24 兄、和む
パトリシア王女とガスパールはひとしきり笑いあった後、どちらからともなく真剣な表情で見つめ合った。
「なかなかに面白くはあったけど、けじめは付けさせてもらうわね」
パトリシア王女はガスパールの前で拳を固め、構える。
――そうだ、この王女様、格闘と剣術の練習もしてるんだった。
俺は原作ゲームの設定を思い出した。
それが婚約の前か後かははっきりしないが、武門の侯爵家に相応しくあるためと励んでいたはずだ。
素人目にも、いわゆる一般的にイメージされるお姫様がぺちんと叩くだけでは済まないという凄みが感じられる。
「構わない。オレはそれだけの――それ以上の事をしてしまったのだから」
ガスパールはこの部屋に入った時から小脇に抱えていた包みを円卓に置くと、パトリシア王女に正対し、潔く答えた。
「いい覚悟ね。歯を食いしばりなさい」
ガスパールが言われたとおり、ぐっと歯を噛み締める様子が伝わってくる。
おいおい、いいのか? いくら歯を食いしばったところで、口の中を切っての流血は防げるかもしれないが腫れはするだろうに。
ミシュリーヌとエドワーズ王子、ブルーノも緊張した面持ちで見守ってはいるが、止めに入ろうという気配はない。
確かに、これは二人の問題だ。
俺に与えられた客間で王女が侯爵家長子を打擲という事件が起きてしまうのは外聞的にどうなのかとも思うが、ここで横槍を入れるべきではないとこちらも腹をくくる。
頑張れガスパール、骨は拾ってやるぞ!
「行くわよ」
「ああ」
パトリシア王女の身が電光石火の如き勢いで拳を繰り出し、ガスパールは腹部を押さえてその場に崩れ落ちた。
「腹ぁ!?」
マジかよこの王女様、歯を食いしばれと言っておいてまさかの腹パンである。しかもかなりのキレ。
これ、俺の持つ前世の記憶的にはある意味お約束とも言える流れだけど、この世界だと前代未聞だと思う。
いや、そもそも王女が侯爵令息を殴ること自体が前代未聞ではあるけれど、それでも輪をかけて突拍子もない行動だ。
エドワーズ王子の目がまん丸に見開かれている。
そりゃあびっくりだよなぁ。
なお兄としては、その隣で「驚いた顔のエドワーズ様も素敵」的な表情で王子を見ている妹にもびっくりだけど。そっちに注目している場合ではないだろう我が妹よ。
ブルーノは、驚いた顔ではあったが、それが何かに気づいたような表情に変わる。
「……驚いたわ。気がつくとは思ったけど、力すら入れないなんて」
パトリシア王女は驚愕の表情でガスパールを見つめ、彼に撃ち込んだ自身の拳を左手で握り締めた。
「……目立つところに跡を残すほど、王女殿下が浅慮だとは思っていない」
ガスパールはゆっくりと立ち上がる。
王女の行動を読めたことも凄いが、来ると分かっているのにも関わらず腹筋に力を入れないというのは、絶句である。
人間、どうしたって反射的な行動というものはある。それが自分にとっての脅威ならば、なおのことほぼ自動的にとってしまうはずだ。
それを自分の意思で禁じるとは!
「大方、私が手首を痛めるのを心配でもしたのでしょう、まったく……」
パトリシア王女は横を向いてそっと自分の拳を撫でた。
おお、何だかいい流れじゃなかろうか。
「……もういいわ、さっさとお友達をお見舞いなさい」
と、思ったら何だか不機嫌そうである。
パトリシア王女は円卓に背を向けると、部屋の端に歩いて行ってしまった。
乙女心は複雑だ……。
ガスパールはそんな王女の背中を暫し見つめていたが、静かに一礼すると円卓に戻り包みを開いた。
中に入っていたのは一冊の本である。
あまり厚くないところを見ると、絵本だろうか。
それを持って、ガスパールは俺の方に来た。
「マルセル、見舞いにきたのに心配をかけて済まない」
「ああ、いやーー、……そうだな。大丈夫か腹? 結構いい拳だったように見えたけど」
俺は迷ったが、結局素直に心配の言葉を口にする。
「いい一撃だった。……いやはや、膝を付くつもりはなかったのだが」
ガスパールは苦笑したが、その言葉には賞賛の意が込められている。
「それで、その本は何なんだい? ここに来る時も教えてくれなかったし」
ブルーノも席を立って俺の方に寄ってきた。
ガスパールは反射的に本をかばうような動きをする。
「……正直、どうして持ってきてしまったのかと思い悩まないでもないんだが。やっぱり無かった事にしようかなとも思ったんだが――」
ガスパールは恐ろしく珍しいことに何やらモジモジしている。
「まあ、見てくれ。オレの宝物達だ」
待てよ、このセリフはもしや――
俺ははっとする。
これは、ガスパールが自分の好み、即ち動物好きなことをカミングアウトする時のセリフだ。
ガスパールはちょっと赤面しつつ本を開く。
そこには子猫達の写真、それと戯れる今より少し幼いガスパールの写真が収められていた。
装丁が違うから気付かなかった。
ガスパールは家の猫達の写真を撮るのが隠れた趣味なのだ。なお、この写真は魔道具によって撮られたものであり、貴族は持っている家もあるが一般には普及していない代物である。
「うっわあああ! 可愛い猫ですわね~」
ミシュリーヌの歓喜の叫びに、窓際に居たパトリシア王女の肩がピクリと反応したのに、俺は気づいた。
「きゃー、お兄様! エドワーズ様、子猫ですわよ子猫!」
パトリシア王女はさり気ない風を装ってちょっとずつ移動してきている。
「へー、ガスパールの家は猫をたくさん飼っているんだね。でも、別に隠すような事じゃないんじゃない?」
ブルーノは不思議そうに尋ねる。
「まあ、その――なんだ、やはり武門の家の息子がほら、動物と戯れているというのは変じゃないかなと……」
ちょっと恥ずかしそうに言うガスパール。
なんだよ可愛いな。言うと怒られそうだから言わないけど。
あ、またちょっとパトリシア王女が接近してきている。
「いやー、いいんじゃない? 動物に懐かれるっていうのは動物に優しいってことでしょ。ほら、こっちの子猫なんて凄く安心した感じでガスパールにくっついてるじゃない」
気持ち大きな声で言うブルーノ。
こいつもパトリシア王女の動向に気づいているとみた。
「動物が好きなのは良いことだと思いますわ! ねえエドワーズ様」
「そうだね、実は姉さんも――むぐっ」
言いかけたエドワーズ王子の口を、すぐそこまで接近してきていたパトリシア王女が後ろからふさいだ。
集まる周囲の視線。
「なっ、べ、別に私は動物なんて、その――」
何も言っていないのにもごもご弁明をする王女。
なるほどなぁ。
「……パトリシア王女もご覧になりますか?」
「……見せて頂くわ」
ガスパールの誘いを、パトリシア王女は不承不承を装いつつ嬉々として受けるのだった。