第84話 「鉄と血の宣戦布告。女帝の微笑みと終わる日常」
【数ヶ月後:王国首都・アシュトン財閥 本社ビル最上階】
空飛ぶ鉄の城がもたらした恐怖が去ってから、数ヶ月。
王国は、建国以来かつてないほどの未曾有のバブル経済に沸き返っていた。
帝国のインフラが先のテロによって麻痺した隙を突き、私たちアシュトン財閥は莫大な資金力と圧倒的な物流網をもって、大陸中の市場を次々と席巻していった。
さらに、あの泥棒猫ベアトリスが自ら差し出したルージュ商会の資産とネットワークを完全に吸収したことで、王国の富の過半数が、私の愛するご主人様――ローズマリーさんの美しく細い指先に集約されつつあった。
「……ローズマリーさん。第三四半期の決算報告書です。大陸東部での魔導車両のシェア、ついに九割を超えましたよ。お疲れ様です、紅茶を淹れました」
「ご苦労様、アリア。そこに置いておきなさい」
王都の美しい夜景を眼下に収める、最上階の豪奢な執務室。
ローズマリーさんは、アンティークの万年筆を滑らかに走らせ、山積みになった書類に次々とサインをしていく。
その完璧な横顔を、誰にも邪魔されない特等席から眺める。
それが、すっかり第一秘書としての板がついた私の、何よりの至福の時間だ。
ペンの擦れる音。
上質な紙の匂い。
そして、ご主人様から漂う微かなローズの香り。
時折、彼女が小さく息を吐くたびに、私の耳はピクピクと嬉しそうに反応してしまう。
この美しくて、底なしに強欲で、世界で一番尊い人を、私がお茶を淹れて、私の力で支えている。
その事実だけで、胸の奥がキュンと甘く締め付けられ、見えない尻尾が勝手に揺れてしまうのだ。
ああ、ずっとこの背中を見ていたい。
「ローズマリー様ぁ! 港湾都市の買収案件、無事に完了したわ! 徹夜で交渉相手を泣かせて骨の髄までむしり取ってきたのよ!」
バンッ!と執務室のドアが開き、書類の束を抱えたベアトリスが嬉々として飛び込んできた。
あの地下室での『お仕置き』以来、この元・女帝はすっかりローズマリーさんの忠実な、そしてかなりアブナイ有能な手駒として覚醒していた。
かつての高慢なプライドは、今はただ「ご主人様に褒められること」だけに全振りされている。
「相変わらず品がないなあ、泥棒猫。ローズマリーさんの執務室に入る時はノックくらいしなよ。ご主人様の集中が途切れたらどうするの」
「あら、これは失礼。でも私、ローズマリー様から直々に『いつでも入室してよい』というパスを頂いてるわよ? ただのお茶汲み犬には分からないでしょうけれど」
「なんだとぉ!? アンタはただの集金マシーンでしょ! いざという時、ご主人様をお守りできる一番の番犬はこの私なんだから!」
火花を散らす一番犬と二番犬。
アシュトン財閥の頂点で繰り広げられる、次元の低い醜くも微笑ましいマウント合戦。
……鬱陶しい泥棒猫だけど、不思議と嫌な気はしない。
ガンテツ姉さんの油の匂いも、イザベラさんの元気な悲鳴も、カミーラさんの容赦ないお説教も。
すべてが、ローズマリーさんが圧倒的な力と知略で築き上げた、私にとっての絶対的で愛おしい「日常」の風景だった。
この温かい世界が、ずっと、永遠に続けばいい。
私が絶対に守り抜いてみせる。
だが。
栄華を極める王国の平和とバブルの狂騒は、長くは続かなかった。
ジリリリリリリリリリッ……!!!
突如、執務室の奥に設置されていた赤色の魔導通信機が、けたたましい警報音を鳴らした。
私の全身の毛が総毛立つ。
それは、王宮の奥深くに直結された、緊急事態にしか使用されないホットラインだった。
「……王宮から?」
私とベアトリスがピタリと口論をやめ、息を呑む。
ローズマリーさんは万年筆を静かに置き、ゆっくりと受話器を取った。
「私です。……ええ。……何?」
常に氷のように冷静なご主人様の眉が、ほんのわずかにピクリと動いた。
『ロ、ローズマリー様! 緊急事態です! たった今、我が国の諜報部から信じられない急報が……!』
「落ち着きなさい。要点だけを端的に」
『て、帝国でクーデターが発生しました! 軍部の一部が反乱を起こし、首都を完全制圧! ……先ほど、皇帝陛下が処刑され、帝政が崩壊しました!!』
「……ッ!」
背筋に、冷たい汗が伝った。
絶対的な武力と歴史を誇った帝国が、崩壊した。
シドが起こしたあの夜のテロは、単に帝都の街を焼いただけではなかったのだ。
「……で、誰がその首謀者ですか。皇帝の首をすげ替えたのは」
ローズマリーさんが冷徹に問いかけた、その瞬間だった。
ガァァァンッ!!
