける事は当たり前。
そんな思考をする竜に、ミュシャは何だか少し泣きたくなった。
「クロエ様を殺さなかった事」
「ん」
そんな泣きそうな心を抑えて、続く感謝を口にする。
小さく頷くヒビキの脳裏に、大地の精霊王が残した言葉が浮かんでいた。
――妾を、殺さぬか。
拳を振り抜いた一撃で倒れた彼女に、追撃を掛ける事はなかった。
ミュシャがその拳を止めたから、ヒビキはそれ以上は動かなかったのだ
崩れ落ちたクロエを前に、泣かせた分はこれで十分。
友達を泣かせた事に対する始末は、これで十分だと理解していた。
そんな二人の姿を見上げて、自嘲する様にクロエは呟く。
不変の概念を単純な力技で破られた以上、既に勝機がない事に彼女は気付いていた。
――今更、だな。既に四大の結界は崩れた。何れ、地獄はこの世に顕現するであろう。それが明日か、数年後か、或いは数十年先かは分からんがな。
精霊王が欠けなかったが故に、その封印は今直ぐに解かれる事はない。
だが基点の一つとなっていた王墓は失われたが故に、魔王の復活は既に避けられない事となっている。
クロエは全霊を賭して、それを少しでも引き延ばす心算だ。
その為にも、此処で最早勝てない竜に挑む意味はなくなっていたのだ。
――その時、貴様はどう動く。
それでも、そんな風に問い掛けたのは、彼に対し思う所があるから。
唯の怪物の様で、許されない化外でありながら、それでも違う何かがある様に思えた怪物。
――知らないよ、そんな事。来るなら倒すし、そうでないならどうでも良い。
悪なる竜は、そんな精霊王の問い掛けにそっけなく返す。
彼は何時か訪れる破局に対し、そんな結論しか持ってはいなかった。
魔王なんて知らない。絶望なんてどうでも良い。思考をする意味すら感じない。
彼の思考はそれだけで、その言葉は余りにも――
――……我儘だな、貴様は。自由と言うよりも、それは無責任な在り方だろう。
そう我儘な言葉だ。
我しか知らぬ、我が知る者しか知らぬ。それ以外などどうでも良い。
そんな在り様は、決して善性の物とは言えぬであろう。
破滅を齎す元凶の一つである事を思えば、この竜は間違いなく悪なる竜だ。
――だが。
その蒼き瞳を見上げる。その蒼銀は、人の祈りと同色の輝き。
他者を傷付けるしか出来ない筈の魔物の王に、誰かを想うなど出来ない悪なる竜に、あり得ぬ輝きを倒れたままに見つけ出す。
その光は、あの日信じた希望に似ていて――
――いや、妾は敗北者だ。ならば勝者に、これ以上掛ける言葉もあるまい。
されど既に敗残者。
クロエは多くを語る事もなく、そのまま大地に溶ける様に消えていった。
そうして残された二人は今、こうして王墓の跡地に居る。
何をするでもなく、何処へ行くでもなく、揃って夜空を見上げていた。
「友達って言ってくれたこと、嬉しかったにゃ」
ミュシャが感謝を口にする。
嬉しかったと、その本心を口にする。
「本当に、本当に、嬉しかったにゃ」
その言葉は、確かに彼女の本心だった。
嬉しかった。本当に、本当に嬉しかった。
其処に偽りなどはなく、その想いは紛れもなく真実であり――だけど、その言葉は寒さに震えている様に感じたから。
「……なら」
「にゃ?」
「ミュシャは何で、泣きそうなの?」
「っ」
ヒビキの問い掛けに、ミュシャは息を飲んだ。
「……言えないにゃ」
絞り出す様な声は、夜風に吹かれる寒さ以上に震えている。
恐々と口に出した言葉は、何かに遮られる様に意味のない音となって霧散していた。
「言いたくても、言えないんだにゃ」
言えない。口に出す事が出来ない。
それは心の問題ではなく、どこまでも救いがない物理的な問題。
