泣き虫王子♀と我が儘姫♂
うちの学校には、『姫』がいる。
それはそれは麗しい、傾国の美姫。ぱっちりとした目鼻立ちは人形のよう。きめの細かい雪肌に、ほんのりと紅く色づいた頬。長いまつ毛はくるりと上を向いて、飴細工のような瞳を彩る。
その名も『綾姫』。まんま、絵本から飛びだしてきたような、だれもが見惚れるお姫さまだ。その美貌のまえでは、どんな男も骨抜きだろう。
――その性別が、男でさえなければ。
「なぁに見てんの、ホッスィ」
うえからのしかかってきた親友につぶされて、グギャ、とのどが鳴る。
「ぎゃっはは! ホッスィ変な声ー」
「うるさい、あんたの笑い声よりかはマシだ」
ひでぇひでぇ。気のない声でつぶやきながら、親友――蓮見汀は身を起こした。重さから解放されて、ほっと息をつく。
「で、ホッスィの熱視線はどなたのもの?」
「なんでもいいけどそのふざけた呼びかたやめてよ」
「いいじゃん、ホッスィ。いけずぅ」
「だまれ下郎」
「はいはい王子様。好みの姫は見つかりまして?」
「蓮見ほんとやめて!」
悲鳴のような声をあげた私に、蓮見はケラケラと大口を開けて笑う。
「いいじゃないの旺子。星野旺子なんてフルネーム、そうそうお目見えできるもんじゃないよ。いやあ、リアル星の王子さま。DQNネームどころのさわぎじゃないね」
「いーやーだー」
もうやだ泣きたい。こんな名前をつけた父はどうかしてるんだ。学のない……というよりかおバカな父親が、かの名作を読んだかは知らない。ただ話を聞くに、どうも意図せずしてつけられたらしいこの名前に、私は煮え湯をのまされてきた。
王子さまだなんて、箸がころがっても笑う年頃の子どもには格好のネタだ。カービィとあだ名されないだけまだましか。でも、いつだったかバオバブとは呼ばれた。よりにもよって、なんで樹木。背か。むだに背が高いからか。
机につっぷして、ぐずぐずとわめく。にじみ出した涙で袖は濡れている。ああ、もう泣いてた。生まれつき涙腺がゆるくて嫌になる。
「まあまあ、ホッスィ落ちついて」
「それもいやだー」
「まあ。わがままな王子さまだこと」
「蓮見ぃー!」
断末魔にも似た私の叫びをさらりと無視して、蓮見は窓の外へ視線を投げる。
「あら、綾姫じゃないの」
遮光フィルムの貼られたガラスの向こうに、グラウンドでサッカーに興じる一団の姿。午後一番の授業が体育だから、早めに集合して遊んでるんだろう。毎週見かける。
そのなかでもひときわ目立つ、線の細い色白の麗人。ゴール手前で退屈そうに土を蹴る姿さえ美しい。
サボっているわけではない。本人にやる気はあるらしいのだが、怪我をされては大変と周囲が走らせないのだ。当然、彼のもとにボールがくることはまずない。
愛くるしい面立ちは心なしか不満そう。ただ、わかって欲しい。いじめられているわけではもちろんない。溺愛されているのだ。
なんでそんなに詳しいのかって? 熱烈なファンだからに決まっているじゃないか。全校生徒の八割はそうだ。なにを隠そう、さっきまで私も彼を凝視していた。目の保養。目の保養。
「ああしてジャージ着てるとこ見ると、どうしたって男とは思えないわよねえ。クリックリッの瞳しちゃって、本当にあれで男子高校生? むささのカケラもないあたりおそろしいわ」
「そうだね美人だね麗しいね」
「……あんた本当に大丈夫?」
あきれ混じりに蓮見が問う。大丈夫か大丈夫じゃないかだったら、大丈夫じゃないに決まっている。生まれたときから。
幼い日から浴びせられてきた、無数の笑い声。からかい。あざけり。……ああ、思い出したらまた泣けてきた。
「綾女くんみたいな美人ならいいさ。でも、私が王子って! しかも星野って! さむいわ馬鹿野郎」
「綾女はどう見たって姫よ。王子じゃない」
「いや、意外と上背あるし性別考えたら……って、そこはどうでもいいんじゃー!」
