もつれた絆
初めてこの家に来た時の事を、私はよく覚えている。
「初めまして、真澄ちゃん」
大きな鞄を抱えたまま玄関先に立つ私に、目を細めた、泣きそうな微笑みで手を差し伸べてくれた、優しい顔のお母さんとお父さん。そして、その先の廊下を進んだ場所にある階段の上から、無言で私たちを見下ろす泉の強い視線。
薄暗い階段から放たれる視線は妙に力のある、鋭いものだった。それは、まさしく拒絶の視線。
私はその時に感じた居心地の悪さを、とてもよく覚えている。
「行ってきます」
「あ、待って。真澄ちゃん」
靴を履き終わって鞄を持って立ち上がってそう言うと、エプロン姿のままの母親が、パタパタと台所から駆けてきた。慌てていたせいか、手にはおたまを持っている。
「今日、何かあるの?」
「何かって?特にないと思うけど」
漠然とした聞き方に、放課後の事かなー?などと考えながら私が首を傾げてそう答えると、母親はにっこりと笑った。
「なら、もう少しゆっくりしててもいいんじゃない?」
「え、どうして?」
私は、今まさに学校に行こうと思っているのだ。コートだってきちんと着てしまっているし、靴も履いてしまった。どうしてあとはもう、出るだけというこの状態で今更家でゆっくりだなんて。
「だって、まだちょっと時間あるんでしょう?真澄ちゃん、最近いつも2本も前の電車に乗ってるもんね」
確かに。私は最近、というか半年程前から電車を以前乗っていた物よりも2本程早いものに変えた。以前の、遅刻寸前の電車に飛び乗っていた私には考えられない話だ。お陰で本来眠っていられる筈の30分間を無駄にしているような気になるけれど、背に腹は変えられない。電車を早めたのには、それなりの理由があるのだ。
「でも……」
一応、控えめに反論を試みる。実は、私はこの女性に逆らえた事など一度もないのだけど。
「遅刻しないなら大丈夫でしょ?今日は泉と一緒に学校に行きなさいな」
爆弾直撃。私は思わず頭を抱えたくなった。
―――何が悲しくて、通学時間を早める元凶となった男と一緒に通学しなきゃいけないの。
泉と言うのは、私の弟だ。……血はつながっていないけれど。それを言うのなら、この家の人間とはみんな、血は繋がっていない。私は、この吉住家の養女なのだ。
私が7歳の時、本当の母が病気で亡くなった。私はそれまで母子家庭だったし、母の身寄りもなかった。だから、母は死期が近づくと、親友であった吉住家の妻……つまり今の母に手紙を書いて、私の今後を頼んだと聞いている。吉住夫妻は快く私を引き受け、養女にまでして実の息子の泉と分け隔てなく育ててくれた。
でもやはり、私の方は養女という立場上、どうして無意識に遠慮が出てしまう。だから、母の言う事に逆らったりできないのだ。
「最近、痴漢が出るって噂になってるのよ。表通りに出るまで、ちょっと不安でしょ?」
「いや……放課後ならともかく痴漢さんも朝っぱらからそんな元気はないんじゃないかな」
「何言ってるの」
心配性の母は、少し怖い顔をする。
ああ、駄目だ。やはり拒絶権はないようだ。
「わかった。泉、待ってる」
「うん。紅茶入れるわ。……それから、真澄ちゃんの言う事も一理あるから、帰りも泉と帰ってきなさいね」
―――しまった。墓穴掘った。
『放課後ならともかく』はいらなかったようだ。
私は自分の迂闊さに、大きく息を吐いた。
『呆れた阿呆だな。真澄は』
この場に泉がいたら口の端を嫌味に上げて、だけど瞳は微笑ませてこう言っただろう。
……半年前ならば。
ローファーを履いた足を必至で、素早く動かす。できるだけ、早く進めるように、足に力を込める。隣にいる男……いやもはや「いた男」というべきか、も同じく一心に足を動かしていた。
―――というか、反則だよ。
あっちは男でこっちは女。しかも体育会系部活所属と文化系部活引退者。おまけに認めるのは癪だが、足の長さも向こうの方が圧倒的に長いときている。どう考えたって、向こうの方が体力も有り余っているし、足も速い。
―――地味な嫌がらせ?
