猫、会話をする
あたしが目を覚ますと、窓の外はもう薄暗くなっていた。
ぐぅ。
……お腹が鳴った。
朝のお魚は、きれいさっぱり消化されてしまったらしい。
体をぐーっと伸ばして、寝台のリネンに爪を立てる。
うん、この感触。なかなか悪くない。
そこで、あたしはようやく気がついた。
隣に王太子フリードが寝ている。
じっと見つめていると、フリードの瞼がぴくりと震え、ゆっくりと目が開いた。
「……君か」
そう言って、手を伸ばしてくる。
仕方ないわね。
あたしは大人しく頭を差し出して撫でさせてあげた。
今日は特別サービスよ。
「久しぶりによく眠れた。ありがとう。夢も見ないくらい深く眠れると本当に気持ちがいいんだね」
その声は、どこか安堵しているようだった。
あたしは『どういたしまして』の気持ちを籠めて、
「にゃぁん」
と鳴く。
ついでに喉からゴロゴロも出しておいた。
サービス精神旺盛なのだ、あたしは。
フリードは寝台脇のテーブルに置いてあったベルを鳴らした。
すぐに扉が開く。
顔を出したのはハンスだった。
「王太子殿下、お目覚めですか?」
「ああ。この猫のおかげでぐっすり眠れたよ」
「俺は二度も引っかかれましたよ。殿下にはすぐ懐きましたね。まったく、相手を見て引っかくんでしょうかね」
ぼやくハンスに向かって
「シャーーッ!!」
あたしは全力で威嚇した。
当たり前だ。
あたしを力づくで捕まえた犯人なのだ。
好きになる理由が一つもない。
「お、おい! 悪かったよ! 悪口のつもりじゃなかったんだ!」
慌てるハンス。
鼻息荒く威嚇するあたし。
その様子を見て、フリードがくすくす笑った。
「怒っている姿も可愛いよ」
……。
なんだか調子が狂う。
あたしはぷいっとそっぽを向くと、毛づくろいを始めた。
無心になりたい時はこれに限る。
「ハンス。彼女はお腹が空いたらしい。猫の食事を用意してもらえるかい?」
「も、もちろんです! えっと、その……殿下のお食事は……? それに毒見役も……?」
ハンスが言い淀む。
するとフリードは、にこりと穏やかに笑った。
「僕はいらないよ。猫の食事をここに持ってきてもらえるかい? 知らない場所だと、また怖がらせてしまうかもしれないからね」
(この人、猫のこと分かってる!)
あたしは思わずキラキラした目でフリードを見つめた。
「はい! 分かりました。何をご用意しましょうか?」
「そうだな。港にいたし、魚が好きなようだ。生でも食べられるくらい新鮮な魚はあるか?」
「は、はい! あると思います! カルパッチョは陛下もお好きですし」
新鮮な魚。
その言葉を聞いた瞬間、
「にゃあん!」
思わず声が出てしまった。
フリードが嬉しそうに笑う。
「やっぱり好きなんだね」
「殿下は本当に何も召しあがらないのですか?」
「僕は何もいらない」
「えっと……せめてお茶とか……水くらい」
食い下がるハンス。
フリードはふっと皮肉な笑みを浮かべた。
「水やお茶にも毒が入っていたことがあるだろう?」
(毒⁉)
あたしは思わずフリードをまじまじと見つめた。
「君は本当に人間の言葉が分かるようだね?」
しまった。
前にもそんなことを言われたことがある。
あたしは慌てて視線を外すと、何事もなかったかのように顔を洗い始めた。
『あたしは普通の平凡な猫ですよ』
という完璧な演技である。
「ハンス。オットーを呼んできてもらえるかい? 新しい耳飾りを持ってきてほしい、と伝えてくれ」
「あ、はい! 分かりました!」
ほどなくしてオットー・ブラウン騎士団長がやってきた。
「フリード様、お加減はいかがですか?」
心配そうな顔が、フリードの穏やかな表情を見てふっと緩む。
「久しぶりによく眠れて気分がいい」
「毒も抜けたようですね」
「ああ。毒消しの薬はまずくて気分が最悪になるが、効果はある」
「マルガレーテ様に薬が効いたとお伝えします」
「礼を言っておいてくれ」
あたしはぽかんとフリードを見つめた。
マルガレーテという名前が出た瞬間、フリードの顔にほんの一瞬、苦い影がよぎったからだ。
それに……
毒?
あたしたちも昔、毒を盛られたことがある。
野良猫を一斉に退治するため、人間が餌に毒を混ぜてばらまいたのだ。
でも猫の嗅覚は人間の何万倍。
普通は引っかからない。
ただ、たまにお腹が空きすぎた猫が食べてしまうこともあるが……。
でも、人間に毒って……?
しかも王太子に?
頭の中がぐるぐるしていると、フリードがまたくすっと笑った。
「ねぇ君。本当にただの猫かい?」
悪戯っぽい顔になる。
さっきまで王太子だったのに、急に少年みたいな表情だ。
「フリード様、こちらが耳飾りです」
「ありがとう、オットー」
小さな黄色い石のついた耳飾り。
それを両耳につけながらフリードは言った。
「これはね、シアストーンという魔石を使っているんだ」
あたしを見ながら、楽しそうに説明する。
「魔石は分かるかな? 魔力のこもった石のこと。シアストーンは特に通信系の魔法を付与するのに向いている」
通信?
「つまりね。遠くにいる相手とか言葉の分からない相手とも意思疎通できる魔法だ」
……え?
「人とは限らないけどね」
フリードは片目をつぶった。
そして、あたしをまっすぐ見つめる。
「さて、君は何者なんだい?」
静かな声。
「もしかして君も、呪いをかけられた人間だったんじゃないのかな?」
あたしは耳を疑った。
『え⁉ どうして分かったの?』
思わずフリードを見つめ返す。
フリードの表情が、ふっと優しくなった。
「やっぱり……」
小さく息を吐く。
「苦労してきたんだな」
その瞬間。
あたしの瞳から大粒の涙がぼろぼろこぼれた。
こんな言葉をかけてくれる人なんて……
百年以上、いなかった。
『あたしの言うことが分かるの?』
「ああ」
フリードは静かに頷いた。
「港町で君を見つけた時から、もしかしたらと思ってね。この耳飾りは動物と意思疎通できるように特注したんだ」
少し肩をすくめる。
「もっとも、普通の猫はそれほど複雑な思考はしていないけれど」
そして優しく微笑んだ。
「でも君は違うだろう?」
静かな声。
「元は人間なんだから」
……ようやく。
ようやく、あたしの言葉を理解してくれる人が現れたんだ。
初めて会った時から、この人には何か感じるものがあった。
やっぱり間違っていなかった。
「君の名前は?」
『エレ』
「エレ。いい名前だ」
フリードが頷く。
傍らにいたオットーもあたしに向かって会釈をした。
「君の生い立ちを知りたい。どうしてこんな酷い呪いをかけられたのか。どんな生活を送ってきたのか」
フリードは優しく微笑んだ。
「……でも、その前に」
ちょうどその時、部屋の扉が開く。
「腹ごしらえが必要だね」
ハンスと侍女たちが、あたしの食事を運んできたところだった。




