第5話「はい、言ってみて」(第1章 完)
瑞椛は情けなくも、腰が抜けて動けなくなってしまっていた。藤下に支えてもらい、なんとか移動して公園のベンチへと体を預けた。
「ありがとう、藤下くん」
「いや」
瑞椛はその一言に、いろいろな意味を込めたつもりだった。ただ、藤下にはきっと伝わっていない。
残念なことに、今の瑞椛にはそれを説明する余裕はなかった。なにより、瑞椛にはもうひとつ言わなければならないことがあった。
「あとね、ごめんなさい」
「なんのこと?」
狼のようなものに襲われたにも関わらず、藤下はこれまでと同じような顔をしていた。作り笑顔と無表情の間くらい。きっとこれが基本の顔なのだろう。そして、藤下にとってあの狼は、基本の顔を崩すほどでもなかったと言っているようだった。
「あの、勝手に後をつけて、また助けてもらって。怪我もさせちゃって……してないみたいだけど」
瑞椛は自分でも何を言っているのかわからなかった。藤下と喋る時は考えがまとまらないルールでもあるのかと、疑いたくなるくらいだ。
「さっきも言ったけど、平気だよ」
「えっ、でも」
「それに、助けたつもりもないんだ」
立ったままの藤下は、ベンチに座る瑞椛を見下ろす。隣に腰を下ろす気はなさそうだった。
「何を見たのかは知らないけど、忘れたほうがいい」
「えっ、あの」
「じゃあ、これで」
藤下は瑞椛に向かって軽く手をあげ、そのまま背を向けた。こちらを振り返る様子はなかった。瑞椛の足は、まだ震えが止まらない。
「あっ……」
瑞椛の手は、藤下が着ているブレザーの裾を掴んでいた。このまま藤下とお別れしたくない。伸ばした腕を見て、自分はそう思っていたのだと理解した。
「何?」
基本の顔のまま、藤下は瑞椛へと振り返る。
「あれ、狼みたいに見えた」
「狼?」
「うん、あれは、何? 藤下くんは、誰?」
瑞椛にとって藤下は、遅刻の多いクラスメイトというだけの存在だった。しかし今は、当人に誰かと問いかけてしまいたくなるような、特殊な人間に見えていた。
瑞椛の質問に、藤下は怒りと焦りが混ざったような表情を浮かべた。今日見てきた中で、初めて感情らしい感情を浮かべた顔だった。
「それは……」
言葉を濁す藤下の足元に、一羽の鳥が近付いてきた。今日何度も見かけた、見たことのない種類の青黒い鳥だ。
(あっ、普通の鳥じゃない)
瑞椛はその鳥の足が三本あるのに気が付いた。これもお化けなのだろうと瑞椛は妙に納得してしまう。藤下の反応を見る限り、あの狼のように襲ってくるものではなさそうだ。もしかしたら藤下の仲間なのかもしれない。
瑞椛は、もはやそんなことでは驚かなくなっている自分に、少しだけ面白くなった。
「あれは、危険なんだ」
不意に藤下がぽつりと語り出す。彼から話をしてくれるのは初めてのことだ。瑞椛は恐怖の名残を抱えつつも、胸が高鳴った。
「あれは、認識した人に襲いかかる」
「認識?」
「普通は見えないんだ。たぶん、君がさっき言ってたお化けが見えるっていうのと、俺の近くにいたからっていうのが重なって、認識できてしまったんだと思う」
藤下がこんなに喋るのは意外なことだった。それだけ、瑞椛に正しく伝えるべきと判断したのだろう。
「あれに襲われたら、人間は簡単に死んでしまう」
「……うん」
藤下の言葉には説得力があった。瑞椛はつい先ほど、自分の死を直感したのだ。
納得と同時に、別の疑問が湧き上がる。そんな危険な存在と向かい合っても藤下は平気なのか、怪我はどうなったのか。気になることが多すぎる。
「でも、藤下くんは」
「君は危険に近付かないでほしい。俺にも近付かない方がいい」
瑞椛の言葉を遮るように、藤下は一気に言い捨てた。そのままの勢いで立ち去ろうとしたので、瑞椛は再度制服の裾を掴んだ。さっきよりも強く。
「それは、やだ」
「え?」
少しの間、二人と一羽だけの公園に沈黙が流れた。
藤下の言葉は、途中までは納得できた。具体的には“危険に近付かないでほしい”というあたりまで。ただし、最後の言葉だけは、どうにも納得できなかった。
「あれに近付かないのは、うん、藤下くんの言う通り。私が悪かった。ほんと、ごめんなさい。もう私からは近付かないって約束するし、近いって教えてもらえたらすぐに逃げるよ」
「う、うん」
一度言い出してしまえば、瑞椛の言葉は止まらない。整理されていない感情が、そのまま口から飛び出て行くようだった。
「だからって、藤下くんに近付かないとは別の話でしょ。まだちゃんとお礼もしてないし、謝ってもいないんだよ。すっごくわがままなのはわかってるけど、だめ。やだ」
「ええと……」
藤下の顔は、大変わかりやすく困惑していた。さっきまでの基本の顔は、もうどこにも見当たらなかった。
「なので、私は藤下くんのことが知りたい」
「なので?」
「なので、は関係ない」
「関係ない?」
めちゃくちゃな言い分だとはわかっている。しかしこれは瑞椛の本心からの宣言だった。
「まずはさ、君じゃなくて名前で呼んでよ。お願い」
「ああ、ええと」
基本の顔に戻りつつある藤下は、斜め上を見つつ言葉を濁した。その態度に、瑞椛はある可能性を思いつく。
「もしかして、名前、覚えてない?」
「いやぁ」
藤下は明らかに他人と関係を作るのを避けていた。その原因は、自分と危険を関連付けているからだ。クラスメイトの名前を覚えていないのは、少しでも浅い関係にしたいという思いからなのかもしれない。全員の名前を覚えた瑞椛とは、また別の処世術にも思えた。
しかし、瑞椛はもう、自分の前だけはそれを認めるつもりはない。瑞椛は藤下と関わりたいと思っていた。
その理由は自分でもわからない。
「私は、坂下 瑞椛。はい、言ってみて」
「……うん」
「あ、名前呼ぶのとか苦手だったら無理しなくていいからね」
「いや、大丈夫。坂下、さん」
「……うんっ! 覚えてね。藤下 勇悟くん」
瑞椛は満足して頷いた。たぶん、しっかり笑っていたと思う。
足の震えは、いつの間にかおさまっていた。
第1章《助けてくれた人》 完




