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坂下瑞椛の恋のワケ  作者: 日諸 畔
第1章《助けてくれた人》

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第4話(藤下くん、ごめん)

 緊張が解放されるというのは恐ろしい。瑞椛は話を続けながらも、他人事のように自分を評価していた。


「それで、いつもはすぐに消えちゃうお化けがね、私に向かって突っ込んできたんだよ」


 無言の時よりもゆっくりとした歩幅で歩きつつ、ついつい身振りを加えて朝の出来事を説明してしまう。藤下は神妙な顔のまま、瑞椛に相槌を打っていた。


「危ないって思った時、たぶん男の人なんだけど私を助けてくれてね。左腕にすごい怪我してた」


 瑞椛がそれを見たのは、ほんの少しの時間だ。それでも、簡単に忘れられる光景ではなかった。


「で、やっと本題なんだけど」

「本題?」


 瑞椛は小走りで藤下の正面に回り込む。無表情と作り笑いの中間くらいの顔をして、藤下は足を止めた。


「その人、藤下くんじゃないかなって」

「……む」


 瑞椛の探るような言い回しを受けた藤下は、視線を斜め上にと向けた。どう返事をしようか考えているようだった。


「俺が、腕を怪我、か」

「うん、違う、かな?」

 

 表情を変えないまま、藤下は瑞椛の目を見つめた。妙な圧力を感じた瑞椛は、目を逸らすことができなかった。


「それは人違いだよ。ほら、そんな大怪我してないし」


 瑞椛から目を離した藤下は、笑いながら左手を振り回した。昼休みに庇っていた様子が嘘のようだった。ましてや、腕を折った人のできる動きではない。


「あれ? うーんと……」


 藤下が朝の人だと完全に思い込んでいた瑞椛は、まともに返事ができなかった。どこで何を間違ったのだろうか。ひたすら首を傾げるだけだった。後頭部で括った髪が視界の端に垂れ下がった。


「命の恩人じゃなくて、悪かったね」

「あ、いや、ううん。こっちこそごめんなさい」


 苦笑する藤下に向かって、瑞椛は頭を下げた。

 ほとんど交流のない女子に話しかけられ、無理に一緒に帰り、意味のわからない話を聞かされる。彼が朝の人でないのならば、大変に迷惑な話だ。

 これ以上どう謝ったらいいか思いつかず、瑞椛は足元に視線を落とす。どこからか青黒い色をした鳥が飛んできて、藤下の背後に着地した。カラスのような鳩のような、見たことのない形の鳥だった。


「あ、用事を思い出した」

「うん……そっか」


 ちらりと鳥へと目を向けた後、藤下は唐突に空を見上げた。明らかに誤魔化している態度だった。きっと、このまま変な時間を過ごすのが嫌なのだろう。瑞椛にはそれを非難することはできなかった。

 藤下は嘘を付くのが上手くない。それを知れたのは今日の数少ない収穫かもしれない。

 

「じゃあ、ここで」

「うん」


 藤下は瑞椛に向けて軽く手をあげ、早足で歩き出した。駅とも学校とも違う方向だ。足元近くにいた鳥は、いつの間にか飛び上がっていた。

 瑞椛はその後ろ姿を呆然と見送る。なぜだか、簡単には目が離せなかった。彼が視界から消えても、瑞椛の足は駅には向かわなかった。

 瑞椛はどうしても、朝の人と藤下が別人だとは思えない。このまま帰ったらきっと後悔する。始まりかけた何かが終わってしまう。そんな気がした。


(藤下くん、ごめん)


 心の中で謝った時にはすでに駆け出していた。後をつけるなんて、人として最低に近い行動だ。それでも、藤下が隠していることを知りたいと思った。こんな気持ちになるのは、初めてのことだった。

 

 姿は見えなくても、藤下がどこを通ったのかがわかる。理由はわからない。

 もしかしたら、お化けが見えることと関係があるのかもしれない。


 曲がり角をみっつ通り抜けた先には、ちょっとした公園があった。普段は駅と学校の往復しかしていないため、瑞椛にとっては初めて来る場所だ。

 広場の中心に、藤下はいた。


(あれって……)


 瑞椛の目は、制服姿の少年と向かい合う黒い塊を捉えていた。大きさも形も、朝のものとは微妙に違う。

 瑞椛が公園に近付くにつれて、塊は徐々に輪郭をはっきりさせていく。


(違う、私が見えるようになってるんだ)


 広場の中に足を踏み入れた時、黒い塊は狼のような姿になっていた。形は狼でも、ただの動物ではない。もっと攻撃的で、もっと恐ろしいもの。少なくとも瑞椛にはそう思えた。

 唸ることなく牙をむき出しにした狼は、藤下に向かって地面を蹴った。 


「あっ!」


 瑞椛はとっさに声をあげてしまった。

 藤下がこちらへ振り返った。

 そして、狼は進路を変える。気付いた時には、すでに瑞椛の目の前だった。


「ちっ!」


 藤下の舌打ちが聞こえる。

 まるで世界がスローモーションのようだった。鋭い牙の並んだ狼の口が大きく開かれた。その中は生き物とは思えない、深い闇が広がっているように見えた。


(ああ、これはダメなやつだ)


 避けることも防ぐこともできず、瑞椛は自分の死を直感した。まぶたを閉じると、両親や弟、奈央の顔が脳裏をよぎる。


「え?」


 数秒後、覚悟していた痛みはこなかった。目を開いた先には、制服の後ろ姿。右手を狼に差し出すようにして噛みつかせていた。何かが潰れるような、嫌な音が耳に入ってくる。


「藤下くん?」


 ちらりと見えた横顔は、さっきまで一緒にいた同級生のものだった。そして、その苦悶の表情には見覚えがある。


「ふうっ!」


 右手を噛ませたまま、藤下は身体を震わせた。複雑な動きをしていたようだが、瑞椛には何をしているのか理解できない速さだった。

 ただひとつ、藤下の左拳が狼の腹を突き上げている。それだけは瑞椛にもわかった。

 

 彼は、あれを、殴った。


「あ、あれ……」


 いつの間にか狼の姿は消え去っていた。まるで最初からいなかったようだ。その感覚は、瑞椛がお化けを見た時にどこか似ていた。


「あ、藤下くん、腕っ」


 瑞椛はようやく我に返る。藤下の右手は、狼のようで狼でないものに噛みつかれていた。朝の人と同じように、ただでは済まない怪我だ。

 すぐさま病院に行かなければ。救急車を呼ぶ方が先だろうか。瑞椛は携帯電話を取り出そうと、あたふたと鞄に手を突っ込んだ。


「いや、平気」

「えっ……」


 同じ声なのに、先ほどまでの同級生とはどこか違う人のように聞こえた。

 瑞椛へ差し出された藤下の右手は、傷ひとつついていなかった。

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