2 兄、街の様子を見る
翌朝、俺は目を覚ますと部屋の窓を開けた。
爽やかな空気と小鳥の声。朝日を浴びて輝く町並み。なかなかに幸先の良さそうな朝である。
自宅とは比べるべくもないが、この館にも一応体を動かせるだけの庭はあるので、軽く柔軟運動をしてから持ってきた運動用の服に着替えているとロイがやって来た。
少し稽古をしてから朝食にすると告げ、木剣を片手に庭へと出る。
習慣としては走りたいのだが、流石に館の外に出て何かあっては問題なので諦めて素振りと脚捌きの練習、対人を想定した型を一通りこなし、汗を流した。
自分の剣の腕は、せいぜい二流止まりだろうと自覚している。それでも続けるのは、健康の為でもあるが、同じ二流でも限りなく一流に近くなりたいというあがきだ。
俺の立場からすれば直接真剣を振るうような場面なんてない方が良いに決まっているが、世の中に絶対は無い。それに、たとえ自分の剣で直接危機を乗り越えられないとしても、強い味方が助けに来るまでの時間稼ぎ程度はできるだけの力を身につけたいというのは現実的な気がするのだ。
とりあえず、いかなる状況からも走って逃げおおせるだけの脚力はつけたいものだと思いながら、俺はしばらく小さな庭をぐるぐると回った。
それから用意させた風呂で汗を流してから食堂に向かうと、明らかに過剰な品々を前に男爵が迎えた。
「おはようございます公子閣下。朝から鍛錬をなさるとは流石でございますな」
男爵の、放り投げてはいけない爆発物を持たされている上での笑顔にもげんなりだが、食卓の上を見て俺は頭痛を覚えた。
大きな白パンに、鳥肉と思われる焼き物、ハムとソーセージがどっさり、スープにも肉が入っている。対して野菜はあまりない。スープに玉葱と人参が見える程度だ――っていつの情報だよ! 完全に俺が丸豚に向かってた頃の定番メニューじゃないか……。
この世界の情報伝達はどうなっているんだ。
「あー、テネレーツァ男爵」
俺は片手で額を押さえながら声をかける。
「お気に召しませんでしたか!? 公子閣下のお好みの朝食と聞いていたのですが」
気を遣ってもらって悪いが情報が古い。
「ああ、以前はまさにこのような朝食を好んでいたのですが、今はもっと量を減らして野菜を増やしたものを好んでおりまして」
「そ、それは失礼致しました! すぐに用意させます!」
慌てて厨房に消える男爵。そんなに気にしなくてもいいのだが……。
というような一悶着はあったものの、無事に野菜を増やした朝食をとる事が出来た俺は早速街の視察に向かうことにした――のだが、
「もう行かれるのですか? 昨日お着きになったばかりで御座いますし、もっとゆっくりなさっても良いと愚考致しますが」
男爵にそんな事を言われた。
「お気遣いには感謝しますが、日を延ばす意味もないでしょう。すぐに視察に出て、この街に何が必要かを見極めたいので協力をお願いします」
と返すと、慌てて準備を始めた。何か見られて困るようなものでもあるのだろうか?
それとも、単に俺がものぐさ太郎だという古い情報に基づいて行動しただけなのか。
男爵も本気を出してくれたようで、そう時間は掛からずに馬車の準備と護衛の手配がされた。
最初に案内されたのは街の大通りだった。王都や公都とは比べものにならないが、それでも一応は街の中心、それなりの賑わいを見せていた。店を営む人々も買い物をする人々も、その表情は明るかった。
なかなか活気がある街じゃないか。ただ、その反動か道端にゴミが多いのが気になると言えば気になった。まあ、ある程度の規模の大通りになると避けられない問題なのだが。実際に王都ですら結構ごみごみしているし。
汚物が放り投げられていないだけましだが、それ以外の不要物の扱いについての衛生観念というか道徳観念については前世の常識とは差があると感じた。
続いて、近隣の村を視察する為に馬車を街の入り口の門へと走らせる。
この街にはややズレてはいるが、概ね東西南北に大きな門があり、そのあいだあいだに小さな門という合計8つの門が存在する。
この馬車は大通りを通って東門から出た。東門は公都や王都の方に面している、最も立派な門だ。馬車はそれからしばらく東へ街道を進んでから南方向の道へ入る。
そのままどんどん進むうちに小さな村が見えてきたのだが、遠くに見える街の壁を見て違和感を覚えた。門が見えているのだ。遠目なので南門なのか南東門なのかは分からないが、明らかにその門を通った方が近いだろうに。
その門へと続いている道も、東西の街道よりは細いものの馬車が通るのに無理があるという程でも無い。これはどういうことだろう。
疑問を抱きつつ、畑の様子を馬車から眺める。
素人なので麦の育成状況がどうなっているのかはよく分からないが、夏の終わりの日差しを浴びながら輝く穂は豊かに実っているように見えた。働いている農民達の様子も、どこか余裕というか、のんびりした雰囲気が感じられる。少なくとも、不作に怯えているような気配はない。
この村の領主筋だという護衛の騎士によると、今年は平年並みの収穫が期待できるとの事だった。不作は10年に1度ほどで、それについても普段からの備蓄でどうにしのげるそうだ。
どうやら、農業関連で俺が手出しするべきことはあまりなさそうだということが分かった。前世の知識がこの世界でも有効かはある程度実験をしなければ分からないし、現状でそれ程問題が無いのであれば下手な事はしない方が良いだろう。
「それでは公子閣下、そろそろお昼ですが館に戻りましょうか?」
男爵がそう提案してくる。
「そうですね、戻りましょう。ああ、帰りはあちらの門からでお願いします。大通り以外の様子も見ておきたいので」
そう言うと、男爵が露骨に困った表情になった。
「……あちらからでございますか」
「何か問題でも?」
男爵はしばらく口ごもっていたが、観念したのか話し始めた。
「あちらの門から入りますと、公子閣下にお見苦しいものを見せてしまう恐れがありまして……」
「見苦しいもの……。何のことですか? 街にとって改善すべき点があるのなら、むしろ見る必要があります。是非案内してください」
「恥ずかしながら、壁の近くを孤児どもがねぐらにしているのです。大通りに通じる東西南北の門の側には寄らせないようにしているのですが、あちらの南東の門の近くはうろちょろしているかもしれず……」
ある程度予想はしていたが、孤児達か。
「すぐに案内してくれ」
現状を知るべく、俺は確固たる意思を男爵に伝えた。
うん、ある程度上からな口調の方が話が早くていいようだ。
そうしてくぐった南東の門。
門番が領主の紋章の入った馬車を見て相当驚いていたが、本当に滅多に通らないんだな。
周囲はなるほど、大通りと違ってなにやらよどんだ空気が漂っている。落ちているゴミも大通りより多いし、ふと見えた路地ではネズミらしき生き物が何かを囓っていた。どうやら生ゴミのたぐいも捨てられているようだ。そういえばなんだか臭うな……。
「なかなかに荒れているな」
「お恥ずかしい限りでして……」
男爵と会話をしていると、視界の隅で何かが動いた。
路地の奥、ネズミが突然ひっくり返る。投石によるものだ。驚くと、突然ぼろ布の塊が接近してネズミを回収していく。伸ばされた腕は、細い。
反対側の路地からも、ぼろ布を被った小柄な子供が二人、こちらの様子をうかがっている。布から覗く足は裸足だ。
あれが孤児か……。
「男爵、予定を変更する。昼食は遅れても構わないから、この街の教会に向かってくれ」
この街で自分がするべき事が決まった気がした。