私と泉は、駅に向かって全力疾走している。
母親に「待ってて」とお願いされて渋々待っていたものの、以前私が起きていた時間になっても、奴は全く姿を現さなかった。母親がそれを不思議とも思っていない様子だったのにも、私は不審を覚えるべきだった。
つまり、結論から言えば。
泉はいつもギリギリ遅刻しない時間帯の電車に、自分が猛ダッシュして乗れる時間に起きていたのだ。朝食をかきこむ泉に、母親が事情を説明した時、一瞬顔を曇らせたのもきっとそのせいだ。
玄関を出て、見送る母親がドアを閉めたその瞬間、泉は一言呟いた。
「走るぞ」
それが、スタートダッシュの合図だったようだ。
泉の切れ長の黒い瞳はひたすら前を見据える。他のものに目をやるのを怖れるかのように。後を走る私を振り返る事もなく、真っ直ぐに前だけを見ている。私は、よそうと思っているのに、走りながらそんな泉の顔を何度もちらちらと伺っていた。手触りの良さそうな黒い髪が振動に踊っていた。
泉と私は同じ高校の2年と3年。泉は、狙えばもっと上の高校に行けたのではないかと思う。それなのに、うちの学校に来たのは、私がいたからだ。
だけど、今は後悔しているんじゃないだろうか。私と同じ学校であるがために、こうして母親に言いつけられて一緒に登校などしなければならないのだから。
―――そうでもないか。
私は自分の考えを、すぐに否定した。
―――うちの高校じゃなきゃ、梓ちゃんとも会えなかったもんね。
梓は私の部活の後輩であり、泉の彼女だ。
二人は、半年前からつきあっている。
定期券を入れて改札を通った時は、電車はとっくに発車している時刻だった。
既に泉とは姿が見えないほどに引き離されていた私は、電車が発車してしまった時間を過ぎてからは諦めて歩いていた。あの足の速さなら、泉の方は間に合っただろう。
―――ちくしょー、アイツ、女の子を気遣いもしないで。
そんな事も心の中で毒づいてみるが、よく考えれば、この方が都合が良いのだ。逆に、電車の中でとか、学校に行く道のりに二人きり、などの方がよっぽどの苦行なのだから、遅刻くらいは甘んじて引き受けよう。そう、家から駅に向かう道のりも、ヤツと二人で沈黙の圧し掛かる気まずい時間を過ごすくらいなら、朝練代わりかと思えるほどの猛ダッシュだった方が有難かったのだ。
それにしても、朝っぱらから無駄な体力を使って疲れた。
―――今日はもう、サボっちゃおうかな。
そんな悪魔の誘惑的考えが頭を掠める。受験生がこんな事を考えて良い物か。思うのに、心は一度思いついてしまった考えに、ぐんぐん引き寄せられる。
ここしばらく、割と真面目な私は出席日数も充分足りて、遅刻回数もごく少ない。本当はまるでゼロ、というのが望ましいのだろうけど、時々、本当に時々、何もかもが息苦しくなって、面倒くさくなって、ふらっとどこかに行きたくなる。学校側が家に連絡を入れない程度に、本当にたまに。
思いついたら、体は正直にそれを実行しようとしていた。いつも行くのとは反対側のホーム。反対方向の電車に乗ろうとそこに向かう。ホームは線路を挟んで向かい合わせになっている。二つのホームを繋ぐのは、階段と渡り廊下だ。
だらだらと階段を下りて、ホームに降り立ち、電車が来るまで暇だな、などと思いながら手持ち無沙汰に顔を上げる。
そこで、見つけてしまった。
閑散とした反対側のホームで、ぼうっと、私と同じく手持ち無沙汰に椅子に座る泉。
私が気付いた直後、向こうもこちらに気付いたようで、一瞬、視線が絡む。
―――待っててくれたのか。
私もびっくりしたけど、向こうはもっとびっくりしたようだった。ぎょっと目をむいたその表情が『何やってんだ』と雄弁に語っていた。
タイミングよく、こちらのホームに電車が来る、というアナウンスが流れた。白線の内側に下がってお待ちください―――。
泉が勢い良く立ち上がった。こちらのホームに来ようと言うのか、ホームを走って、階段を駆け上がる。そうしている間に、こちらに電車が入ってきた。強い風に煽られ、髪が舞い上がり、スカートがはためく。
泉はまだ来ない。
ドアが開く。通勤・通学時間を過ぎてしまった電車はがらがらで、空いている席も多く見られる。
私は足を動かす。ドアが閉まる。がたん、と大きく揺れて、電車が発車する。
大きく息を吐いた私の耳に、慌しい足音が聞こえた。私はゆっくりとそちらを振り向く。階段の上から私を見下ろす、切れ長の瞳。
一瞬、微かな既視感を覚える。見下ろす泉と見上げる私、というこの立ち居地に。
すぐにそれが何を思い出させるかには思い至った。私が初めて吉住家のドアをくぐった時の事だ。初めてあの家に入り、初めて泉と顔をあわせた日。泉は階段の上に立って、私を見下ろしていた。とても苛烈な、敵意のこもった瞳で。
私は7歳で養女になって吉住家に来た。母が亡くなって、悲しむ暇もなく今まで住んでいたアパートでは考えられなくらい立派な家に住む事になって、目まぐるしい環境の変化についていくのが精一杯だった。立派な家、と言ってもごく一般的な建て売りの一戸建ての家なのだけど、私の家は貧乏だったから、突然一戸建ての家に住めて、しかも自分の部屋まであてがわれて、まるでお嬢様にでもなったような気分になったものだった。
父親も母親も、当初からとても優しかった。母が死んだばかりの私を労わってくれて、まるで本当の家族のように接する事を心がけてくれていたと思う。問題は、弟の泉だった。
泉は最初から、私に友好的ではなかった。おそらく、まだ幼かった泉は突然現れた私を父親や母親が何かと構うのが面白くなかったのだろう。両親をとられた気になったのかもしれない。それで、両親の目を盗んでは、幼い私に徹底的に意地悪をした。
幼い子供の意地悪なんてたかが知れているけれど、ストレートで悪意に溢れていた分、それは残酷だった。
