6 兄、本の館にて困惑す
温かい感想、的確なご指摘を頂きありがとうございます。
おかげさまで続ける燃料になっております。
ロイドとの訓練が終わった後、俺は疲労困憊の状態でどうにか風呂に入った。
間に何度も休憩を挟んだとはいえ、自主練習を含めると35周を走ったのは非常に堪えた。
あの鬼軍曹、走り終わってからようやく剣を教えると言ったものの、これが木剣での素振りを100本。
まあ基本が出来ていないと教えようがないだろうから、きちんと順を追って教えてくれているのだろう。
ミス・マリーと同じく良い師であると言える。
風呂から上がった俺は部屋で体を休めた。
流石に今日は本も読まず、ただベッドに横たわっていた。
心地よい疲労からとろとろと眠りに落ちそうになった頃に、部屋がノックされ、俺は食堂室に向かった。
食堂室で、昨日指示した通りの量の昼食を食べる。
むむ、たくさん運動したからか、もう少し肉が欲しいかなと思ってしまう。
基本この体、今までさんざん蓄えてきているので燃費がすこぶる悪い。いや、いかんいかん、いくらなんでも昨日の今日でもう少し増やしてくれは我ながら恥ずかしい。
せめてこのむにむにの腹肉がつまめない程度になるまではこの量でいこう。
「あらお兄様、本当にお野菜も食べているのですね。それに量もわたしと同じ位」
食堂室にやってきたミシュリーヌが目を丸くして言った。
「ああ、いつも朝起きると腹がもたれて気分が悪かったのだが、今朝はそれがない。野菜と適度な量のパンと肉というのは体にいいようだ」
「お兄様は、いつも体全体に詰め込むように食べていらっしゃったものね、それもすっごく早く」
今までの俺の食べっぷりを思い出したのか、くすくすと笑う我が妹。
「あれは、今思えば我ながら優雅では無かったな……」
丸豚時は、ミシュリーヌの軽口に反応して口喧嘩という流れが多かったのだが、俺は素直に今までの自分を省みた。
「……お兄様、本当にライヒアルト様を目指しているのですね」
「もちろんだ。エドワーズ王子の兄として恥ずかしくないようにならねば。このまま好き勝手に食べて豚のようにふくらんでしまっては、とてもお近くになど立てん」
「あら、エドワーズ様は立派な方ですから、体型で人を判断したりしませんわよ! 王宮でお話した時、見目麗しくても優しさがない人より、外見はどうあれ他人を思いやれる人の方が立派だと思いませんかとおっしゃっていましたもの。わたしも当然、そう思いますと言いましたわ」
流石はエドワーズ様~ととろけそうな笑顔になるミシュリーヌ。
うん、盛り上がってるところ悪いんだけど、お兄ちゃんどういう状況でその会話がされたのかすっごく心配……。
予想だけど、誰かしらを叱責したのを王子に見られて、遠まわしに咎められたのではなかろうか。
それで我が妹はそれに気づかず一般論として同意したと。
……ミシュリーヌに対する王子の第一印象はかなり低いなこれ。
今度王宮にいくまでにどうにか軌道修正しておかなければ。
対策を練りながらミシュリーヌのエドワーズ王子話を軽く聞き流し、俺は昼食を続けた。
食事を終えた俺は部屋でしばらく食休みをしてから、ミス・マリーと勉強をした。
午前の運動で今日は一日動けないかもと思っていたが、入浴休憩食事休憩で回復したので支障はなく勉強に励むことができた。
午前の運動の途中、ロイドに俺の今日の予定を聞かれたけど、ここまで計算して訓練内容を決めたのだとすると凄い。
今日は昨日よりも勉強時間が短い日なので、算術と地理に関する内容に集中した。
ミス・マリーは手作りと思われる教材教具を用意しており、気合を入れて教えてくれたので短いながらも濃密な内容であった。本当に、いい先生だと思う。
勉強を終えた俺は西の庭にある離れに来ていた。
今日は三日に一度の読み書きの日なのだ。
前世の記憶を取り戻してから不思議に思ったのがこの教育システムだ。
基本、勉強はガヴァネスが教えるのだが、読み書きだけはその内容に含まれていない。
ではどうするのかと言えばこの三日に一度の読み書きの日だ。
俺は離れを見上げる。
二階分ほどの高さのちょっとした塔のような外観だ。
扉を開け、訪いを告げる。
「ヴォル爺。来たぞ」
離れの内部は、館とはだいぶ趣が違った。
部屋の中央には大量の本が積み上げられた円卓があった。
奥に寝室への扉がある他は、壁が全面全て本棚と、それを取るための梯子になっている。
前世基準でいえば市立図書館とはいかないまでも、学校の図書室くらいの蔵書は優にあるだろう。
天井から魔道具が吊るされており、明るい光を放っている。
「おお、いらっしゃいませマルセル様」
本の山から声が聞こえた。
大量に積み上げられた本に埋もれれるようにして座っているのは、この離れの主であるヴォルフラム老である。