むぎゃあ! と紛糾した私は勢いよく席を立――とうとしたら、ガツンと膝に衝撃。そのまま椅子に逆もどり。天板の裏に叩きつけられた足が痛い。視界が霞んだ。
「うう……」
「はい、旺子」
蓮見が差しだしてくれたハンドタオルで目を押さえる。このあたりの対応の素早さはさすが親友。手慣れている。
「だいたい気にしすぎなのよ、あんた。星野も旺子も、音だけ聞けば普通の名前だし、当て字でもない。由来だってちゃんとしてる。……ただ、ちょっと字面が変わってるだけで」
「その字面が問題なんだよ!」
「考えてみなさいよ。姫なんて、もっと悲惨よ? 綾女臣だなんて、神がかり的な名前だわ。それに加えてあの容姿だもの」
ちらり、と再びグラウンドに目を送る蓮見。その視線の先には麗しの姫君。
サラサラストレートの髪に日光が降りそそいで、浮かびあがる天使の輪。まばゆいばかりのキューティクル。ミルクティブラウンの甘い髪色は、お菓子のようにおいしそう。
これ以上ないくらい似合ってて可愛らしいから学校側もおとがめなし――とか、そういうわけではもちろんなくて。祖母の血筋の関係だそうだ。
祖母の血筋の関係! そのワンフレーズだけでなんだか別世界を感じてしまう。とんだお嬢さま。じゃなかったお坊ちゃま。
「綾女くん可愛いよ綾女くん」
うっそりとつぶやいた私に、蓮見はドン引きした目をした。
「あんたね……」
「美しいものを愛でてなにが悪い」
「かまわんよ、変態性さえにじみ出さなければね」
16歳の乙女をつかまえて、なんと失礼な。憤慨して鼻を鳴らした私に、蓮見は肩をすくめた。
……こいつ、完全に馬鹿にしてやがる。
「なぜ綾女くんの可愛さがわからないんだ」
「そこはわかってるわよ。並の女じゃ敵わないどころか、足下にも及ばないレベルでしょう、綾姫は」
「だったら……!」
スッと差しだしたるは、『麗しき綾姫を影からひっそりと見守り隊』略して『見守り隊』の入会書。ちなみに私は次期副隊長ポジションにいる。集会にかかさず参加してきたかいあってのことだ。
「入らないわよ」
一刀両断。蓮見は、取りつく島もなく言い放った。くそう。二年の女子で参加してないのは、あと蓮見と水島さん、それから綾女くんの従姉妹である久遠ちゃんだけだっていうのに。
水島さんは筋金入りの男嫌いだからしょうがない。いくら姫の美しさが性別を超えるとはいえ、アレルギーまでは防げない。
久遠ちゃんは――。いや、久遠ちゃんはいいんだ。あの子は天使。私の天使。だから勧誘しない。
「顔、きもちわるいことになってんぞ☆」
「おい、蓮見。語尾に星つけたってごまかされないからな……私だって傷つくんだからなあ……!」
「あら? 事実を言ったまでよ。変態王子」
「うわあああ」
ぐしゃり、と机の上に再び潰れる。涙の跡がシミ模様になっているこの席は、もはや私専用だ。べつにわざとつけたわけじゃないけど。貧弱な涙腺が悪いんだ。
涙目で見下ろしたグラウンドでは、まだ綾女くんのクラスがサッカーをしていた。おなじ学年だから知った顔もちらほらいるけど、正直むさい外野はどうでもいい。
姫だ、姫。可愛いは正義。イケメンより美女。さあ、傷ついた私に目の保養を――。
窓ごしに、グラウンドを凝視する。退屈を持てあました、麗しの姫君。柔らかな頭髪に包まれた後頭部を見つめていると、芸術的な曲線を描くあごが、不意に持ちあがる。
顔の角度がかわって、上を向いた綾姫の飴色の瞳が、またたいた。
途端。がたり、と勢いよく席を立ちあがる。
「う、うわああ!」
一刻前とはまるでテンションの異なった奇声をあげて、窓際から飛びのく。口もとを手で抑えて震える私を、蓮見がキョトンとした顔で見つめた。
「なに、急にどうしたん?」
「あ、あ、あ……」
「旺子?」
「綾女くんと目があったァああああ!」
歓喜の雄たけびをあげた私を、蓮見は机に叩きつけた。無造作に振りおろされたこぶしの破壊力は、誰よりも身をもって知っている。くそ、大魔王め……!