例えば、真っ暗な襖の中に閉じ込められた事もあった。買ってもらったばっかりの人形にめちゃくちゃに落書きをされていた時もあった。私の物を隠したり壊したりはしょっちゅうだった。幼い頃は女の子の方が成長が早い。だから、そんなに痛みはなかったけれど、叩かれたり蹴られたり、押されたりもしばしばされた。
それを、どこまで知恵が回るのか、泉はすべて両親の見ていないところで上手くやるのだ。
私はそれを全て黙って耐えた。泉は正式なこの家の子供で、自分は違うのだから、耐えるしかないと思っていた。
初めて会った時から、私は泉が怖かった。泉が私に向ける、恨みのこもった様な、あからさまな敵意の視線が怖かった。それは、5歳の幼児がするには、少なからず大人びすぎていたように今でも思う。
当時のような視線はまったく感じさせなくなった表情で、慌てて階段から降りてくる長身の弟は、珍しい事に息が上がっていた。
「……何やってんだよ」
僅かに強張った声。こころもちぎくしゃくとした動作。
私は微かに肩を竦めた。
至って平静を装わなくてはいけない。久々の会話だけど、緊張しているのを悟られてはいけない。
「別に。どうせ間に合わないし、サボっちゃおうかなって思っただけ」
その返答には、呆れたように、溜息を一つ。
「お前って、時々ワケ分からん行動するよな」
「それはどうも。まさか心配して駆けつけてくれるとは思わなくって」
「可愛くねえ」
泉は吐き捨てるようにそう言った。
「戻るぞ」
もうこちらに背を向けてぶっきらぼうに言いいながら、向かい側のホームを指差す。
「はいはい。お迎えごくろーさま」
私は気のない相槌を打って、歩き出した泉の後に続いた。
「ねえ、1本ずらして乗る?」
「なんでそんなややこしい事」
私の提案を、泉は一言で切って捨てた。
「梓ちゃんが気にするかな、と思って」
「梓はお前と違ってそんな事、いちいち気にする女じゃねーよ」
「そう」
その言葉で、私は口を閉じた。
梓と泉は半年前から付き合い始めた。その前までは、泉は私と付き合っていた。
義姉弟なのに、親に隠れて、私たちは付き合っていたのだ。
私が吉住の家に来てから3年もすると、泉は私をいじめるのをやめた。だけど、態度は相変らず私には冷たいもので、いつも私を見る目は拒絶と敵意に溢れていた。そして、徹底的に、できるだけ、私を避けていた。
嫌われているのだろうな、とは改めて確認するまでも無く感じていた。泉の態度はそれほどまでに露骨だった。むき出しの敵意だった。
それが、泉がだんだん成長するに従って、いわゆる思春期という物になっていくにつれて、その態度に軟化が表れた。今までのトゲトゲした態度がふっつり消えて、主に憎まれ口が多かったが、私と話をする機会が多くなった。ああ、ようやく子供じみた意地っ張りをやめてオトナになってくれたのだな、と私は安心した。とても、嬉しかった。
会話は日々増えて行き、私たちは日を増すごとに親しくなった。話してみれば気の合う事も多かったし、見えなかった良いところも、見えるようになった。普段は嫌味で意地悪に見えるけど、泉はさりげなく優しかった。そして、本当に時たま、いつもの皮肉気な笑みではなく、無邪気に笑う顔が見れた。それが、とても好きだった。
互いの気持ちは親しみから、いつしか変化した。視線が交わる回数が増えていった。その視線が、何か甘くて熱を持ったものを孕んでいる事に気付いていた。それはお互い隠し続けている事もできなくなって、ある日、泉に抱きしめられた事で私たちは明確な名を持った形で関係の変化を余儀なくされた。つまり、私たちは恋人になった。
私は昔から、吉住家の実子である泉に、どこか遠慮していた。自分はこの家の子供でないのにこの家にお世話になっているのだから、泉をたてなければいけない、といつも思っていた。泉のイジメに黙って耐えたのも、その辺りを要因とするところが大きいと思う。
泉に対するそんな感情を拭い去れ、本当に対等に感じる事ができたのは、それこそ2年前、泉と付き合い始めてからだ。親に隠して後めたい気持ちではあったけど、それでも1年と半年間、私はとても幸せだった。こんな日々が、ずっと続けばいいと半ば本気で思っていた。
それがある日、唐突に別れを告げられた。何の前兆もなかった。梓と泉がそんな関係になっているなんて、まるで気がつかなかった。
「ごめん」と苦しそうな顔で、泉はまるで自分の方が被害者であるかのような、泣きそうな顔をしていた。「好きな人ができたんだ」と言う言葉に、引き止める言葉も見付からなかった。
以来私たちは、気まずくて、暗黙の了解でお互いできるだけ避けるようにしてきたのだった。
誰かの行動で一喜一憂する自分というのが、私はとても嫌いだ。人の行動に敏感になって、いちいちそれで相手の心を推し量って、とても疲れることだ。
だけど、そう考えながらそういった感情を制御できない自分がいる。
だから、私はあまり梓に会いたくない。
泉に会いたくない。
ましてや、二人一緒にいるところになど、出くわしたくないし、見たくもない。
梓の姿に昔の自分を重ねる、そんな未練たらしい自分は惨めなだけだとわかっている。だけど、それをしてしまう自分が存在する。
泉の腕に自分の腕をからめて楽しそうに歩く梓を前方に見ながら、私は溜息をついた。
図書館での受験勉強を適当に切り上げ、そろそろ帰ろうと学校を出た。校門を出てすぐに、前方500メートルほどのところに見慣れた2つの影があるのに気付き、「しまった」と思ったのだが、今更引き返すのも変な話だし、あまり遅くなっても母親が心配する。だから、前方の二人には適度に見付からない程度の距離を保って駅までの道のりを歩いている。
―――そう言えば、お母さんに一緒に帰ってきなさいって言われたっけ。
何とか言い訳を考えておかないと辛いけれど、両親に対して良い子ヅラする泉もきっと同じ事を考えている筈だから、家の前で待っているかもしれない。それで一緒にドアをくぐれば偽装は完璧だ。