呪われた彼女は、己に課せられたそれを誰かに語る事が出来ないのだ。
「……ゴメン、にゃ」
これまでにも、彼女に深く関わって来る者は居た。
差別される亜人種であっても、美しい少女だ。
下心ありに、或いは純粋な善意で、彼女に関わって来る者はいない訳ではなかった。
けど、もう誰も傍に居ない。
「……ミュシャ、一杯騙してたにゃ」
真実を語らぬ少女に、業を煮やした者が居た。
追い詰められて尚何も語らぬ彼女に、失望したまま離れて行った者が居た。
そうして最後まで残った人が居ても、あの不死者に殺された。
「……色々、色々、嘘吐いたにゃ」
思い出すだけで、胸を突く感情。
だが、どんな感情を抱こうとも、救いのない現実は揺るがない。
ミュシャは呪われて、其処から抜け出す事が出来ずにいる。
辛うじて見つけ出した希望は幻想で、行く場所なんて最初から何処にも存在しなかった。
彼女に与えられた役割は、儀式に必要な特別な素材を集める事。
日の光の下に出られないあの怪物に変わり、外でしか見つからない魔獣の素材を集める事。
その為に、ミュシャは生かされた。
若くて優れた身体能力を持っていたから、彼女だけが呪われたまま生かされた。
集めてくれば、解放される。
必要な素材さえ揃えれば、部族皆が救われる。
そんな甘い言葉を信じて、戯けた守銭奴を気取って動いていた。
己は常に監視されていたから、熱心に活動している様に見せていた。
だけど知っている。もう気付いていた。
既に腐乱臭を漂わせている村の仲間達は、一人の例外もなく死んでいる事なんて。
「……馬鹿、だよね」
だから、絶対なる力を求めた。死者すらも救える力を求めたのだ。
ヒビキと言う強力で無知な怪物に漬け込んで、王墓の底にあるソレを手に入れようと動いたのだ。
「ミュシャは、何か失敗ばっかりにゃ」
でも、それすらなかった。
そんな希望なんて、最初から何処にもなかったのだ。
「にゃにをやってるんだろうにゃ~。……本当に」
色んな人を利用した。
何時しかそれに対して、思う感情も擦れていた。
友達だって言ってくれる人も利用した。
ヒビキが友達だって言ってくれる迄、利用する事に後ろめたさも感じていなかった。
そんなに変わるくらいに馬鹿やって、それでもこの現実は変わらない。
もう自分じゃどうにもならなくて、助けてって言いたいのに、それすら口に出す事が出来ない。
「にゃはははは」
だから、もうどうして良いか分からなくて――どうしようもなく寒かった。
そんな寒がる少女に、少年も何をすれば良いか分からない。
君に何が出来るのか、何も語ってくれないから、何をすれば良いのか分からない。
だから――
「~~~♪」
「……歌」
歌を歌った。
想いを込めて、心を込めて、その歌を口にしたのだ。
「~~~♪」
「綺麗な、声だにゃ」
それは真摯な想いの籠った歌。
とても美しい声音で歌われる、寒さを拭う温もりに満ちた歌。
「――うん。皆これだけは褒めてくれたから、自慢なんだ。歌を歌うの」
蒼銀の瞳で空を見上げる竜が、歌い終えて口にする。
それは人であった頃、運動も勉強も得意でなかった彼が、唯一誰かに誇れた物。
鈴の音の様に声は澄んでいて、音程は文句なしに素晴らしい。
一つ一つの技巧は未だ少し拙いが、それでも想いが籠っている。
とてもとても、綺麗な歌だった。
怪物と成り果てた今でも、それでも失くさなかった。
そんなヒビキが誇れる少ない物の一つが、この美しい歌声だった。
「僕は、ミュシャの事情を知らない」
口に出来ない言葉を、知る事は出来ない。
思考を読んだり、想いを伝えあったり、そんな力はないから彼女の理由は分からない。
「君が泣いている理由。君が言葉に出来ない理由。僕に何が出来るのか」