「落ちつけ変質者」
蓮見は、すっかりあきれ顔。
辛辣な言葉が耳に痛い? いんや、まさか。いまさらその程度で砕けるガラスハートは持っておらんのだよ。視界はぐちゃぐちゃだがな。
上体を机にあずけたまま、フルフルと震えつづけていた私は、ふたたびガバリと身を起こして叫んだ。
「これが落ちついていられるかぁあ!」
瞳いっぱいに広がっていた雫が、あふれてほほを伝った。これは、歓喜だ。歓喜の涙だ。
アツい想いをかみしめながら、ぐっとこぶしを突きあげる。ほとばしるリビドーを全身全霊であらわして、ガッツポーズ。そして、咆哮する。
「くぁああ! 綾姫まじ天使」
「あんた久遠にも同じこと言ってるじゃない」
「天使の血族なんだよ、つまり!」
「真顔でなにいってんだこいつ」
さすがにドン引きどころじゃない勢いで、蓮見が身を引いた。わざとらしく両腕をさすりながら、一歩ニ歩と後退していく。
薄情な親友に鼻を鳴らして、私は窓へ歩み寄った。
これで友達やめてないんだから、蓮見も大概変なヤツである。お互い慣れたということか。
蓮見は、なんだかんだいって、私が泣きだせばすぐさまタオルを差しだしてくれるいい友なのだ。……原因もほぼ蓮見だが。
考えたら虚しくなって、また泣きそうになった。きっと、眼は真っ赤に充血してる。普段はここまで大泣きしないんだけど、今日は特別涙腺がゆるい。
窓ガラスに、泣きはらした顔の自分自身が映っていた。
ひょろりと背が高くて、痩せぎすで、冴えない凡人顔。美人だなんて口が裂けても言えないし、まして王子様な要素なんてどこにもない。
髪型はいつもショートカット。「ロンゲ王子」ってからかわれて以来、伸ばすのが怖くなった。ずいぶん、昔の話だ。
自分でも、紙メンタルが情けないとは思うけど、トラウマだらけでどうにも身動きがとれない。なにもかも、こんなふざけた名前のせい。
――責任転嫁でもしないと、また泣いてしまいそうだった。
ふと、もう一度視線をグラウンドに落とす。
どきり、と胸がはねた。
綾女臣は、まだこちらを見上げていた。
「うそ……」
見られている。今度は気のせいじゃない。まちがいなく、飴色の美しい瞳が、2年5組の教室へ。その、後ろからふたつ目の窓へ。……私へと、向けられている。
ぞくり、と喩えようもない高揚感が襲ってくる。魔性の瞳にとらわれて、鳥肌が立つかと思った。流れかけていた涙さえひっこんで、ぼうぜんと突っ立つ。
いままで、自分でもストーカーじみてると思うくらい、綾女臣を見つめてきた。真正面から向きあう勇気もなくて、でも、憧れで。
羨望と憧憬とすこしの嫉妬。声をかけることもせずに、うずまく感情を押し隠して、ただ見つめていた。『見守り隊』なんていうのも、ただの口実だ。
ずっと、見てきた。
でもこんなこと、一度もなかった。愛想がいいようでいて、その実、他人をつきはなしている。綾女臣は、そういう人間だった。
くるくると表情を変える飴色の瞳は、そのすべてが作りもののように美しい。求められるままに、可憐な姫を演じている。
見てきたからこそ、わかる。
本当の彼が、どんな人間かなんて、誰も知らない。
綾女臣は、誰のことも対等に見ていない。芸術品のような笑みを咲かせるその裏で、せせら笑っているのか。それとも、無感動に眺めているのか。
だから、目が合うなんてこと、ありえない。