―――そういえば、泉もお母さんには弱いよね。
言う事はなんでも素直に聞く方だと思うし、間違っても「うっせーなババア」みたいな事は言わない。
口調も態度も、嫌味で可愛げがあるとは思えないのに、意外と従順だった。
そんな事を考えながら歩いていると、前方の梓が何かに躓いて転びそうになったのが見えた。あっと思ったときにはもう、泉の長い手が梓の腕を取られていて、二人は顔を合わせて笑う。
ああもう、どうして重ねてしまうのだろう。もう終わってしまった事なのに、未練たらしく、意地汚く。そういえば、と私はまた嫌な事を思い出してしまう。今日職員室の前でたまたま梓に会った時、左手の薬指にリングがはまっていた。その事を言うと、梓はとても幸せそうに笑った。そんな事も、つい昔の自分に重ねてしまったのだ。
「お前、指輪とか欲しいわけ?」
泉にそんな事を聞かれたのはいつだっただろうか?まだ、付き合ってすぐの頃だったと思う。
「何を急に」
「いや、女ってそういうもの欲しがるのかな?と思って」
「そういうのは、突然プレゼントして驚かせるのがセオリーかと思うけど」
「いらんもんあげてもしゃーねーだろ。だから一応意見聞いとこうと思って」
泉は綺麗な黒髪をがしがしと乱暴にかき混ぜながら、少し照れ臭そうにそう言った。
「……ふーん、じゃあ、いらないよ」
「なんでだよ」
「私たちが普通のカップルなら欲しいトコだけどね。この関係じゃ、つける機会なんてそうないよ」
私たちの関係は、みんな普通の姉弟だと思っていたのだろうと思う。養女だなんて、好んで周囲にばらす事でもないし。だから、私と泉は学校では姉と弟だ。家でも、両親の手前、姉と弟だ。
「そんなモンなのか……」
泉はいまいち釈然としない顔をしていたけど、そう言って納得した。
「そうそう」
私がそう相槌を打って、その時は、その話はそれで終わった。それなのに、その年のクリスマス、泉は何故か指輪をくれた。誰に貰ったかなんて、周りにはわかんねーだろ、と言って。
そのリングは、ここ半年私の机の引き出しの肥やしになっているけれど。
梓と泉の乗った電車には乗りたくなくて、電車を一本遅らせた。既に学校を出た時から暗かったが、この辺りは住宅街で明かりが乏しいから、さらに暗い。駅からの帰り道、私は小走りで歩いていた。
―――なるほど、お母さんが注意したのも頷ける。
朝は明るいからそれほど感じなかったけれど、確かに暗くて物陰が多いここらへんは痴漢にはピッタリかもしれない。
早足で歩いていると、ふと違和感を感じた。背後に、微かに感じる人の気配。
痴漢が出る、という場所で暗くなってから制服で歩いていたら、危ないに決まっている。今の私は絶好の鴨だ。
冷たい汗が背中に流れるのが分かる。足の速度を上げる。大丈夫、もうすぐ家だから。あと200メートルほどなんだから。
もはや駆け出すようにして家に向かう。小道を抜けて、自宅の明かりが見えた時には泣きたくなった。
―――良かった。
全力疾走のため、荒くなった息を整える。今日はなんてよく走る日だ。
家についた安心感で油断していた私は、突然、ポンと肩を叩かれて飛び上るほど驚いた。なんとか叫び声を飲み込んで、反射的に振り向いてそこに立つ姿を見て、思わず険のある口調で非難の声をあげる。
「驚かせないでよ」
「そっちこそ、なんで突然走り出すんだよ」
「は?」
「今朝、母さんが言ってただろ。一緒に帰って来いって。だから駅でわざわざ待ってたんだよ。それで、後方5メートルくらいをずっと歩いてたんだがな」
気付かれないようにしたつもりだったけど、梓と泉の後ろを歩いているのは、どうやらばれていたらしい。
先ほどの気配は、泉だったのだ。まさか本人は、自分が痴漢と間違われたとは夢にも思っていないだろう。
「何それ。なんで声かけてくれないの?」
「二人で帰るのも気まずいだろ……って、おい、お前、なんて顔してんだよ」
私の顔を見て、泉は慌てたように言う。
「なにがよ?」
「何そんな泣きそうな顔してるんだって事」
鏡がないから、自分がどんな顔をしているかなんてわからないけど。
「怖かったからに決まってるでしょ。痴漢男」
「は?」
「あんな場所で尾行されたら誰だって痴漢だと思うでしょ」
「あ」
ようやく、思い至ったらしい。痴漢男はとても気まずい顔をした。
「あー、その、悪かった」
言い難そうに、視線を逸らしてそんな事を言う。
「だからその、そういう顔すんなよ。……母さんが、心配するだろ」
困ったように、参ったように、泉は頭をがしがしとかき混ぜた。
「知らないわよ。自分がどんな顔してるかなんて」
「口が減らねーな、ホント」
泉は呆れた顔で、私を見下ろす。弟のクセに背の高い泉を私は見上げなければならない。
家から漏れる明かりに照らされてぼんやり浮かび上がる泉の顔。いつの間にか表情が消えて、言葉もなく、ただ静かに見下ろしている。僅かに、瞳が翳ったような気がした。
す、と泉の手が私の頬に添えられる。
私は体を強張らせる。こんな近くに泉がいるのは、半年ぶりだ。もう二度と、ないことだと思っていた。私はじっと泉を見上げていた。どちらかというと、挑発的に睨み付けていたかもしれない。泉はただただ無表情だった。まったく、表情が読めない。
頬に添えられた手に、僅かに力が篭もる。とても、不器用な動きだ。
「振った女に、何やってるの。泉」
私はとうとう、我慢がならずに低くそう唸った。
泉はハッと目を見開いて、動揺したように瞳が揺れる。それから慌てて手を放す。
「……悪い」
視線を逸らして、くるりと背中を向けて、消え入るような、掠れた声。
「家に入ろう」
「そうだね」
私は頷いて泉の後に続いて家に入った。
泉は私が何を考えているかわからないとよく言うけれど、泉の方が何を考えているかよっぽど分からない。
私を振り回して、傷つけたくせに、まだ足りないのだろうか?今更、期待させてどうしよう言うのだろうか?