このお爺さんだけは、今までのマルセルもどう接していいかよく分かっていなかった。
祖父というわけではない。
俺とミシュリーヌに読み書きを教える先生ということなのだが、ただの使用人ではない。
あの両親が一定の敬意を払っていることから、客人とでも言うべきだろうか。
どういう身分で両親とはどういう関係なのかもよく分からないのだが、とても才を見込んでどこかの貴族を教育役として招いたとは思えない。
機会を見て聞いてみよう。
「さあさあ、そこに座って今日の分の字の書き取りをなさい。飽きたら適当に本を読んでいていいですぞ」
俺に指示を出すとヴォル爺は自分の読書に戻った。
時折グラスを傾けている。
ワインだ。
この爺さん、俺が物心ついた時から、ここでこうしてワインを片手に読書に耽っている。
初めのうちはある程度きちんと読み書きを教えてくれていたのだが、ある程度できるようになると後は基本的に自習となった。指示された分をこなし、あとは読書をして過ごす。
今思えば不思議なのだが、この読み書きの時間だけは、俺の我儘は一切通らなかった。
いかに飽きたと駄々をこねようと、必ず決められた時間は居なければいけないのだ。
そういえば、何故だろう。
これも確かめる必要があるな。
「ヴォル爺、来ましたわよ」
ミシュリーヌもやってくる。
いつも一緒にいる侍女も、この時間は居ない。離れまでミシュリーヌに同行すると、あとは館に戻るのだ。
「いらっしゃいませミシュリーヌ様。今日の分の書き取りがそこにありますのでやってくだされ」
「分かりましたわ」
ミシュリーヌも、ヴォル爺に対しては素直に接する。多分、俺と同じくどういう存在だかよく分からないので一応敬っておこうといったところだろう。
俺とミシュリーヌは並んで椅子に座り、それぞれの書き取りをこなしていく。前世基準で言うと俺が中学一年生の内容、ミシュリーヌが小学校高学年の内容だ。
この世界の言語は日本語なのだが、文字も日本語である。
英語ドイツ語フランス語等の言語もあるのだが、こちらは上位古代語と呼ばれている。
漢字は下位古代語だそうで、これを元に作られたのが現在使われている文字だとのことだ。
人名を中心に固有名詞や一部の言い回しには上位古代語を使われているが、母語として使う国や民族は居ない。
しかしながら、書物としては大量に存在しており、俺も習わされている。
どうやら古代語の習得が貴族の嗜みであるらしく、言語の習得にはかなりの力を入れているのだ。
今までの俺が曲がりなりにも10才で中学校一年生レベルの漢字を大体覚えていることから、その熱の入れようが分かるというものだ。
なのだが、このヴォル爺である。
さっきも言ったが、ある程度基礎ができたらあとは自習という放任主義。
教えようという気概が感じられない。
ミス・マリーのように今までの俺に失望してというのならば分かるが、この爺さんは始めからこんな感じであった。
俺は書き取りを終えると、ヴォル爺の元に寄って行く。
「ヴォル爺、終わったぞ」
「おやおや、お早いですな。ではこちらを、上位古代語の基本文字です」
アルファベットの書き取り用紙を渡し、ヴォル爺は再びワインと読書に意識を集中させる。
これも集中してさっさと終わらせる。
「終わったぞ」
「では、今日の書き取りはおしまいですな。ゆるりと読書をなさい」
「今度の分はないのか? もっと出来る。次からは量を増やしてくれ」
俺の主張に、ヴォル爺はほっほっほと笑う。
「何やら、今日のマルセル様はやる気に溢れておりますな」
「ああ、ヴォル爺、俺は王兄ライヒアルト殿を目指すのだ。だから、もっとたくさん教えてくれ」
いつもの宣言をする。
「王兄、ですか。ああ、ミシュリーヌ様とエドワーズ王子がご婚約なされたのでしたな。ミシュリーヌ様おめでとうございます」
「そうなのよヴォル爺! 聞いて聞いて、エドワーズ様はね――」
「待てミシュリーヌ。ヴォル爺、そういうわけだから俺は今までとは変わるのだ。だからもっと――」
王子トークに花を咲かせようと喜ぶミシュリーヌを遮り、俺は言い募るが、
「成ろうと思う者は成れず、成れぬと思う者は成る――、さて、汝は成るや否や?」
ヴォル爺はそれまでのほろ酔いの雰囲気を一変させ、俺を見据えた。
それは、否定や拒絶に類する雰囲気。
今まで変わることに対し好意的な反応を得ていた俺は、その視線を受けて腹に痛みを感じる。
「『歩いて月を目指す』、古い諺です。応援しておりますよ、マルセル様。――さてミシュリーヌ様、エドワーズ王子とのお話を聞かせてくだされ」
再びほろ酔いの好々爺に戻ったヴォルフラムはミシュリーヌに話を振った。
俺は残りの読み書きの時間中、その言葉の意味を考え続けた。
ヴォル爺のセリフ、実は昔のアニメに元ネタがあります。