第83話 「絶対服従のお仕置き。深夜の地下室と女帝の鞭」
【同日深夜:アシュトン仮設邸宅・地下特別室】
ひんやりとした冷気が漂う、分厚い石造りの地下室。
その密室で、二つの影が、冷たい石の床の上で綺麗に並んで正座をさせられていた。
「…………」
「…………」
泥とススで薄汚れ、メイド服をボロボロにした私と、あの泥棒猫ベアトリス。
数時間前まで王都の夜空を爆走し、互いに「ご主人様の一番」の座を賭けて意地を張り合っていた威勢の良さは、見る影もない。
私たちは、まるで雷に怯える仔犬のように肩を寄せ合い、ガタガタと震えていた。
怖い。
怒られる。
捨てられたらどうしよう。
……でも、おかしいな。
死ぬほど怖いのに、心の奥底でドロドロとした黒い期待が渦巻いているのが分かってしまう。
ご主人様に、直接、たっぷりと私だけを見つめて「お仕置き」してもらえる。
その事実が、恐怖と同じくらい私の脳髄を甘く麻痺させていた。
カツン……、カツン……。
静寂の地下室に、私の大好きな、冷酷なヒールの音が響いた。
純白のスーツから、ゆったりとした漆黒のナイトガウンに着替えたご主人様――ローズマリーさんが、優雅な足取りで私たちの前に歩み寄った。
ああ……なんて美しいんだろう。
薄暗い地下室の闇すら、彼女を際立たせるためのビロードの絨毯にしか見えない。
そのゴミを見るような冷たい視線で見下ろされるだけで、私の背筋はゾクゾクと粟立ち、呼吸が浅くなる。
その右手には、しなやかな漆黒の革で編み込まれた『特注の乗馬鞭』。
そして左手には、怪しい紫色の光を放つ液体の入った小瓶が握られている。
「……さて」
ローズマリーさんの氷のように冷たく、それでいてどこか熱を帯びた声が落ちた。
その声帯の振動が、冷たい空気を通して私の肌を直接撫で回すようだ。
「私の絶対の命令を破り、極秘の試作機を二台も大破させ、あろうことか帝国資本のホテルに突っ込んで外交問題を起こしかけた……。浮気した駄犬と、生意気な負け犬。この落とし前、どうつけてもらいましょうか?」
「ひぃっ……! ご、ご主人様、ちがうの! 泥棒猫が先に挑発してきて……!」
「嘘をおっしゃい! この野良犬が、私を馬鹿にしたから……!」
「――言い訳を許可した覚えはありませんよ」
ピシャリ、とローズマリーさんが鞭で自身の掌を叩く。
その鋭い音に、私たちはビクッと肩を跳ねさせ、瞬時に口をつぐんだ。
「貴女たちが一晩で吹き飛ばした損失は、ざっと見積もって王国の国家予算の数パーセントに匹敵します。……本来なら即座に海に沈めるところですが、貴女たちは私の『所有物』。壊れて使い物にならなくなるのは、資産の無駄遣いです」
ローズマリーさんは、左手に持った小瓶の蓋を指で弾き開けた。
ふわりと、甘く危険なローズと濃密な魔力が混ざり合ったような香りが地下室に漂う。
ご主人様自身の体臭と混ざり合って、嗅いでいるだけで頭がクラクラしてくる。
「これは、帝国の技術省から接収したデータを元に、私が特別に調合した『魔力感応液)』です。皮膚から浸透し、神経の伝達速度と魔力感度を通常の五十倍にまで引き上げる……本来は拷問用の自白剤ですね」
「ご、ごじゅうばい……!?」
「ご、ご主人様……それ、どうするの……?」
「決まっています」
ローズマリーさんは、極上の、震えるほど美しくサディスティックな笑みを浮かべたまま、その紫色の液体を私と泥棒猫のうなじへと、冷酷に数滴垂らした。
「ひゃっ!?」
「あっ……!」
液体が肌に触れた瞬間、私の全身を雷に打たれたような強烈な悪寒と、未体験の感覚が駆け抜けた。
地下室の微かな空気の揺れ、床の石の冷たさ、隣の泥棒猫の息遣い、そして自分自身の心臓の狂ったような鼓動すらもが、恐ろしいほどの解像度で脳に直接響いてくる。
五十倍。
つまり、これからご主人様が私に与えてくれる痛みも接触も、五十倍の濃度で味わえるということだ。
どうしよう。
歓喜でどうにかなりそうだ。
「さて。私の資産を食いつぶす駄犬たちに……骨の髄まで、誰が主人かを分からせる『しつけ』をしましょうか」
◇
ピシィィィッ!!