限界が近いな、と思っていた。泉と別れてから、私はこの家にいるのがとても辛かった。
嫌な思考から目を逸らすために勉強に打ち込めたのは、受験期のこの時期にはちょうど良かったのかもしれないけど。
私は、大学に入ったら1人暮らしをしたい旨を、数ヶ月前から両親につたえていた。両親は、始めは反対したけれど、最終的には了承してくれた。それどころか、奨学金を利用するつもりだったのに学費まで払うと言ってくれた。養女の自分にそこまでしてくれる二人に、有難くて泣けてきた。だけどそれでも、家を出るという気持ちは変えようとはしなかった。
だから、この胸の痛みも、気まずさも、あと数ヶ月。今はとにかくじっと押し殺して、受験が終わってこの家を出れば、それでようやく終わると思っていた。
それなのに、どうして今更、こうやって胸を掻き乱すような事をするのだろう。泉が腹立たしくて、そんな事でいちいち心を乱されてしまう自分も腹立たしい。
数日後、泉が梓と別れたと人づてに聞いた時にはもっと混乱して、腹立たしかった。
「お前、高校卒業したら家を出るってホントか?」
顔面を蒼白にして、そんな事を泉が言ったのはそれから数週間経った頃だった。
突然、ノックもせずに私の部屋に入ってきた泉に、私は度肝を抜かれて一瞬何を言われたのか分からなかった。
「……ちょっと、今私が着替え中だったら少女漫画的ドッキリ体験よ」
「ふざけてんなよ」
ツカツカと部屋に入ってきて、勉強机の前の回転椅子に座る私を、くるりと自分の方に向かせる。座っていると、更にコイツの長身にはプレッシャーのような物を感じる。それでも、私は精一杯気丈なフリをして、泉を見上げる。
「なんで今更そんな話?」
「母さんにさっき聞いたから」
「聞いてすぐ来たの。行動派だね」
「茶化すなよ」
怒鳴るように言って、泉は私の手を掴む。その力の強さに私は顔をしかめたけれど、離してくれはしなかった。
私は努めて冷静に言う。
「何そんな怒ってるの?元に戻るだけじゃない?」
「は?」
「家族が、ようやくアンタの望んでたみたいに元の家族に戻るんじゃない」
この言い方はちょっとした意地悪だった。私は、階段から敵意のこもった目で私を見下ろしていた泉はもういないと、知っている。私をいじめた事を、泉が後悔していたのをなんとなく気付いている。
だから、ほんとにちょっとした意地悪のつもりだった。それなのに。
泉はまるで、頭をハンマーで殴られたような顔をした。さっと顔から血の気が引いて、大きく目を見開いて。そして、更に強く、わたしの手を握り締めた。
「違う」
搾り出すような、苦しそうな声。
「何が?」
「それは、違うんだ。真澄。聞いてくれ。言うから、ホントの事全部言うから。だから」
泉は顔を俯けた。だから、泉の顔は見えなかった。だけどその声は、どんどん力を失って小さくなっていって、震えていて、まるで泣いているように聞こえた。
「だから、この家を出て行かないでくれ」
大きな泉の骨ばった手が、まるで縋るように私の手を握り締めていた。震える声で、泉はとても。とてもとても重大な秘密を、私に告白した。私の今までの人生観を全てひっくりかえしてしまうような秘密を。
それを聞いた私は。
一気に頭に血が昇って。混乱して。感情だけが先走って。
急に湧き上がってきた過去の数々の思い出と、それに伴う恨みを止めることができなかった。
だから。
泉に向かって大声で怒鳴って、喚き散らして、引っ叩いた。
「私は、この家に昔から居づらかった。お父さんもお母さんもいい人なのに。いつもいつも、あんたのせいで居づらかった。小さい頃はあんたに遠慮して、あんたと付き合ってからは、二人に後ろめたくて、あんたと別れてからは辛くて、気拙くって」
怒鳴るわたしの前で、泉はただただ項垂れていた。
私は泉の頬や腕を、引っ叩いて引っ掻いた。それはもう、めちゃくちゃに。今までの仕返しをするように。だけど、泉は全く抵抗しないで立ち尽くしていた。
「出て行け」
泉を部屋のドアから押し出して、私は自分で分かるくらいヒステリックな金切り声を上げる。
「顔も見たくない。出て行って」
泉はやはり、ただただ従順に、私の部屋を出て行った。
私は啜り泣きをあげながら、鍵をかけて部屋に閉じこもった。
泉の告白は、私には考えもつかないものだった。
「この家の、本当の娘は、真澄だ」
泉はそう言って、意味のつかめない私にぽつりぽつりと、搾り出すように説明をした。
両親が特に話さなかったので知らなかったけれど、泉はこの家の実子ではないのだそうだ。物心ついたときは施設にいて、3歳の頃に今の両親にひきとられたらしい。泉は初めて出来た自分だけの両親が嬉しくて、家族の温かさを、とても大切に、絶対に手放したくないと思ったという。
泉はとても幸せだった。だけど、一つだけ懸念があった。
両親が時々話してくれる、小さい頃に誘拐されてしまった実の娘の話。『泉』というのはその子供につける名前だったはずで、だから同じ名前の泉を引き取ったらしい。
「その本来『泉』だったはずの子が、真澄だ」
私の反応を恐れるように、泉は続けざまに苦々しい口調で言う。
「小さい時からとても不安だった。いつか本当の『泉』がやってきて、俺の居場所を全て奪って行ってしまうんじゃないかって。父さんも母さんも、赤ちゃんの真澄の写真をきちんと飾っていて、とても愛しているという事が分かって。だから、俺は不安だった。……そして、その不安はあたったんだ。7歳の時、真澄は帰ってきた。俺は怖かった。今にもお前が俺に出て行けって言うんじゃないかと思って怖かった。怖くて、妬ましかった。こいつが今に俺の持っている物を全部奪って行くんだって考えたら、とても憎らしかった。だから、お前をいじめた」