サッカーに興じる男子生徒たちは、ちょうど向こうのゴール付近で攻防をくりひろげていて、姫を見ていない。キーパーだって視線があっちに釘づけだ。
そのなかで、高く視線を投げる綾女臣は、どこか異質だった。飴色の瞳は、逸らされることなく、二階を見上げつづけている。
「……旺子?」
いぶかしげな蓮見の声が、背中につきささる。
とつぜん、借りてきた猫のようにおとなしくなった私に、困惑しているのだろう。
だけど、答えられなかった。
眼が、そらせない。白樺の肌にうかぶ、飴細工の瞳。ミルクティーブラウンのショートボブ。整った鼻梁に、優美な曲線を描いた眉。
非のつけどころのない美女が、無表情に私を映す。
いいしれない威圧感。圧倒されるような、強烈な存在感。完全に身がすくんでいた。逃げだしてしまいたくて、でも、身体の自由が効かない。
呑まれていた。視線だけで、主導権を軽々と奪われていた。せめて窓際から離れたいのに、凍りついたように指先が窓ガラスに固定されている。
怖い。
不意に、そう思った。
綾女臣が、怖い。全身が細かく震えだす。見るな。こっちを見るな。ファンにまぎれて影から見つめているだけの一般市民を、威圧してくれるな。
「っ……」
かみしめた奥歯が鳴る。歯列のあいだから、息が漏れたような声が出た。言葉にすらならない。思考が恐怖一色に染まる。
ガラスに置いた手に、無理やり力をこめる。せめて上体だけでも引き離そうと、腕を力ませて、突っぱねる。
だけど、動かない。縫いとめられたように、身体が言うことをきかない。
一度はおさまっていた涙が、ふたたびこみ上げてくる。
怖い。怖い。怖い。
――もう、嫌だ。
透明な雫がほほを伝った。止まらない。次々に流れだしてくる。予告なく、しゃくりあげだした私に、蓮見がギョッとした。
「ちょっと、旺子! どうしたの一体」
「く、ふ……ぅう……」
慌てる蓮見に答える余裕もない。ぐしゃぐしゃの顔で、窓ガラスにすがるように、泣きじゃくった。
そんな私の姿を、綾女臣は静かに見つめつづけていた。視線は、まだそれない。
桜色の扇情的な唇が、にぃ、とつり上がる。笑っていた。艶やかな笑みだ。繊細な美貌の下半分だけを歪めて、愉悦を見せつけてくる。
ひっ、と喉がなった。
理由はわからないが、完全に綾女臣にロックオンされている。
全身の震えが止まらない。
決死の思いで踵を引いたとき、始業の鐘がなった。
キィーンコォーンカァーンコォーン。なんとなく間延びした独特の響きに、混乱していた頭がすこしだけ戻る。
恐怖をなだめて、もう一度、グラウンドを見下ろす。
「あ……」
綾女臣は、もうこちらを見てはいなかった。駆けよってきたクラスメイトとともに、体育教師のもとへと走っていく。
華奢な背中を見つめて、私はホッと息をついた。身体中から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。
「旺子!」
いつになく慌てた蓮見に支えられて、なんとか倒れこまずにはすんだ。くそう、ホントにいいヤツだな。
痺れるような甘い余韻。心臓だけがいまだにバクバクと脈打って、もうなにがなんだかわからない。
綾女臣。まちがいなく、この学校で一番麗しい男の子。王子という名前も、彼にならきっとよく似合う。
どうして、私に……?
