7 兄、本の館にて敗北す
ヴォル爺 の 年の功
マルセル は 赤面 した
前世の記憶を取り戻してから1月程が過ぎた。
秋も深まって寒くなってきていたが、俺は今日も訓練場を走っている。ロイドには距離を増やすよりもできるだけ休まずに走りきることを目標にするよう指導を受けており、完走目指して頑張っている。
おかげで前世の感覚と今の体力とのズレを修正することができた。
ペース配分を間違えなければ、時間はかかるが30周を走りきることができる。1週間前に初めて完走できたときは思わずガッツポーズで叫び、ロイドから不思議そうな目で見られたものだ。
しかしながら完走できたのはそれきりで、ここのところ終盤でペースが崩れて止まってしまうのが常だった。
原因ははっきりしている。
ヴォル爺のあの言葉だ。
俺の変化を、ロイ・カナ等の使用人たちやミス・マリー、ロイドは好ましく評価してくれている。
はじめのうちはいつまでもつかといった雰囲気も感じてはいたが、今は俺に対する見方が変わってきたようだ。
ミシュリーヌも、運動にはまだ付き合ってくれないものの俺への態度が好意的になってきた。
だが、ヴォルフラムだけは違った。
両親にはまだ決意表明をしていないので除外するとして、俺の変わる宣言を聞いた上で彼だけが、なお今までと対応を変えない。
本の塔では相変わらずワインを片手に自分の白いあご髭を撫で付けながら本を読み耽り、思い出したように俺達に綴り方の練習や読む本の指示を出す。
こちらがもっとやりたいとやる気を見せてものらりくらりとはぐらかされてしまう。
『成ろうと思う者は成れず、成れぬと思うものは成る――、さて、汝は成るや否や?』
『歩いて月を目指す』
あの日から考えているが、答えは出ない。
その次の読み書きの日に、反応を見るつもりで丸豚モードになり「ヴォル爺! この前のあの言葉はどういう意味だ! 教えろ! 父上に言いつけるぞ!」と食ってかかってみた。そしたら、
「お答えしてもいいですが、一生答えが分からなくなりますぞ? よいですかな?」
ときたもんだ。
結局、自分で考えると引き下がったのだが、分かったことがある。
ヴォル爺は父上を恐れてはいない。
俺が本当に言いつけると思っていないのかもしれないが、父上の事を持ち出されても何の動揺もなかった。
そして、変わると宣言したのにあっさり父上に頼った俺に対して何の失望もしなかった。
この1ヶ月、俺は勉強と訓練を適度にだらけた。
はじめの2週間は3日に一度、先週は一度だけ、やっぱ止めようかなオーラをだして取り組んだのだ。
それだけでもミス・マリーやロイドは寂しさとやるせなさの混じった表情を向け、大層心苦しかった。
しかしヴォル爺は違う。
俺が立派な目標を立てようが、それを裏切るような事を言おうが、変わらない。
試しに、答えを教えろと迫った日の次から3回連続で、ヴォル爺の課題をこなすだけで特に何も要求しないという良い子っぷりを見せたが、それでも変化がなかった。
急に、息苦しさに気づく。
しまった、考え事をしていたらまたペースが。
いったん意識すると、それまで出過ぎていた速さがみるみる落ち、脚と心肺が不満を隠さなくなる。
25周の時点で、俺は訓練場の地面にへたりこんだ。
「マルセル様、タオルです」
駆け寄ってきたカナが渡してくる。
「マルセル様、オランジェです」
同じく駆け寄ってきたロイが渡してくる。既に皮は剥かれており、俺は3房まとめて口に放り込んだ。
「……あり、がとう。用意が、いいっ、な」
「ロイド様が、もうじき限界が来るから準備しておくようにと仰って。その通りでびっくりしました!」
「お見通し、か。ん……、このオランジェ、昨日までのと味が違うな。甘味が強い」
「あああ、そういえばヘレンさんから言付けられてたのをすっかり忘れてました! ごめんなさい! 今までの種類がもう取れない時期になったので、今日から別の種類になるそうです」
カナのうっかりは相変わらずである。
「マルセル様、何かお悩みがあるようですな」
ロイドが近づいてきてずばりと言った。
「今日は木剣を使っての訓練は行いません。休んであと5周したら、足捌きの練習をいつもの倍やって終わりにしましょう」
「あんな地味なのを倍だと! ……分かった、木剣とはいえ、集中しきれていない状態で振っては危険だからな。それに、足捌きは大事だ足捌きは。ライヒアルト殿は華麗な足捌きだけで10人の賊を地に伏せさせたと言うしな」
こんなエピソードもあるなんて、流石だ王兄!
「ご理解頂けて嬉しく思います」
そうして走り終えて足捌きの訓練に入った俺はまたしても考え事をしてしまい派手に転けるという失態を見せ、ロイドを呆れさせるのだった。
おのれヴォル爺!