憎らしさを全てぶつけるように。
もしかしたら、嫌な思いをたくさんすれば、私がこの家を出て行くかもしれないとも思ったのかもしれない。
私は、呆然とその言葉を聞いていた。泉に握られていた手が、ゆっくりほどかれる。
「母さんたちは、お前を刺激しないように、本当の事を言っていないんだ。だから、この家の本当の子供は、真澄なんだ」
部屋に閉じこもりきりだった私を心配して、母がやってきて。そこで私は詳しい事情を聞いた。
私は、まだ物心つかないうちに、母が少し目を離した隙に、ベビーカーから誘拐されてしまったのだという。身代金の要求などもなかったから、警察に届けても、いくら探しても見付からなかったらしい。
3年ほど経ってから、両親はとうとう諦めて、いるはずだった子供と同じ名前の養子を貰う事にした。それが、泉だ。だけどそれから3年経ったある日、突然一通の手紙が届く。その手紙の主は自分が誘拐犯であった事、余命を知らされて先が長くない命だけれど、天涯孤独で1人で死んでいく事が耐えられなくて、以前から欲しいと思っていた子供を出来心で攫ってしまった事などが書かれていたそうだ。
『本当に、偶然。ベビーカーの中を覗き込んでみたら、赤ちゃんがにこっと笑いました。それが嬉しくて、手を差し出してみたら、私の指をぎゅっと握りました。
それがとてもいとおしくて、離せなくなってしまいました』
そして、そこには幼少期からの成長段階が写っている大量の私の写真が同封されていたらしい。
子供をお返しします。本当にごめんなさい。
見せてもらった手紙は、そうしめられていた。
両親は、何度も私に本当の事を言おうか迷ったらしい。でも、この家にきたばかりの私はとても混乱していて、しかも母親が亡くなったショックから立ち直っていなかったからと先延ばしにして。そのうち、どんどん言う機会を失って行ったと言う。
「真澄ちゃんは、あの人を本当の母親だと思って形見の品とかを大切にしているし、それを見たら何にも言えなくなっちゃって……」
母親の声は、涙ぐんでいた。
何を考えて良いか、分からなかった。今まで母と信じていた人は偽者で、しかも誘拐犯で、実際は目の前にいる人が本当の母親だと言う。
でも「真澄ちゃん、泉を許してやってね」と涙ながらに言う人は、どう見ても私よりも泉の母親という感じだ。
泉は何を拘っていたのだろう。今更私にそんな事を教えてどうしようと言うのだろう。
この年になって、今更目の前の人が本当のお母さんだよと言われて、この家庭が本当の自分の家だったんだと言われて、素直に頷けるわけがない。私はずっと、自分が養女であると言う事をどこかで意識しながら暮らしていた。お母さんもお父さんも、家族だけどどこか他人という線引きを、心の中で行っていた。その認識を、今更変えられるものでもない。
翌日になっても、私は部屋に引きこもりを続けていた。簡単に頭の中が整理できなくて、家族の誰の顔も見たくなかった。放っておいて欲しかった。
「真澄」
唐突に、ドアの向こうから泉の声がした。今まで聞いた事のない、弱々しい声。とても苦しそうな、声。
―――そういえば、付き合っていた時も、時々泉は私に複雑な目を向けていた。
ふとした拍子に、哀しいような、懊悩するような、複雑な瞳をしていた。それには、こんな理由があったのだ。泉は、罪悪感にかられていたのだろうか。
私はただ無言で、続きを待つ。
「家は、俺が出て行こうと思っている。だから、俺が高校を卒業するまで待ってくれないか?そうしたら、今度は、本当の家族だけで暮らせるから」
私が言ったのとまったく同じような事を、泉は言う。
「……今更、そんなの無理」
一日中かかって、ヒステリー状態からはなんとか落ち着いた。それでもまだ泉の顔は見たくなくて、ドア越しに憎しみを込めた声をぶつける。
「もう、手遅れなの。この年になって、今更ホントの家族でした、なんて言われても、そんな簡単に切り替えられるわけないじゃない。私の中であの人たちは養母と養父って認識付けられちゃってる。あんたは、私の家族を奪ったの」
呪詛のような言葉。罪を認識している泉をさらに追い詰める、恨みの言葉。
泉は言葉に詰まったようだった。沈黙した。
だから、てっきりそのまま去ったかと思っていたのに、長い沈黙の後に、また声が聞こえた。
「それは違うと思う。血の繋がりって、とても明確で、確固としたものだと思う。だから、俺は真澄が妬ましかったんだから……俺はずっと、その血の繋がりのような、自分がこの人たちの家族だって胸を張って言えるような、明確な証が欲しかったんだから」
その言葉は、本当に、真剣だった。普段の皮肉屋な泉からは考えられないほど、とても真剣だった。
そういえば。私には母が……本当は誘拐犯だったらしいけど、それでも慈しんでくれる母がいたけれど。泉はここに引き取られる前は施設に居た、と言った。本当の家族を持っていなかったのだろう。
そこに思い至って、癪だと思いながらも、反論を失った。だとしたら、泉の言葉はとても切実なものだったから。
泉は更に話した。
「嫌われついでだから、もう一つの事も懺悔する。……きっと、また俺を、殴りたくなると思うけど」
意を決したように、泉は言った。
―――何、まだ何かあるの?
