1:2/5水神伝説
幾百年も昔、旅人が一人、この壁内集落にやってきた。集落の者たちは旅人を歓迎し大いにもてなしたが、住民が寝静まった夜に旅人は水神が祀られている祭壇へ行き、そこに安置されていた碧い宝玉を盗んで逃げたのだ。水神の怒りを買った集落には雨も降らず、水を恵んでもらおうにも近隣に頼れるような村もない。集落の若者は故郷に水をと旅に出ていく者もいたが、帰ってくる者は一人としていなかったという。少し離れた場所にあるはずの川も、この時既に涸れ川となっていてとても水が汲める状態ではなかった。ここ周辺は元々水の少ない乾燥地帯で、水がないために作物も上手く育たず、家畜は死に絶え、飢饉が蔓延した。何百人といた同胞たちは僅か数十人まで減ってしまい、遺体は無造作に積まれている者もいれば、死んだままの状態で放置されてしまっていた者もいた。その死体から出たと思われる病も流行り、それが死の拍車をかけ、弱った集落の人間はばたばたと死んでいった。そんな現状を嘆いた当時の王が苦悩を極めていたところ、神付きの踊り子が自らを神に捧げることで怒りを鎮めるという意を示した。そして彼女は王や生き残っていた民の声を無視し、一人崖の奥深くにある底の見えない穴へ、神への祈りを詠いながら身を投じ、生け贄として命を絶った。以来、国には恵みの雨が降り、豊潤な湧き水が溢れ出た。王は彼女の誇り高き意志に感動し、集落の誰もが目にするこの壁にその姿を描き記したのだと云う。以来数年おきに行われる、生け贄として彼女が身を投じた穴に詩を送る伝統の祭りを、ミコト送りと呼ぶというのだと。そして、ミコト送りを行う度に集落の中で一番絵の巧い者が代表して通路に筆を走らせるということらしい。巫女が身を投げたと云われる大きな穴の近くに建てられているという祭壇の壁にも、その巫女を象徴する絵が大きく描かれているという。
「その祭りはいつ行われるんですか?」
ローグの問いかけに、老人は笑顔で「三日後ですよ!」と言った。
水浴び場に着くとそこには人が優に三人並べる高さと、およそ風呂場とも思えない幅の箱があった。ホールのような大きさに目を剥くガレンと、呆気にとられるローグを見て、老人は朗らかに笑った。
「大きいでしょう。ここは貯水場でもあるのですよ。ああ、飲み水とはちゃんと区別していますので安心して下さい。そうそう、明後日にはミコト送りの前夜祭と同時に旅人様を歓迎する宴を催すことになっておりますので、それまではどうぞごゆっくり寛いで下さい」
「ありがとうございます」
「それでは」
そう言って一度踵を返した老人だが、思い出したように再びローグの近くに寄ってきた。
「一つだけ、注意しておきたいことがございます。旅人様に限ってないと思いますが、念のため。実は、この水溜…私共は泉と呼んでいるのですが…奥に空洞がありまして。空洞と言っても、もちろん水で満ちております。そこに以前子どもが遊んで入ってしまい戻って来なかったことがありましたので…、ええ、お伝えしておこうと思いまして」
「そうですか。親切にどうも」
「それでは、今度こそこれにて」
「はい」
通路の陰へと姿を消した老人を見送った後、箱の中にある水面が程近い階段に荷物を置き、着替えを始めたローグを見ながら、ガレンが口を開いた。
「あのジジイ、ローグがそんな穴に入るとでも思ってんのかな?」
「ガレン、まだあのじいさんの前で喋ってないよね?」
「え?うん、喋ってない」
「じゃあ妙だな」
「何が」
その問いに応えることなく、ローグは階段を下り、浅い波紋が波打つ水の中へと足を入れた。瞬間背筋に走る寒気を堪えつつ一歩一歩進んでいく。腰まで水に浸かった頃、我関せずと座っていたガレンに「お前も洗うから来な」と言うが、返答はおろか反応もない。
「ガレン」
「いやだ」
「自慢の毛並みが着古したシャツみたいになってる」
「濡れタオルで拭いてよ」
「君はゴミを綺麗なタオルで拭くの?」
「ゴミってなんだよゴミって!酷すぎる言い草だよ、着古したシャツにだって思い出が詰まってるだろ!ゴミはない!」
「汚いシャツであることは否定しないんだ」
言い争っていても無駄だと察したローグは、頑なに水へ入ることを拒んでいたガレンの首根っこを掴み、強引に水へ引き入れる。ザブンザブンと苦しそうにバタバタ手足のみならず長い尾をも暴れさせる。数十センチもあろう尾がローグの頭や体を打っていくが、蚊ほども気にしていないようで旅をしている最中に付着してしまった土埃を、ローグの少しごつごつとした指が毛と毛の間を縫うようにして綺麗に洗い流していく。耳に水が入らないよう、ローグがガレンにあれこれ指示をしていると、不意にガレンが口を開いた。
「今回はどれくらいの間ここにいるの?」
「どうしようね。少なくても、こんなところに長居はしたくないな」
小さなブラシを手にして、ガレンの角を磨いていく。
「明日は歓迎の宴ですって楽しそうにしてたなあ、あの爺さん」
「そんなに旅人が珍しいのかな?この調子なら、出て行く時も食べ物いっぱい手に入るかもしれないね。楽しみだなあ!」
