第1話「お礼を言いたいなって」
たぶん見間違えだと思う。
坂下 瑞椛は目の前にあった異様な光景を、頭の中でそう表現した。
早朝の通学路、駅から学校までの途中だった。なんの前触れもなく、正体のわからない黒い塊が瑞椛に向けて突っ込んできた。悲鳴をあげる暇もなかった。
そして、割って入ってきた男の人が、瑞椛を庇うようにそれを受け止めた。強い衝撃を受けた彼の左腕は、あらぬ方向に曲がっていた。横顔が一瞬だけ苦悶に歪んで見えた。
「えっ?」
思わず声を発した時には、黒い塊も男の人も瑞椛の視界からは消えていた。あまりにも短い時間のことだったから、現実のことかどうかも確かめようがない。
「なんだったの?」
瑞椛は周囲を見渡す。後頭部で括った長い髪が揺れる。
駅前では、スーツ姿のサラリーマンも瑞椛と同じ制服を着た学生達も、平然と歩道を歩いていた。まるで、あの黒い塊と男の人は世界に存在しなかったみたいだ。
瑞椛は呆然と青空を見上げた。カラスのような鳩のような青黒い鳥が一羽、ゆっくりと円を描いて飛んでいた。今まで見たことのない色と形の鳥だった。
「うーん」
瑞椛は軽く唸ってから首を二度ほど振り、周りに溶け込むように通学を再開した。
「きっと、いつものやつだ」
自分を納得させるように呟いて、胸の中にある違和感を消す。瑞椛にとってお化けや妖怪のようなものが見えるのは、珍しいことではない。誰かに話したら、霊感が強いという一言で終わるような、その程度のことだ。
(でも、あの助けてくれた人、どこかで見たような)
黒い塊を受け止めた人の横顔は見覚えがある。なぜかわからないが、そんな気がしていた。
ゴールデンウィークの名残が落ち着きつつある五月の半ば、瑞椛は強まりつつある日差しに目を細めた。
瑞椛の通う高校は、最寄りの駅から十五分ほど歩いた先にある。同じ制服の生徒に混じり、瑞椛は一年三組の教室へと向かった。
「瑞椛、おはよー」
クラスメイトに挨拶をしつつ席へと座った瑞椛に、明るい声がかかる。
「あ、奈央ちゃん、おはよ」
長身に短めのボブカットがよく似合う少女は、間宮 奈央。
瑞椛にとっては中学時代からの数少ない友達だ。やや小柄でおとなしめな瑞椛とは対象的な奈央だが、不思議と気が合い関係が続いている。
「朝練お疲れ様」
「うん、ありがとー」
バスケ部に所属している彼女は、朝練のためにいつも早く登校している。朝の弱い瑞椛にとっては、早起きできるだけで尊敬の対象だ。
「あれ、瑞椛なんかあった?」
「え、何?」
「ちょっと顔が固いぞ」
奈央の言うことは本当なのだろう。瑞椛は駅前での出来事をまだ引きずっているのだと自覚した。
「そうかな、まだ眠いのかもー」
「さては夜更かししたな」
「ちょっとね」
「ほどほどになー」
誤魔化すような言い回しをしたことに、瑞椛は少しだけ胸が痛くなる。始業まではまだ時間がある。瑞椛は軽く呼吸を整えて、奈央を呼び止めた。
「奈央ちゃん、少しいい?」
「うん? いいよ」
首を傾げた奈央は、瑞椛の近くにしゃがみ込んだ。こういう気安さが彼女の魅力だと思う。
「さっき、駅で見ちゃったんだ」
「あ、そういうこと」
「でね、いつもとは違って、私に襲いかかってきて」
「え、大丈夫だった?」
奈央にはお化けのようなものが見えることを度々話している。小さな丸いボヤけたようなものや、輪郭があいまいな人の形をしたようなもの。昼夜問わず目にすることがあり、見つけたらすぐに消えてしまう。
そんな話を毎回バカにせず聞いてくれるため、瑞椛にとってはありがたい相談相手だった。
「それがね、男の人が助けてくれたんだよ。すぐにいなくなったけど」
「なにそれ。ヒーローみたいな?」
「うーん、そういうのじゃないかも。大怪我してたし。腕折れてたっぽい」
「えっ、怖っ……。まぁでも、とりあえず瑞椛になにもなくてよかったよ」
奈央は心底安心したように、肩の力を抜いた。それが嬉しくて、瑞椛は思わず頬を緩めた。
「うん。あの人にちゃんとお礼を言いたいなって」
「お礼言うにも、いなくなっちゃったんでしょ?」
「そうなんだよね。でも、どこかで見たような気がしてて」
「どこかって、どこ?」
「さぁ、それがわからなくて」
ちょうど会話を遮るように、始業のチャイムが鳴る。担任教師が教室に入ってくるのを見つけた奈央は「またね」と、自席へと移動していった。
「よーし、出席とるぞー」
担任がお決まりの台詞を口にして、教室内を見渡す。窓際の席で視線が止まり、ため息と共に出席簿を教卓に置いた。
「藤下は今日も遅刻か欠席か」
瑞椛の所属する一年三組には、遅刻や欠席、さらには早退も多い生徒が一人いる。瑞椛は挨拶程度にしか話したことはないが、いつもにこやかな普通の男子という程度の印象だ。
奈央が言うには「入試トップの成績だったから許されてるらしいよ」とのことだ。とはいえ、瑞椛としてはあまり興味のない相手だ。過去の経験から、男子とは必要以上に関わりたくはない。
「おはよう、ございます」
担任が出席簿にペンを近付けたところで、教室の引き戸が開かれた。その奥には、申し訳なさそうな顔をした短髪で中肉中背の男子生徒。
瑞椛は滞りなく学校生活を送るため、クラス全員の名前を記憶している。確か、彼の名は藤下 勇悟。
「あー、遅刻、ですよね?」
困ったように苦笑を浮かべた藤下は、担任の顔を覗き見る。平然と遅刻をしているようには見えなかった。
「まぁ、ギリギリとしてやるよ」
「ありがとうございます」
クラス全員に見守られながら、藤下はすごすごと自席に座った。
(なんか、さっきの人に似てるかも)
瑞椛はその横顔から少しの間だけ、目が離せなかった。
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