気のせいだ。すべて、気のせいだと思いたい。だけど。
あの飴色の双眸は、どう考えたって私を見ていた。そして、笑った。花開くような淑女の笑みではもちろんない。あんな顔、はじめて、見た。
「旺子、あんた顔色悪いよ」
寄りそう蓮見の声が、どこか遠くで響いていた。目に映るすべてが、ふわふわとして現実味がない。
綾女臣。綾女臣。綾女臣。頭のなかはお姫さまの姿でいっぱいだ。いいや、あれは姫なんかじゃない。見た目はそりゃあ天下一品の美姫だけれど、中身は。
震える身体をかき抱いて、縮こまる。床に座りこんだまま、もっと、もっと、小さく。グラウンドから見えない影で。
ガラリと、教室の戸が開く。
「悪いな、すこし遅れた。授業始めるぞー」
中年の声が響いて、のっそりと我らが担任、岡モッちゃんの姿が現れた。
小太りで、穏やかな顔つきをした岡モッちゃんは、全体的な雰囲気が熊に似ている。生徒間では、「あの熊みたいな人」で一発で話が通るほどだ。
いつも通り、だるそうな足どりで教壇に立った岡モッちゃんは、窓際で座りこむ私たちにギョッと目をみはった。
「星野、蓮見、どうした?」
「岡本先生。旺子が調子悪いみたいなので、保健室つれていって構いませんか」
立ちあがった蓮見が、きっぱりと言いはなつ。頼りになるな、親友よ。だけどせめて、語尾は疑問形にしたってよかったんじゃないか。
あんまりにも堂々としているもんだから、岡モッちゃんのほうが戸惑っている。
「いいよ、蓮見。なんでもないから」
「大泣きしといてなに言ってんの。先生、じゃあ私、つき添いしてきますので」
「おう。それは構わんが、星野……お前大丈夫か? 顔……」
ひどいことになっている、とはさすがに言いづらかったのか、語尾がごにょごにょとごまかされる。わかってるからハッキリ言っていいよ、岡モッちゃん。
ガックリと肩を落とした私のわきに、蓮見の腕が入る。ぐい、と持ちあげられるようにして身体が引き起こされた。
そのままの流れで、二人三脚、じゃなかった、肩を貸された体勢まで移る。
「は、蓮見?」
「ちょっと暴れなさんな。おとなしくしてなさい」
「いや、私、自分で歩けるから!」
蓮見より私のほうが身長でかいもんだから、なんともアンバランスな見た目である。蓮見は、なんというか……平均身長よりちいさいのだ。
本人に聞かれると殺されるから、誰も口にだして言わないけど。
決死の抗議は黙殺され、あえなく保健室へ連行されることに。ひきずられるように教室を後にして、のろのろと階段を降りる。
まあ、いいか。ラッキーだと思って、一時限サボらせてもらおう。保健室で寝られるっていうのは、べつに悪い話じゃない。テスト前の切羽詰まった時期でもないし。
「なに、にへにへしてんの」
「えへへー。なんでもない」
とつぜん、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌に変わった私を、蓮見はきみ悪そうに見ている。それでも手を離さないあたり、親友は優しい。
本気で心配されているのが伝わってきて、なんだかむず痒くもある。いやあ、持つべきものは友である。
だから、蓮見にいわせればお花畑な思考に侵された私は、失念していた。
一般的な保健室は――そして本校もまた例外でなく――グラウンドにほど近い、隣接した場所に設置されていることを。
*****
「で、なんでこうなっているんでしょう」
「なにが?」
爽やかなほほ笑みを咲かせて、姫君がきょとんと首を傾げる。ミルクティブラウンのショートボブが、ふわりと揺れた。
保健室の天井灯が、まるで後光のように降りそそいで、天使のような美貌を際立たせている。真っ正面からとらえた、希少な下からのアングル。
ごくりと、生唾を飲みこんだ。よく干されたふわふわな布団に沈みこんだまま、手さぐりでサイドテーブルを叩く。
やべえ可愛い。なんてサービスショット。カメラ! 携帯! どこ!? こんなシャッターチャンス逃す手は――。
「携帯なら、バッテリー抜いてそこにあるけど? いまどき折りたたみとか、いじってくださいと言わんばかりだよね」
What do you mean?