気持ちよさそうに目を細めながらそう言うガレンに同意することなく、黙々と角を磨いていく。土壁のようにくすんだ茶色で汚れていた角は、どこから見ても恥ずかしくないほど磨かれていた。本来の色であろう渋みのある栗色が、姿を現す。同種の雌があの薄汚い姿を見たら、鼻で笑って立ち去っていくことだっただろう。白と緑色の毛もすっかり汚れが落ち、水に反射して光っていた。
「僕は、簡単にここから出られるとは思ってないよ」
「どうして?そりゃあ、あれだけ歓迎されてたら後ろ髪引かれるどころか掴まれるかもしれないけど」
「…まあ、そうだね」
煮え切らない言葉を返してから、階段の上に置いてあった布をとってガレンを丁寧に拭いていく。
「ところでさあ」
布に包まれているせいでどことなくくぐもった音で、ガレンは言葉を編んでいく。
「髪、鬱陶しくない?特に前髪」
「前はこれでいい。後ろは、そうだな…そろそろ邪魔になってきたから切りたいけど、この集落から出た後にやるよ。今はいいや」
ガレンを拭き終えて、水に肩まで浸かる。ガレンはその様子を見ながら息を吐いた。
「なんで前髪切らないの?目が変だから?」
「それもあるし、人と目を合わせるの好きじゃないから。いいだろ、別に」
ローグは大きく伸びをした後、一度上がってストレッチを始めた。ガレンが尻尾をぱたぱたと振っている。
「また潜水?」
「うん。こんな絶好の場所があるのにしないわけがない」
「そうだね、そういう奴だった」
「あの爺さんの反応も気になるし、何があるかは確認しておきたいな。少なくても子どもの骨があるかどうかくらいは。というわけで、カウントよろしく」
「うけたりまわした」
「うけたまわりました、な」
ローグは布の下に隠していた灯り石の入った酒瓶を手にし、その近くに置いておいた小瓶に入った白い液体を一滴ずつ目に差した。そして再び水に浸かってから深呼吸を繰り返し、水の中へと頭を沈める。ガレンは完全に頭が浸かったところを見届けてから、ゆったりとした声で「いーち、にーい、さーん」と数え始めた。
ゴポゴポコボ、という気泡の音を耳が拾った後、ローグが吐き出した空気以外の音はほぼ遮断された。彼はゆっくりと目を開け、クリアに映る水中の景色をざっと見渡した。そして数メートル先にある段差を見つけ、それに向かって泳ぎ始めた。静かに水を掻き分けながら潜り続け、いとも容易に斜面へと辿り着いたローグはその先にある穴を覗き見た。深さはかなりあるようで、その底は暗く黒い。しかし、彼は灯り石の入った酒瓶を片手に、先の見えない穴へ下りた。水はとても美しく澄んでおり、灯りを散らしてくれる。ローグの髪と、光を求める泉の深い色が同化した。
ものの数分で水浴び場の光が届かないところまで着いたローグは、ゆらゆらと揺れる前髪を一度掻き上げた。
(何もない、か…つまらないな。魚の一匹でもいればいいのに。杞憂だったのか?それでも何か見つけないと気が済まないな)
そう考え、彼は瓶を壁に近付けながら更に下へ下へと下りて行った。すると、穴以外のある一点に光が届かないことに気付いたローグは、足で水を蹴り手で掻いた。そうして辿り着いたそこに酒瓶を近付ける。石が照らしたそれは、光を吸い込むようにして輝く碧い宝玉だった。恐る恐る指でその表面を撫でれば、耳にキュといういい音が届く。ローグは落ち着いた表情のまま、その宝玉を引き抜いた。しかし、何も起きない。手の平に収まるほどの、大きめの宝玉。小さく息を吐けば、その空気の音が耳に届く。ハッと宝玉に集中していたローグは意識を水中に戻した。足に絡まるような底知れない暗闇と冷たさを感じ、宝玉を手にしたまま急いで水を蹴り水上へと向かって無我夢中に泳いだ。するりと解けてしまった氷のような冷たい感触が名残惜しげに、まるで人が話すように小さく呟いた言葉に、彼は目を見開いた。
岩場では、ガレンが「ろっぴゃくにーい、ろっぴゃくさーん」とカウントを続けていた。すると、泡がボコボコボコッ、と水面から盛り上がり、そこからローグが勢い良く頭を水面から突き出して、咽せるように咳き込んだ。疲れた様子でガレンを見ると、ガレンは尻尾をぱたんと倒してから「あと三秒だったのに」と残念そうに彼に言った。階段の方へ泳ぎ寄ったローグは段差に腰をつき荒く深い呼吸を繰り返した。
「そりゃ、残念…だけど収穫はあった」
「何、何?何見つけたの?骨?」
「それは部屋に戻ってから説明する。今はとりあえずこれをバッグに入れるのが先だな」
「何それ、宝石?」
「って言うには少しばかり、でかいよ」
ローグはそう告げてから、布で水気をとってバッグの奥の方へと押し込んだ。自身の体や髪の水気も拭き取り着替えも済ませた彼は、バッグに荷物を次々と入れてそれを腰に巻いた。
「さっぱりした」
「オレは最悪な気分だけどね」
「君の水嫌いどうにかならない?土埃乗せて歩く気分なんだけど」
「だからそういう喩えやめてくれないかな!不愉快!」
「はいはい」
「そうやってオレの言葉を流すのも禁止!」
「じゃあどうしろっていうんだ」
「ローグの中にオレの意思を尊重するっていう選択肢はないの?」
地べたからぎゃいぎゃいと聞こえてくる声を飄々とした様子で受け流しながら、水浴び場の出入り口へと向かった。