聖女と転がっている石
主よ・憐れみたまえ 救世主よ・憐れみたまえ 主よ・憐れみたまえ
教会に響く声。日曜日はミサがあり、こうして祈祷文を唱えて祈る。
祈っているのはもちろんシスターだ。僕と彼女しかいない教会に響くキリエ。それは寂しくもあり、贅沢でもあった。
綺麗な喉から発される声もまた、透き通っている。音に疎い僕がそう思うのだから、相当なものだろう。彼女の才能か、あるいは努力か、はたまた想い故か。
キリエ、それはただの祈りであるが、グレゴリオ聖歌と言うようにミサ曲の題材にもなる……と、いつかシスターが語っていた。
十字架の前に跪き、祈りを捧げるシスターは何よりも美しかった。それは視覚の美ではなく、心へ訴えかけるものだった。
シスターのミサは、かなり簡略化しているらしい。僕と彼女しかいないのだから、一々形式張る必要はないのだろう。
少しはキリスト教の勉強をしようかな、とも思うが、たぶんそれをシスターは嫌うだろう。どうしてかはわからないが、そんな気がする。
キリエを唱え終えた彼女は立ち上がり、こちらを向いて微笑む。無垢な顔。俗世から離れた場所にいる彼女にしかできない顔。
「退屈ですか?」
「いや……そうじゃないよ」
顔をじっと見ていたからか、そんなことを聞かれてしまった。
「……シスターをしていて、辛くない?」
「はい?」
僕の質問の意図を掴みかねたようで、シスターは首を傾げて聞き返してきた。
「お酒飲みたいとか、贅沢したいとか、子供欲しいとか、思わない?」
「まあ、新しい口説きですか? 残念ながらそれに引っ掛かる方はいらっしゃらないかと……些か下品ではありませんか?」
「違うよ! 聞いた僕が馬鹿だった……」
クスクスと笑うシスターを見て、まともに相手されてないとわかり、僕は少しふて腐れて新書を取り出した。
さっきの質問は本心である。修道女もそうだし、お坊さんなんかにも思う。
その道を選んで、間違ったと思うことはないのだろうか。
不謹慎な質問だとは思うけれど。だけど、もし僕が彼らだとしたら、絶対に耐えられない。
きっと彼らもどこかでそう思っているのでは……そしてそのことで後悔してしまうのでは、と思ってしまうのだ。
「……はぁ」
これはあまり良い考えじゃない。
シスターの言うように、あまりに下品な考えだ。清廉な生き方をする彼女に欲を吹き込むなんて、悪魔以外の何者でもないじゃないか。
そう思って立ち上がる。ふと、シスターの顔を見て、息を呑んだ。
いつも明るい彼女の笑顔が、少しだけ憂いを帯びていたように見えたからだ。
それも一瞬のことで、すぐに表情が切り替わる。
「笑顔が素敵ですね」
「……僕の声真似して変なこと言わないでください」
あながち嘘じゃないから困る。
「ふふっ」
「……どうして笑うんですか」
やはりと言うか、いつものシスターである。僕はそんな当たり前のことに、どうしてかすごく安心してしまった。
だいぶ彼女に、依存している。いけないな、と呟いて、僕はまた本に目を落とした。
「お散歩、行きませんか?」
僕が次に教会に訪れたとき、シスターがそう言った。
シスターにしては珍しい、彼女からのお誘いだ。僕が何かに誘ったことなんてないんだけれども。
何だか初めて会ったときを思い出した。コクリと頷いて、僕らは教会から出る。
普段から同じ場所にいながら別のことをしている僕らが、同じ方向を向いて歩いているのは何だか奇妙な感じがした。
三月になり、春が近づいているのだが寒さが抜けることはなかった。三寒四温と言うが、あれは果たして本当なのだろうか。
「どうしてまた、急に散歩を?」
何となく、少し前を歩くシスターに声をかける。
シスターは顎に指を当てて、微笑んで言った。
「母性に疑問を感じて飛び出してしまいました」
「そんな育児放棄みたいな理由で出ていくの!?」
「私はあなたが思っているほど大きくはありませんよ……。世の中、大きくないと悩む人は多いです。確かに男性からしてみれば大きい方が魅力的なのでしょうが、果たしてそれはなければならないものでしょうか」
「……母性って、胸の話?」
「あらやだ、心の話ですよ」
今回は完全に僕が悪かった。途中からシスターが自分の胸に視線を落とすものだから、話がすり替えられたことに気づけなかった。
クルリと回って前を向いて歩く彼女は、どこか楽しそうだった。
踊るような足取りの、しかし狭い歩幅のシスターの後をついていく。
次々と隣を人が抜いていくが、シスターはまったく気に留めない。
かく言う僕も、シスターの足の遅さを気にすることはなかった。普段なら周りに釣られて速く歩くのだけれど、今はシスターに合わせている。
相変わらず、不思議な力を持ってるなと思いながら、シスターの背中を見つめていた。