え、なにいってるのこの子。
あんぐりと口をあけて固まる私。麗しのお姫さまの手中には、見覚えのあるリチウムイオンバッテリーがきらめいて。
「は、い?」
え、それ、私の? 私のだよね? 携帯は……。
ぎしぎしと音がなりそうなペースで首を回すと、ベッドわきの床へ無造作にほうり投げられた屍が目に入る。
暗転した画面は、無情に現実を映した。
What's happen?
え、ていうかそもそもこの現状がなに。そりゃ、ファン垂涎もののシチュエーションだけど。今晩あたり刺されたっておかしくないような。
放課後の保健室。カーテンに遮られたベットの上。起きたら姫とふたりきり。それどんなご褒美ですか。
だけど現実はそうそう甘くない。
「ていうかさあ、あんたってほんと残念。待受、俺なんだ? しかもいつの写真? あれ、一年だろ? ストーカーかっての」
綾女臣が、せせら笑う。想像を軽く超えた黒さでもって、私を圧倒する。姫君の嘲笑はレベルが高すぎて、ちょっとついていけないっす。
「ま、ち受け……?」
「データフォルダのなかも酷いね。ほとんど俺じゃん。専用フォルダ24個とか、月別にあるあたりもう末期。ありえないくらい変態」
一瞬の沈黙のあと、なにを言われているのかを理解した私は絶叫した。
「ノォおぉおおお!」
携帯みられた。あますところなく見られた。私の綾姫コレクションがバレた。いや待ってそこは問題じゃない。そこも問題だけど。でも。
「ああ、それと……個人情報、抜いといたから。誰かに泣きつこうだなんて思わないことだね、星の王子さま?」
耳をおさえて、迷惑そうに綾女臣は言う。まゆをひそめて歪んだ顔ですら美しい。でも言ってることはカケラも美しくない。
これ、脅迫ってヤツですか。
人生初体験の混乱のさなか、口を開けては閉じ、百面相をくり広げる。そんな私を、綾女臣は鼻で笑いとばす。
「まあ、どうせ、信じる人間なんていないだろうけど」
俺って人望あるから。きっぱりはっきり言いきった彼の顔は、まさに学校の姫そのものなのに。
……言動が悪魔にしか見えない。
「あ、あああ、あや、綾女、臣!?」
「呼びすてしてんじゃねーっての。綾女さま、だろ?」
「Why!?」
待って本気でわからない。なんでこうなった。どうしてこうなっちゃったのさ。
思考が追いつかなくて大混乱。涙さえもひっこんで、顔面蒼白。阿鼻叫喚。なんか違う。でも、私、きっと死にそうな顔してる。
たすけて蓮見ぃいいー! いますぐきてくれたら、向こう一ヶ月「おお、神よ」と崇めたてまつる。だから頼む、どうかきてくれ親友よ。
っていうか、先生は?
なんで先生いないのさ。
なんで綾女くんがいるのさ。
なんで、そんな真っ黒なオーラまき散らしてるのさ!
言葉もなく、ガクガクと震える私に、綾女臣はぐっと上体を寄せた。押し退けようと伸ばした腕は、あえなく手首を掴まれてベッドに沈む。
あんまりにもあっけない。抵抗するまもなく拘束されてる。ピクリとも動かない。
圧倒的な力の差に、姫の性別を思いだす。
細いけど華奢なわけじゃない。骨ばった輪郭は、まぎれもなく男のものだ。
姫あつかいされてはいるけれど、もともとどちらかといえば、彼は性別を超越した美人なのだ。美少女顏ってわけでもない。
綾姫を綾姫たらせるもの。それは、『高潔な色気』だ。
……矛盾してる? でも他にあらわせない。気品と艶の絶妙なバランスが、ひどく魅惑的なのだ。歌舞伎の女形なんか、きっとピッタリだろう。
壮絶に黒いオーラを放ってるいまは、いささか艶に軍配があがっているけど――って、近い近い近い!