泣いているなら、その涙を拭いたいと思う。
言葉に出せないなら、言葉でなくても分かる様になりたいと思う。
その為に、己は何が出来るのか。
「知らない。知らない。何も知らない」
何が出来るのか、分からない。
今この瞬間にも微睡みの中へと戻るかもしれない怪物に、一体何が出来ると言うのか。
「だけど」
それでも、今抱いた想いは――
「何かがしたいって、そう思うんだ」
ただ、それ一つ。
想いを言葉にするのは苦手だから、想いを歌にして届けたのだ。
「だから、僕に何が出来るかな?」
その問い掛けが心を揺らして、少女は小さく一筋の涙を零した。
夜空の下で、白い息を吐く。
肌寒さは未だ感じているが、胸の中まではもう寒くない。
「……ねぇ、ヒビキ」
「?」
不安はある。決して拭えない不安はある。
彼は来てくれるだろうか。
彼が来てくれたとして、あのアンデットキングに勝てるのだろうか。
「理由を話せなくても」
ヒビキが強い事は知っている。
あの死人よりも、強いのだと分かっている。
それでもアレは悪辣なのだ。その神算鬼謀は図り切れないのだ。
真実を知らなければ罠に掛けられる。一度嵌れば、きっと抜け出せない罠に掛けられる。
だけど自分は、決してそれを伝える事が出来ない。
「事情を教えられなくても」
今、この瞬間だって、アレは自分を監視している。
今、この言葉だって、アレが望むままに喋らされているだけなのかも知れない。
それすら自分には、もう分からなくなっている。
「本当は何を考えているのか、分からないままでも――」
自分で自分が信じられない。
このまま、最低な裏切りを演じてしまうかも知れない。
だと、しても――
「ミュシャを守ってくれますか?」
寒空の下、胸に宿った熱があったから――ミュシャは、そんな風に問い掛けていた。
「うん」
そして、そんな少女の切なる願いに、返る言葉はあっさりと。
「守るよ。君を」
揺るがない。揺らがない。
少年の在り様は変わらずに、悪なる竜は我儘に生きている。
「約束する。絶対に、守るから」
そんな悪なる竜の我儘な在り様が、少女の心を救っていた。
背中合わせに触れ合ったまま、少女は溢れ出す想いを堪える。
震える声と弾む鼓動。溢れ出す物を誤魔化す様に、笑う声音で言葉を紡ぐ。
「にゃ、にゃはは。にゃんか、恥ずかしいにゃね」
「……そう?」
照れくさそうな素振りは、全てが演技と言う訳ではなく。
だからこそいつも通りな竜の姿に、彼女は感謝と呆れを抱いて語る。
「何と言うか、ヒビキはヒビキだにゃ~。もうちょっとくらい、恥ずかしがって欲しいって思うにゃよ」
「……なんか、ごめんね」
しょんぼりとした感情が伝わる声に、なんだか胸が熱くなる。
そんな感情を心地よく感じながら、ミュシャは空を見上げて口にした。
「ねぇ」
「なに?」
それは、一つの願い事。
小さな小さな、一つのお願い。
「もう少し、君の歌を聞いていたいにゃ」
返る態度は頷きで、そうしてヒビキは歌い出す。
夜空に溶けていくような澄んだ声は、何処までも綺麗な音をしていた。
「~~~♪」
温かい歌。美しい歌。楽しい歌。
「~~~♪」
静かな歌。悲しい歌。激しい歌。
「~~~♪」
夜明けが訪れるその時まで、色々な歌を聞いて共に過ごした。
そして、運命の日は訪れる。
少女の運命が変わる。その朝が訪れた。
◇
暗闇の中、カタカタと音が鳴り響く。
揺れる音は怖気を誘う不協和音。甲高い音は、耳障りな悪意に満ちている。
「カカッ」
カタカタ。カタカタ。
暗闇の底で鳴り響く音は止まる事はなく、寧ろ真逆に大きくなっていく。
「カカカ、カカカカカカッ」
暗いローブの下にある骨が、音を立ててぶつかり合っている。
