山の供物
欠けた指は、供物の始まり。
私は人が嫌いだった。
人間関係を築くのが下手で、十年間、会社員としてただ黙々と金を貯め続けた。
都会の喧騒から逃れ、静かな田舎で一人、朽ち果てるように生きる。それだけが、私の望みだった。
いくつもの集落を渡り歩いた。だが、どこでも同じだった。
村人たちの好奇の目、馴れ馴れしい干渉、夜な夜な続く井戸端会議。息が詰まり、また荷物をまとめた。
こうして私は、ますます奥深い山里へと追いやられるようにやってきた。後悔が胸に芽生えたのは、三時間ほど前のことだ。
こんもりとした山の麓に、古びた立て札を見つけた。特殊な文字が描かれている。
民家があるのだろうと思った。私は迷わず登り始めた。しかし、そこに道などなかった。
足を踏み入れた場所が、ただの道となるだけの獣道。地面は厚く積もった腐葉土に覆われ、靴がずぶりと沈み込む。
古木は半ば立ち枯れ、倒れた巨木が道を塞ぎ、這うようにして進まねばならなかった。
木漏れ日すら届かず、湿った暗闇が肌にまとわりつく。やがて、左足の親指に鋭い痛みが走った。靴を脱いでみると、爪が半ば剥がれ、血がにじんでいた。
仕方なく、私はそれを無理やり引き剥がした。痛みに歯を食いしばりながら、再び歩き出す。
どれほど時間が経っただろう。ようやく山を下り、民家に辿り着いた。人嫌いの私でさえ、安堵の息を漏らしたほどだった。
家の家族は、驚くほど温かかった。事情を話すと、村を案内すると言い、夕食まで振る舞ってくれた。
布団まで貸され、私は久しぶりに他人の家で眠りに落ちた。翌朝、目覚めると左足が熱を持っていた。
昨日、爪を剥がしたはずの親指が――なかった。
根元から綺麗にもげ落ち、傷口は不自然に乾いていた。家族の者たちが集まってきた。私は震える声で昨日の出来事を話した。
山に入ったこと、立て札のこと。部屋に重い沈黙が落ちた。
「…あそこには、祟り神が棲むんじゃ」
年配の男が、低い声で言った。
「昔から、生贄を捧げてきた。逃げられぬよう、両足の腱を切り、捧げられた者たちだ。だが、ある生贄が命を惜しみ、山から逃げ出した。
神はその血の味を覚えた。以来、逃げた者の体を、少しずつ食っていく。足から、指から、肉から、最後には丸ごと消える…」
男は私を見下ろした。目は哀れみと諦めが入り混じっていた。
「あの立て札には、立ち入り禁止と書かれていたはずだ。だが、村の者でないお前には、あの文字は読めなかったか。…もう、助からぬ。
お前は山に捧げられた供物と、勘違いされたのだ。神を諭す言葉などない。そもそも、人間が神に道理を説くことなどできぬ」
私は叫び、這いずって逃げようとした。だが、家族の男たちに押さえつけられ、戸板の上に縄で厳しく縛り付けられた。
体は動かせない。傷ついた足だけが、虚空に震えていた。戸板はゆっくりと持ち上げられた。朝の冷たい陽光が、私の顔に落ちる。
「行こうか」
誰かが静かに言った。山道を、ゆっくりと登っていく。足音だけが響く。木々の間から、昨日の腐葉土の匂いが漂ってきた。
私の足の傷口が、じんじんと疼く。遠くで、木々がざわめいた。まるで、待ちかねた何かが、ゆっくりと舌なめずりをするような音だった。
私はもう、動けなかった。ただ、ゆっくりと、山の奥へ、奥へと運ばれていく。
供物として。永遠の飢えを満たすために――
読んで頂き有り難う御座います。