執務室の壁に設置されていた巨大な魔導モニターが、突如として激しいノイズに覆われた。
いや、この部屋だけではない。
「しゃ、社長! 世界中の魔導波長が、何者かに強制ハッキングされていますわ!」
通信機越しにイザベラさんが別室から悲鳴を上げる。
世界中の広場、各家庭のラジオ、そしてアシュトンのモニター。
すべての通信網が強制的に一つの「魔導映像」へと切り替わった。
画面に映し出されたのは、炎と黒煙が立ち上る、帝国の総統府のバルコニーだった。
眼下には、熱狂し、武器を掲げて歓声を上げる何十万という帝国軍兵士の姿。
そして、演壇に歩み出た一人の影。
血塗られた軍服。
その上に漆黒のマントを羽織り、眼鏡の奥で狂気の瞳を爛々と輝かせている女。
「……ヒルダ……ッ!!」
かつての留学生。
帝国技術省次官。
私たちのご主人様を陰湿な地下牢に叩き込み、いたぶった外道。
そして今、彼女は皇帝の血を啜り、狂信的な軍部を束ね上げた『新総統』としてそこに立っていた。
『――世界中の愚鈍なる者たちよ。刮目しなさい』
ヒルダの冷たく、そして吐き気がするほど甘ったるい声が、魔導通信網を通じて世界中に響き渡る。
『古く腐敗した帝政は、この私によって浄化された。我々は今日、生まれ変わったのだ!』
ヒルダは、血に濡れた白い手袋を高く掲げた。
『王国の軟弱な資本主義と、拝金主義に塗れた豚どもは、やがて世界を腐らせる。……我々新生帝国は、薄汚い金貨ではなく、大いなる鉄と血の秩序をもって、この大陸を一つに統合する! これは革命であり、世界への粛正である!』
熱狂する帝国軍の地鳴りのような歓声。
それは、単なるクーデターの宣言ではない。
近隣諸国、そして私たちが住むこの王国に対する、明白な宣戦布告であった。
『……ふふっ』
ふいに、画面の中のヒルダが、魔導カメラのレンズに向かって――いや、まるでその向こう側にいるローズマリーさんと私を、直接見透かして舐め回すように、粘着質な視線を合わせた。
『待っていてちょうだい、私の愛しい銀狼。そして、誰よりも強欲なアシュトンの魔女。……貴女たちのその平穏な箱庭を、私が最高の軍靴で踏み荒らしてあげるわ』
プツン、と映像が途切れる。
執務室は、水を打ったような静寂に包まれた。
経済の戦争から、本物の戦争へ。
私とローズマリーさんが苦労して取り戻した平和な日常が、私のお気に入りのこの居場所が、再び、最も最悪な形で引き裂かれようとしている。
全身の血が逆流するような殺意が湧き上がる。
平穏な箱庭を踏み荒らすだと?
ふざけるな。
お前のその薄汚い足を、私が根元から噛みちぎってやる!