打ち付けるそれが奏でるのは、堪え切れない嘲りを乗せた不協和音。
虚ろな洞に響くのは、血肉が腐り落ちた老人の嗤い声。
「カーカカカカカカカカカッ!!」
常人が居れば、鼻を抑えて蹲るであろう饐えた臭い。
血肉が腐り、糞尿を塗り固めた様な異臭が満ちる暗闇の中で、その元凶は嗤っていた。
「来るか。来るか。来るかのぅ。我が傀儡よ」
暗いローブは何処までも黒い。
だがその色は純色ではなく、汚物を混ぜたかの様な濁った色。
その法衣の下には、血肉がない。
毛も皮も内臓もありはせず、あるのは骨の塊のみだ。
「その悪竜ならば、儂を倒せると踏んだか」
故にそれは死者である。
動く屍。肉さえもなくしたそれは、最早人ではない怪異であった。
「嗚呼、愛らしいのう。思わず踏み躙りたくなる程に愚かな愛らしさよ」
アンデットキング。ノーライフキング。
そう称される人間の魔法使いが成り果てる怪物。
それこそが、この暗闇の底に蠢いていた。
「さあ、来ると良い。歓迎の準備は出来ておる」
悪なる竜は、確かに強大だ。
大地の精霊王さえも超える怪異を前に、老いて腐った死者では勝る道理がない。
そう。万全の状態の竜が相手ならば――
「お主の愛した全てを持って、その希望を踏み躙るとしようかのう」
だが、今の彼は精霊王との戦いで傷を負っている。
その瘴気で出来た肉体を浄化する力を受けて、今では殆どの力を使えないであろう。
そして、こちらには幾つもの札がある。
故に今ならば、アレを倒す事が出来るのだ。
そうすれば、己は魔王の力を手に入れる。
悪竜の王を材料とすれば、己の悲願は遂に叶うであろう。
その時こそ――
「そうすれば、儂の願いは叶う」
この満願。その悲願。この切なる祈り。
百年を超える夢想の祈りは、遂に現実を塗り替えるであろう。
「漸く、此処まで来たのだ」
その成就を前にして、老人は感慨を抱く。
漸くの終わりを前にして、腐り果てた老人は大きく息を吐いた。
人として生きた百年間。
そしてあの日、人の身体を保てなくなり、されど見届ける為に不死者となった二十年前。
その百二十年間と言う長き努力の結実。
その果てに、もう間もなく到達するのだ。
「二十年。時とすれば短くとも、この老いぼれには長き時間よ」
あの日、キッカケがあった。
あの日、変わろうと思わせるキッカケがあった。
だが老人の妄執は変わらず、否、悪化した。
人を止め、化外と成り果て、それでも尚為さねばならぬと思う程に。
「嗚呼、本当に長かった。死した器を保つのが、これ程に難しいとはのう」
あの日、輝きを見た。
あの日、人の祈りを背負った一人の子供をその目にした。
彼と心を交わし、そして老人は知ったのだ。
その美しさを。人の醜さに絶望していた、草臥れた老人は知ったのだ。
「だが、それも終わる。今日、この日に」
そう。だからこそ、その答えに至った。
あの尊き勇者に救われ、あの蒼銀の輝きを見て、希望を信じたからこそ――
「人間と言う種は、全て滅び去るのだから」
人と言う種は、滅びねばならない。
あの美しさを今尚汚す化外とは、紛れもなく人間と言う種であったのだ。
勇者を失くした世界で、今尚争う人を見た。
勇者が守った筈の世界が、醜く穢れていく姿を見た。
悪なる魔王を生み出したのが、人の醜さであると知ってしまった。
故にこそ、あの美しさを失くさぬ為には、人間を滅ぼさねばならないと結論付けたのだ。
「ク、クカカッ! クカカカカカカッ!」
暗闇の中で、妄執に狂った死者は嗤っている。
崩壊の訪れを、全ての終焉を、その果ての救いを願って――
「カーカカカカカカッ!!」
老いて狂った死者は一人、屍の中で嗤い続けていた。