「あら?」
シスターが足を止めたのは、公園の前だった。
いつ来てもあまり人の出入りのないその公園のベンチに、一人の品の良い男性が座っている。
五十代だろうその男性は、休日であるからかゆったりとした格好で読書をしている。
いくらなんでもまだ寒いだろうとは思うが、彼のいる場所は日だまりになっていて不思議と温かそうに思えた。
「もしもし」
「……って、シスター!?」
気づけば、男性にシスターが話し掛けていた。さっきまで隣にいたはずなのに。
シスターが素早いのか、僕がボーッとしていたのか。
慌てて駆け寄るも、シスターは朗らか笑みで男性に話し掛けていた。
「お時間、よろしいですか?」
「ああ、良いよ。君は繁華街の外れにある教会のシスターさんかな?」
珍しいことに――本当に失礼だが、珍しいことに教会のことを知っている人だった。
もしかしたらこのくらいの世代の人はみんな知っているのかもしれない。
男性は文庫本を閉じると、少し腰の位置をずらしてシスターと僕に席を譲った。
四人掛けのベンチに、三人で座る。自然とそれぞれ同じ間隔を空けていた。
「よくご存知ですね」
シスターが先程の質問に答える。男性は口端を少しだけ持ち上げて笑った。
「綺麗になっていたを見て、誰かが手を加えたんじゃないだろうかと思って中を覗いてみたら、君たちの姿が見えてね」
「まあ」
シスターは口に手を当てて笑った。
まあ、確かに。教会が活動を再開したと判断するには尤もな理由である。
チラリとシスターがこちらを見た。僕は気づいていない振りをする。
「それで、何か用かな?」
「いえいえ、ちょっとした世間話をしたくて」
「ははは、調度良い。私も退屈していたところだよ」
朗らかに笑う男性であるが……前に見た、シスターの悲しむ顔に似ているようにも見えた。
相変わらずうたぐり深い自分の思考を表に出すまいと、前を向く。
シスターと男性はそれから他愛ない話をする。公園の普段の様子や、些細な街の変化、気候の変動なんかの、在り来りな誰にでもできるような話。
僕はと言えばその会話に混ざることができず、耳を二人の団欒に傾けながらも視線を公園へ走らせた。
休日だと言うのにほとんど誰もいない。僕の公園での思い出と言えば、携帯ゲーム機を持ち寄ったりトレーディングカードゲームで遊んだりと、どうして公園でやる必要があったかということばかりだ。
小さい子たちが遊んでいても良いんじゃないか、なんて言葉は自分を棚に上げた発言だろう。先に生きている僕がこれじゃあ、年下の子たちが公園で遊ぶわけがない。
「……ところでシスターさん」
シスターと男性の間にある雰囲気が突然変わった。僕は険呑なものとは思わなかったが、男性からは先程と変わって少し哀愁が漂っている。
「何でしょう」
「あなたは……お悩み相談は受け付けてくれるのかな?」
「ええ。それであなたが救われるのならば」
にこりと笑うシスター。それを見て少し自嘲するような笑みを浮かべる男性。
僕は興味ない振りをしながら、様子を伺った。
「ふむ……考えるのも馬鹿らしい話なのだがね」
そう前置きをして男性は滔々と話しはじめる。何だか、他人事を話すようにも聞こえたが、そうでもしなければ話せないのだろうと決め付ける。
「最近、娘も二十歳になって、彼氏もいるらしい。……そしたら、色々考えることがあるんだ」
そう言って男性はふぅと息を吐く。話すのが恥ずかしいのか、落ち着かない様子だ。
「果たして妻は、これで良かったのだろうか」
いよいよ僕も、男性の方を向かざるを得なくなった。
何だろう、嫌な予感がする。
「私と結婚して、妻は幸せだっただろうか。いや、あれは幸せだと言うだろうが……。私の前に連れ添おうと決めた男もいただろう。その男の方が良い男だったら? 私はひどく妻を退屈にさせてしまっていないか?」
そうやって一気に吐き出すと、男性は自分を嘲るように笑った。その笑みはひどく空虚で、気持ち悪く思えた。
「それだけじゃない。私も……もっと幸福になれる選択があったのかもしれない。いや、今も幸せだ。だが別の形の幸せも良かったかも知れないと、時々思ってしまう」
「…………」
シスターは表情を変えずに、目を閉じてジッとそれを聞いている。男性はシスターの様子をチラリと見て、まだ話しを続けた。
「そうすると……何だか娘に何も言えない気がした。こんな無責任なことを考えてる俺が何を……」
そう言うと男性は取り繕って、世間話をしていたときのような笑みを顔に貼り付けた。
僕はと言えば、男性とろくに視線を合わせられず、足元にたくさん転がっている小さな石ころを眺めていた。
この人の言いたいことはわかる。わかってしまう。僕だってもっと良い選択をすればと思ったことがある。