「……ローズマリーさん。私……ッ」
私は、ギリッと拳を握りしめ、振り返った。
声が震える。
平和が終わる恐怖なんかじゃない。
ただただ、私の大好きなご主人様の平穏を脅かす存在への、純粋で暴力的な怒りだ。
だが。
振り返った先で。アシュトン財閥の絶対君主は、微塵も動揺していなかった。
「……」
カチャッ、と。
ローズマリーさんは、手に持っていたアンティークの万年筆のキャップを、静かに閉めた。
そして、革張りの椅子からゆっくりと立ち上がり、ジャケットの裾を優雅に払う。
「……社長?」
窓ガラスに映る帝国の空を睨み据えながら、ローズマリーさんのルージュを引いた唇の端が、三日月のように吊り上がった。
それは、最大の危機に直面した者の顔ではない。
世界で最も巨大で、最も生意気で、最も叩き潰しがいのある「獲物」を見つけた、底知れぬ強欲な鉄の女の笑みだった。
……ああ。ああ、やっぱり。
私のご主人様は、最高だ。
「……鉄と血、ですか。無粋極まりないですね」
ローズマリーさんの氷のように冷たく、それでいて業火のように熱い声が、執務室に響く。
「アリア、ベアトリス。全工場の稼働率を限界まで引き上げなさい。……狂った独裁者が暴れ回る世界など、私の物流の邪魔です」
女帝の瞳に、不敵な光が宿る。
「あの悪趣味な帝国……アシュトンの全資産を賭けて、『敵対的買収』を仕掛けます」
その圧倒的な覇気と、狂気すら孕んだ女帝の宣言。
それをすぐ背後で受けた私は、自らの右腕に視線を落とした。
平和な日常が終わる。
これから始まるのは、単なる企業の経済戦争ではない。
国家の存亡を賭けた総力戦であり、血で血を洗う本物の殺し合いだ。
ヒルダの狂った執念と巨大な軍靴が、確実にこの王都へ、そして私の最愛の主人へと襲いかかってくるだろう。
でも、私の心に微塵の迷いも、恐怖もなかった。
あるのはただ、胸の奥底で静かに、そして熱く燃え上がる『恩義』と『愛』、そしてご主人様を害する邪魔者への『確かな殺意』だけだ。
……思えば、遠くまで来たな。
私は、窓の外の夜景を見つめるローズマリーさんの、華奢で、しかし世界中の誰よりも巨大な背中を見つめた。
両親の残した借金のせいで、私は物心ついた時から孤独だった。
ただ生き延びるためだけに鉄喰い熊を倒し、泥水を啜って金貨を稼ぐ日々。
誰も私を助けてくれない。
誰も私を見てくれない。
それが、かつての私の世界のすべてだった。
『――勘違いしないで? 貴女はお客様ではない。高額で買い取られた『犬』なの』
半ば騙されて連れてこられた公爵家で、メイド服を着たご主人様は、私に同情など一切せず、ただ極めて打算的な「契約」を持ちかけてきた。
それからだ。
私の凍りついていた世界が、鮮やかに動き始めたのは。
王立学園での影武者生活。
アシュトン家の借金返済のための奔走。
ガンテツ姉さんの油臭いガレージ。
イザベラさんのパニック気味な悲鳴。
カミーラさんの厳しいお説教。
最近加わった泥棒猫との痴話喧嘩。
いつしか、この騒がしくて狂気じみたアシュトン家が、私にとって命に代えても守りたい『本当の居場所』になっていた。
そして何より、私に生きる価値と、戦う理由を与えてくれたローズマリーさん。
私は、この人を放っておけない。
こんなにも強くて完璧なのに、どこか危うくて、私がいないとダメだと思わせてくれる。
彼女の野望の行く末を、一番近くで見届けたい。
彼女が傷つくくらいなら、私が代わりに何万回でも盾になる。
……国がどうなるとか、世界経済がどうなるとか、そんな難しいことは私にはよく分からない。
でも……
私は力強く一歩前へ踏み出し、ローズマリーさんの斜め後ろ――『第一秘書』にして『一番の番犬』の特等席へとピタリと寄り添った。
「……ご主人様のジャマをする奴は、私が全部スクラップにする。帝国軍だろうが、あの変態メガネだろうが関係ない」
私の低く、獣のように研ぎ澄まされた声に、ローズマリーさんは振り返ることなく、満足げに微笑んだ。
「頼もしいですね、私のかわいい駄犬」
「当然だよ。私は……ご主人様が拾ってくれた、世界で一番の犬なんだから」
ヒルダの狂気に満ちた宣戦布告の魔導映像がノイズに消えゆく中。
薄暗い執務室で、私はただ一人、迫り来る強大な帝国軍に向けて、確固たる忠誠と殺意をもって己の牙を静かに研ぎ澄ましていた。
どんな地獄の戦場が待っていようと、この身が千切れようと構わない。
私が持っているのは、ご主人様が価値を与えてくれたこの「牙」だけだ。
ならば、そのすべてを懸けて、最愛のローズマリーさんの背中と、この愛おしくて騒がしい日常を、私が絶対に守り抜く。
(完)