眉をひそめた私は、部屋の中で、息を詰めて泉の言葉に耳を澄ました。
「俺が、お前と付き合った理由は好きだったからじゃない。本当のこの家の家族になりたかったからだ」
泉の告白は、もはや笑えるくらい呆れたものだった。いや、笑えないけど。
ある程度の年齢に達して、私をいびり倒すのを自重しても、泉は私を憎らしいと思っていたらしい。それは、私も知っている。私に向けていたあの敵意のこもった視線を思い出せば、そうでない方がおかしいというものだ。
泉がその意識を変えたのは、思春期と呼ばれる時期になって、周囲が段々と色気づいた頃だった。
これは泉の自惚れではなく、泉はもてた。それは私の認めるところでもあった。見た目だって悪くはないし、当時からどことなく大人っぽくて、私以外の女の子には比較的気さくで優しかった。おまけにガリ勉のくせにそれを微塵も外に見せないから、頭も良い秀才、という事になっていた。もてないはずがなかった。
数人の女の子に告白されて、じぶんがもてる事に気付いた泉は、ある計画を思いついたのだ。
私が、姉である真澄が、自分に惚れていつか結婚すれば、この家族は自分のものになる。
本当に、馬鹿らしくて笑ってしまうようなお粗末な事を、泉は本気で考えたらしい。
泉の態度の軟化は、その計画が元だったのだ。憎しみをうまく抑えて、私に惚れさせようと試行錯誤して。心の中で私を憎悪していながら、私と付き合っていたのだ。
呆れてしまう。
泉の幼くて愚かな計画にも、それを疑いもせずまんまと泉の計画に嵌ってしまった自分のおめでたさにも。
私は、泉が私の事も好きでいてくれていると、ずっと思っていた。恋愛をしているつもりで、とてもとても、幸せだったのに。
惨めだ。こんな男にまんまと騙された自分は、とてつもなく惨めだ。人間不信のどん底に陥りそうだ。
泉がその向こうに立つはずのドアを私は睨む。
「……今更そんな事を告白してなにがしたいの?懺悔?私が許すとでも思ってるの?」
発した声は自分でもわかるくらい、とても低く、冷たいものだった。
「思ってない。お前は俺をとても憎く思うと思ってる。だから、追い出せよ。俺が一番恐れたのは、家族を失う事だ。それを実行しろ。お前がこの家に残って、俺がこの家を出ればそれが叶うんだ」
冷静な声だった。冷静?否。何もかもを諦めた声だった。
泉はこの家に来てから、身内にどんな孤独を抱えていたのだろう。それは、私が常に抱えていた遠慮と疎外感と、違うものだろうか?同じものだろうか?もっと、深くて暗いものだろうか?
両親には従順な泉。親に言われなくてもがり勉をして良い成績をとって、問題など一度も起こした事もなくて。いつもいつも、必至に無理をして来たのだろうか。心を休める暇もなく、両親に背を向けられる事はないかと恐怖を感じながら。
なんという健気さ。なんという、愚かさ。
あらん限りの言葉を使って罵倒してやりたい。だけど、あまりの哀れさに、その言葉も失う。
だから。
「泉、私が家を出て行くよ」
そうとだけ、答えた。それが出来るだけの最大の譲歩だった。
ギクシャクしたままでも、受験生の月日はすぐに経ち、私は無事大学に合格し、家を出た。
両親はとても寂しそうな顔で、休みには戻って来なさいと言って笑った。きっと、この人たちは分かっている。泉よりも悟っている。私が今更もう、本当の娘にはなれないことに。自分たちの本当の息子は、泉しかいない事に。
泉は最後まで私を引き止めたそうにしていたけれど、あの告白を聞いてから、私が徹底的に避け、無視をし続けたので、あれ以来会話は殆どしなかった。
1年後。夏休みを過ぎた頃からぼちぼち帰省できる心の余裕が生まれ始めた私は、春休みを利用した帰省で家に帰った時に、泉がこの家を出た事を初めて聞かされた。
自分はこの家にいる資格はないから、と。いつか金をためて今まで自分にかかったお金はすべて返す。学費や生活費の援助は一切要らない。
泉はそう言ったと、母親は寂しそうに微笑んだ。
「うちには二人子供がいたのに、私たちが臆病だったために、二人とも去ってしまったわ」
「臆病?」
「うん。真澄ちゃんにホントの事を言って、あっちの方のお母さんが良かったって泣かれたらどうしようって思って言い出せなくて、泉にはギクシャクするのが嫌で養子の話とか、大切な話には極力触れないようにして、あの子がそれについて悩んでいたなんで気付かないで。こんなことになるなら、どんなに気まずくなったって言いたい事、みんな言える位話し合うべきだったのにね」
私は私で養女であることに引け目を感じていて。泉は泉で養子である事に引け目を感じていて。両親は両親で、私が本当の娘である事に、泉が養子である事に引け目を感じていた。表面上で仲良くしていても、みんなお互いに、一線を引いてしまっていた。
人とはなんて、ややこしいのだろう。みんなが思っている事を口に出せば、もっと良い関係がつくれたかもしれないのに。お互いの弱さが、こんな結果を生んでしまった。