間近にせまった甘いマスク。
飴色の瞳がきらめいて、桜色の唇がつりあがる。
あの、妙に手慣れてる気さえするんですが、そのあたりどうなの綾女くん。……いや考えちゃいけない。
「なあんだ、泣かないの?」
クッと喉を鳴らして笑う、綾女臣。
――喉仏。あたり前だけど、この美女は男なのだ。
声さえも中性的だから、きっと近づかなければ性別を意識することもない。そういう次元の、美人だった。
だから、憧れていた。
だから、焦がれていた。
「あんたの泣き顔、結構イイと思ったんだけど。ザァンネン」
頭が真っ白になる。
おそろしいほどの艶をまとって笑う、彼は誰だ。
近づこうなんて思ったことなかった。綾女臣の本質なんか、知らないままでよかった。
理想を押しつけられていることをわかった上で、そのすべてに応えてみせる姫君に、憧れていた。羨ましかった。
遠くからひっそりと見守って、あわよくば写真におさめて。ゆがんだ偶像崇拝だってわかってたけど、それでも綾姫は私の天使だった。
ただ、それだけだったのに。
「泣けよ。ぐっちゃぐちゃの顔してさ、ほら」
「いっ……!」
「視線そらすんじゃねーっての」
手首をつかむ綾女臣の手に、力がこめられる。えぐるように爪がつきたてられて、まぶたの奥に火花が散った。痛い。
かたく目をつぶって、歯を食いしばる。
なにこの状況。痛い痛い痛い。骨はギシギシいってるし、爪痕は確実に傷になるレベルだ。
悲鳴をあげたくても、喉がひきつって声がでない。そもそもこんな状況、見つかって困るのは下手したら私のほうだ。
綾女臣の言うとおり。信憑性が違う。学校の姫とその熱烈なファン。姫がファンをいたぶってました、なんて誰が信じる?
――信じるわきゃあないよなそりゃあ!
麻痺していた感覚も、強制的に呼びおこされて、いまさら思考を恐怖一色が彩る。どうにもならない現状が、じわじわクる。
まぶたの裏が濡れた。
微かにひらいた隙間から、自分を拘束する男を見上げた。
下半身は布団がからまって動かせない。上半身は綾女臣にとらえられている。完璧にうごきを封じられた。
それだけじゃない。
この、飴色の瞳に射すくめられると、抵抗するという考え自体が吹きとんでしまう。抗うだけむだだと、思いしらされる。
支配者の、目だった。
「あ、やめ……くん……」
「俺をみろ。まっすぐ。――隠すな」
赤い舌が顔をのぞかせて、形のいい唇をぺろりと舐める。扇情的なしぐさ。反射で顔に熱がのぼった。
蘭々と輝く瞳。ぱっちりとした二重が、いまは獣のように細められて。長いまつげが、目もとに淫靡な影を落としている。
たおやかな指先は、私の手首をきつく締めあげて離さない。
怖い。
一度堰を切った感情はとどまることを知らず、次々と流れでる涙で視界がボヤけた。
わかるのは、もう、甘い甘い彼の色彩だけ。
綾女臣が、満足げに息をはいて、さらに身を近づける。ゼロ距離まで、あと少し。ミルクティーブラウンのサラサラストレートが、顔の上にかぶさって。
そして、私は――。
オーバーフローした。
「ひぎゅあああああ!」
ボン、と音がたちそうな勢いで赤面した私は、そのままあっけなく意識を飛ばしたのだ。
間近にせまる美麗な顏――アップに耐えうる美女、じゃなくてイケメン――という非現実からの逃避を求めて。貧弱な精神が根をあげた。
薄れる意識のさなかに、綾女臣の声を聞いた。
「なんつー声。……あーあ、もうキャパオーバー? 知恵熱だすの早すぎ。つまんね」
だから、私は知らない。
「星野旺子ね。ま、なかなか面白そうじゃん? しばらくは戯べそうだ――」
彼が、どんな表情でそれを言ったのか。
どんな表情で、私を見ていたのか。
なにも、知らなかったのだ。これから始まる、苦難の日々の幕開けを――。