だから目の前の彼を認めてしまいそうになる。
でも、否定するべきだって何かが叫んでいた。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
シスターが小さな唇を動かしてそう言った。静かだが確かに彼女から感じるものが優しさか怒りか、僕にはわからなかった。
「……マコトだ」
「では、マコトさん。あなたの心配は誰もが抱えているものですよ」
シスターはその悩みを肯定した。僕はそのことに少しだけ驚いてシスターの顔を見る。しかし、彼女の様子は何も変わってなかった。
するとシスターは、僕の足元にあった石ころを一つだけ拾う。
それを手の平に乗せて、見つめる。
「人生は、この石を拾って磨くことなんです」
「石を?」
マコトはシスターの手の中にある何てことのない石をジッと見つめる。
僕も一緒になって石を見た。
「この石は何てことのない石です。でも、もしかしたら中に金や宝石があるかもしれません。だから人は磨き続けるのです」
そして、と言ってシスターは石を落とした。違う石とぶつかり音を鳴らす。
「世界にはたくさんの石があります。大小はもちろん、色や硬さの違う石があります。人はこれらの中から一つを選ばなくてはならないのです」
何となく、シスターが言いたいことがわかってくる。
この無数の石は、選択肢なんだ。
「選ばなくては、磨くこともできません。誰も石を与えてくれません。もしかしたら、磨いても磨いてもただの石かもしれません。だからこそ……一生懸命に石を選んだ、磨いた。それは誇りではないでしょうか?」
ハッとしてマコトは顔を上げる。シスターはゆっくり頷いた。
「きっと、貴方も奥さんも……その時、最も輝くと思った石を選んだはずです。それは誇りではないでしょうか?」
「君は……」
シスターが微笑む。マコトは口をパクパクとして、そしてすぐに口を結ぶ。
「マコトさん」
僕は自然と口を開いた。
「僕はまだ結婚してません。だから、僕の為にも……誰かを選んだことを否定しないでもらえませんか?」
でないと、僕はきっと石を選べなくなってしまうから。
マコトは僕の目を見て「ああ」と呟いた。
「そうだな……そう、だな」
ぼやくようにそう呟いて、マコトは立ち上がった。何だか晴れた顔だった。
そして一つの石を軽く蹴飛ばす。それは丸い石で、跳ねて転がっていき、蹴った力の割に遠くへと行く。
「よく見てみれば……擦り減って丸くなった石も悪くない」
そう言ってマコトはシスターの方へ向く。その笑顔は、貼り付けたようなそれではなかった。
「ありがとう。……こうして会ったのは偶然とは思えないな」
シスターはその言葉にクスリと笑って、答えた。
「人は誰かを見ているとき、誰かに見られているものです」
「……そうか」
マコトは深く頭を下げた。シスターもまた、同じように頭を下げる。
そしてマコトは僕を見ると少しだけ、嬉しそうな顔をした。
それでは、と言ってマコトは公園から去っていく。暖かい日だまりの中にずっと居続けた彼の背中は、広く感じた。
さっきまで彼に抱いていた嫌悪感はとうになくなっている。
「運命はどこにでも転がっている、か」
「ロマンチストですね」
僕がボソリと言った言葉を、シスターは拾った。少し気恥ずかしい。
すぐ隣にいるシスター。人一人分の間隔を空けて座る僕らのこの距離は、すごく心地好い。
「私は後悔するかもしれません」
シスターが急にそんなことを言いはじめた。
何の話かと思ったら、前に僕が聞いた不謹慎な質問の答えだった。
「友人が結婚して、子供を生んで……その姿を羨むかもしれません。でも、それはそのときにしかわかりません。だから私は、今ある一番良い選択をし続けます。選んだことに後悔したくありませんから」
シスターの瞳には僕が映っている。僕の答えは決まっていた。
「シスターは間違ってないよ。そう……間違ってはいない。その生き方は美しいと思う」
自分の欲を捨て、神に身を捧げ、誰かに石を拾って磨かせる勇気を与える。
その生き方は、少なくとも僕には真似できない。
それと同時に、僕は教会に行くことを選んだことを誇りに思う。
この人に会えてよかったって、そう思えた。
シスターは、やはり笑っている。その笑顔が一番似合うと、口には出さないけれども心の中で言った。
「褒めてもポロリはありませんよ」
「期待してないからね!?」
やっぱりこれぐらいが、一番良い。改めて、そう思った。
何が正しいかなんて変わっていく。だから、いまできる精一杯を選び続ける。それだけは絶対に間違いなんかじゃないはずだ。
もうすぐ春が来る。強い風が吹いて、石が転がっていった。