私は溜息をつく代わりに、湯気の立つ紅茶を一口飲んだ。
その時に、場違いなほどけたたましく、家の電話が鳴った。
「突然呼び出してごめんなさい。先輩が戻って来てるって聞いて、いてもたってもいられなくて」
ざわめく喫茶店の中、梓はそう言って少し窺うように私を見た。私は内心の複雑な心を押し殺して、いいのよ、と微笑を作る。
「それで、話って何?」
「はい、あの。泉君の事です」
一番触れられたくない事に、ピンポイントで触れてくるのには脱帽の至り。私が咄嗟に返事を出来ないでいるのに、梓は勝手に言葉を続けていく。
「真澄先輩が、泉君とホントの姉弟じゃないって、私知ってました。泉君が、私と付き合う時に教えてくれたんです。自分はお姉さんの真澄先輩の事が好きで、忘れられないんだけど、それでもいいか?って」
「は?」
思わず目をむいた私の目の前で、梓はふふ、と笑った。
「私は、それでも泉君の事が好きだったから、良いよって言ったんです。ホントはすぐに私の方向かせてやるって思ってたのに、半年で駄目になっちゃいました。やっぱり真澄先輩が忘れられないってふられちゃって。……泉君、何度も謝ってきて」
しんみりとした口調ではない。もう本当に、思い出を話す口調。梓は完全に吹っ切っているのだろう。
「でも、真澄先輩は卒業したら家を出ちゃったし、泉君、いつも塞ぎこんじゃってて、だから私、今度は友達として相談に乗るよって言ったんだけど、どうしても言えないって。それで、今度はあんなに大切にしてた家族おいて自分も家を出ちゃったから、多分、家の中で何かあったんだろうなって。あったなら、真澄先輩が原因なんだろうなって」
責める口調ではない。問い詰める口調でもない。
ただ、梓はまっすぐに私を見ていた。目を逸らせない程真っ直ぐに。
「だから、私が口出しする事じゃないと思ったんですけど、一言だけ言わせて貰いに来ました」
何を言われるのか想像もつかなくて、ただ呆けた顔で梓を見つめていた私に、梓は力強く言う。
「泉君は、先輩をすごく好きだったんですよ。……いえ、多分今も好きなんです。すごく好きで、大切に思っているんです」
それだけ、言いに来ました。
そう言って、梓は伝票をぴらりと掴んで席を立つ。
「これ、払っておきますね」
にっこり笑って、去って行った。
泉の住居は、ひどく寂れた場所だった。駅からも離れていて利便性にも欠いているし、見たくれも、お世辞にも素敵とは言えないアパート。
歩くたびカンカンと音の鳴る錆びかけた階段を登って『吉住』と表札の出ているドアの前に立つ。
ビー、と音の鳴る昔懐かしいチャイムを押すと少しして「はい?」と声が聞こえた。それと同時に開くドア。
1年ぶりの見慣れた顔が、一瞬呆けて、それから驚きに変わる様をじっくり眺める余裕はあった。1年は短いようで長い。自分の中で、それなりに整理できる期間ではあったのかもしれない。
「……真澄?」
当惑したような泉の声。
それに向かって、開口一番、一番気になっていた事をぶつける。
「私を好きだったって、ホント?」
その言葉を聞いた時、一瞬怪訝そうになった顔が、言葉を理解して目を見開いて、それから本当に珍しいことに、赤く染まって行った。
「誰がそんな事……」
ふい、と目を逸らして、少し焦ったように言いかける。
「梓ちゃん」
「しかいないだろうな」
「それで?質問の答えは?」
再度問いかけると、泉は大きく息を吐いて観念したように言う。
「……YES、だ」
そうでなかったら、罪悪感なんて感じないで、お前と別れたりしなかった。
泉は悔しそうに、言い訳のようにそんな事を呟いた。
その言い方が本当に子供っぽかったので、私は思わずふきだしてしまった。
―――私、こんな単純な生き物だったのかしら。
心が急に軽くなったような気がして、私は考える。
好きだと言われただけで、あんな風に酷い事をされたのに、あの不器用さが、弱さが、愚かしさが、いとおしいと思ってしまう自分が確かにいることに、呆れてしまう。その気持ちが、恨みも憎しみも凌駕してしまいそうな自分に、とても呆れてしまう。
でも、私は確かに、本当に泉を好きだったのだ。振られても半年間も諦められない程、好きだった。いとおしかった。憎しみが生まれても、不信が生まれても、その気持ちもまた事実だったのだから。
だから。
―――許せるかも、しれない。
泉がした事は、酷い事だけど、そのせいで泉も充分苦しんだ。
苦しんで、悩んで、最後に自分が悪役になってでも自分の一番大切なものである家族を、私に返してくれようとしたのだ。その不器用さが、いとおしい。
「……ったく、いつまで笑ってんだよ」
不貞腐れたような泉に向かって、私は言う。
「そうだよね。自分でも意外。よっぽど、嬉しかったんだろうね」
「は?」
怪訝な顔をする泉を見据えて、私は言う。
「今でも、泉の事が好きだから」
泉の瞳が大きく見開かれる。
そこに、初めて見る涙が浮かび上がったので、私は微笑んで腕を伸ばす。
私が抱きしめるよりも早く、泉の手が、強く私の体を縛り付けた。