「あらマルセル様、ここの所、繰り上がりがあるのを忘れていますわ」
「な、なんだとっ!!」
ミス・マリーに指摘されて俺は驚愕の声を上げた。なお、演技ではない。
今回は間違えるつもりではなかったのだが、考え事をしていたら素で間違えてしまった。
「よくあるうっかり間違いですから、気を付けましょうね」
ミス・マリーから見れば大したことはないだろうが、こちらとしてはかなりのショックである。
うう、顔が赤くなっているのが分かる。
「な、なあミス・マリー。『歩いて月を目指す』というのはどういう意味だと思う?」
指摘されるのも恥ずかしいので、質問をして誤魔化してみる。
「歩いて月、ですか……」
ふむ、と考え込むミス・マリー。どうやら俺の赤面は気づかれなかったようだ。
「言葉だけ見れば『とても叶わないことをやろうとする』という印象ですが、どういう状況で使われた言葉なのかにもよりますね」
「……どういう状況で、か。やはり、自分で考えるべきなのだろうな。ありがとう」
「お力になれずに申し訳ありません。ところで――、マルセル様は意外とお気持ちが顔に出られる性質なのですね」
ばっちり気づかれてたー!
しかも何ですかその「結構可愛いかも」的な眼差しは。
「な、何のことだか分からんなっ! さあミス・マリー、次の勉強だ次の!」
「そして今日も、答えが出ないままここに来てしまった」
目の前の本の塔がどうにも高圧的に見え、俺は扉を開きかねていた。
「どうしたんですのお兄様?」
そんな所に、ミシュリーヌがやってくる。お付きの侍女も一緒だ。
ちょっとした距離なのだがしっかりと毛皮のケープを羽織っている。白くてもこもこで、いかにも暖かそうだ。
「ん、いや別に何でもないぞ」
「何でもないのに扉の前でうろうろはしませんわ。ああ、エミはもう戻って良いわよ」
「承知しました」
おお、ミシュリーヌが侍女を名前で呼んでる。
この1ヶ月、さりげなく『王妃リディアーヌ伝』の一節を教えたり、使用人に対する接し方を示したりした効果がでてきたようだ。
「……急ににこにこしだして、変なお兄様」
ほのぼのした俺に不審気な眼差しを向ける我が愛しの妹。
兄の心妹知らず、という奴か。
「ミシュリーヌ、お前は本当に可愛いな」
「全く心がこもってない表情と声で言わないでくださいまし!」
抗議の声を上げるミシュリーヌ。
うむ、ここ最近いいお兄ちゃん度が高かったから、少し調整しておくか。
「こめているぞ。あー、ミシュリーヌは可愛いなー、本当可愛いー」
「もう! わたしが何をしたと言うんですの!?」
きーきー怒るミシュリーヌ。
「ふふん、少しは自分で考えてみるのだな。俺だってここ最近は連日考え事で――」
ミシュリーヌから逃げようとくるりと背中を向けて、ふと閃いた。
「もしや――」
「えい! えいっ!」
ミシュリーヌがポカポカと背中を叩いてくるが、気にならない。
「――――!」
「ちょ、お兄様ー!?」
驚きの声を背中に受けつつ、俺は本の塔の扉を開けた。
「おやマルセル様、扉が壊れるかと思いましたぞ」
ヴォル爺は相変わらずワインを片手に本を開いている。だが、その表情は酔いで曇ってはいない。
「ヴォル爺。俺は答えを見つけたぞ。あの言葉そのものに、これだという意味はない。その意味を考えること自体に意味があるんだ!」
そう、あの問いと言葉自体は、様々な解釈が可能なものなのだ。
そこからこれが答えだというものを選んでも、それは時として容易く変わってしまう。
何かの答えを気にし、悩み、他のことに集中できない、そんな事はこの先もあるだろう。
だからこそ、一つの正解に執着し追い求めるのではなく、様々な可能性を考慮に入れ泰然と構えることこそ重要、そういう事をヴォル爺は教えたかったのだ。
そして問いは、相手に何か1つのことを考えるようにさせるということは、これ程相手を縛ることができる、その効果もまた、身をもって体験することができた。
そんなことをつらつらと言い募る。
すると――
「ふむ、99点まで至れたようですが、ここにきて最終的に60点ですな」
ヴォル爺は白い髭を撫でながらワイングラスを傾け、ニヤリと笑う。
まるで悪の魔法使いのようだ。
「な、何故だ!」
「そう、まさにそれが故に」
「んん――?」
俺の混乱を他所に、ヴォル爺は呵々大笑する。
「ハッハッハ、確かに見事気づくことができましたな。居着くことの恐ろしさとその対処について。しかしながら、今のご自分の様子は如何に?」
「――あっ!」
俺は我が身を省みて赤面した。
得意げに、思考が硬直することの危険性に気づいたと言っておきながら、今まさに俺は、ヴォル爺の評価の真意を測るという問いに対して、硬直してしまっていた。
「くっ、これは……」
「なお、100点の答えというのは、気づいた上でなおそれを答えないこと、でした」
答えを見つけて舞い上がるようではまだまだ青いですな、と微笑みつつヴォル爺はワインをあおる。
「お兄様ー! 突然走り出して! さっきのこと、まだ許しておりませんわよ! お兄様ー?」
遅れて入って来たミシュリーヌに揺さぶられながら、俺は自分の敗北を噛み締めるのだった。