鋭い風切り音と共に、ご主人様の鞭が、まずベアトリスの背中を容赦なく打った。
「ああっ!?」
ベアトリスの口から、悲鳴が上がる。
五十倍に引き上げられた痛覚。
それは文字通り、焼けた鉄を押し当てられたような激痛のはずだった。
――だが。
「……あ、あれ……?」
痛みの直後、ベアトリスの脳髄を突き抜けたのは、恐怖や苦痛ではなかったようだ。
「あ……ぁんっ……! な、なにこれ、すごく熱くて……っ!」
「……おや。まだ一発目ですよ、ベアトリス。ずいぶんとだらしない声を出しますね」
「ろ、ローズマリー様……! も、申し訳ありません、私のような愚かな女が、貴女様のご資産を……っ! だから、もっと……もっと私を叱ってください……!」
「はぁ!?」
私は、信じられないものを見るような目で泥棒猫を凝視した。
かつて王国経済を牛耳り、高飛車に扇子を振り回していた女帝はそこにはいない。
いるのは、顔を真っ赤に紅潮させ、涙目で太ももを擦り合わせながら、主人の鞭を熱烈に懇願する『真性ドM』へと完全に堕ちた一匹の雌豚だった。
……嘘でしょ?
こいつ、こんなにヤバい奴だったの!?
「ふふっ。……いいでしょう。貴女のその底なしの強欲さ、こういうベクトルに切り替わると見事なものですね。ならば、望み通りに」
ピシィッ!
パァンッ!!
「あぁっ! はぁっ……! すばらしいわ……! ローズマリー様の愛の鞭……! 私の誇りも、財産も、この身体の痛みも……すべて、すべて貴女様のものよ!」
「……この泥棒猫、完全にアッチの世界に逝ってるじゃない!」
私がドン引きしていると、不意にご主人様の冷たい視線が、今度は私へと向けられた。
ヒッ、と喉が鳴る。
「よそ見をしている余裕があるようですね、アリア。極秘のエンジンを壊したのは、貴女が言い出しっぺでしょう?」
「ひっ! ご、ご主人様、ごめんなさい! もう絶対しません! だから……」
ピシィィィッ!!
「ぎゃあぁぁぁぁっ!! い、痛い! なにこれ、すっごく痛いし、なんか脳みそまでビリビリするぅぅっ!」
私は床に転がり、涙目で身悶えした。
元々魔力感度が高すぎる私にとって、五十倍の感覚増幅はまさに地獄。
鞭が空気を切る圧力だけで肌が粟立ち、一撃叩き込まれるだけで、全身の神経がショートしそうなほどの衝撃を伴う。
「ふふふ……ざまぁみなさい、野良犬。貴女のような品のない犬には、ローズマリー様の鞭の『甘美な価値』が分からないのよ……っ! ローズマリー様、あんな駄犬は放っておいて、私をもっと……!」
「……ベアトリス。貴女が口出しすることではありませんよ」
パァンッ!!
「あぁぁんっ……! ありがとうございますぅっ!!」
「……っ! な、なんなのよ!!」
悶絶しながら快楽に浸る泥棒猫を見て、私の中で、痛みよりもはるかに巨大な『ドス黒い感情』が爆発した。
強烈な嫉妬だ。
私の大好きなご主人様が、私以外の女を、お仕置きとはいえ熱心に構っている。
そしてアイツの背中に、ご主人様が叩いた「赤いマーキング」が刻まれていく。
許せない。
絶対に許せない!
ご主人様の鞭を受けていいのも、ご主人様の視線を独占していいのも、この世界で私だけだ!!
私の病的とも言える独占欲は、あっさりと五十倍の痛覚すらも凌駕してしまった。
「……ご主人様! 私も! 私のことも叩いて!!」
「……はい?」
予想外の私の言葉に、ローズマリーさんの鞭の手がピタリと止まる。
「あの泥棒猫ばっかり叩くなんてずるい! 私はご主人様の一番の犬でしょ!? なら、罰を受けるのも私が一番じゃなきゃおかしい!! ほら、もっと強く叩いてよ!! 痛くてもいいから、私だけを見て!!」
「なっ……! 図々しいわよ野良犬! ローズマリー様の貴重なお時間を奪う気!? 叩かれるのは私よ!」
「私の方が頑丈だもん! 何百発でも耐えられるもん! ご主人様のストレス発散には私の方が絶対に向いてる!! どけ泥棒猫ォ!!」
深夜の地下室。
本来なら恐怖のどん底に落とされるはずの「お仕置き部屋」は、いつの間にか『どちらがより主人の鞭を受けられるか』という、次元の低すぎる、そして狂気に満ちたマウント合戦の場へと変貌していた。
「……ご主人様ぁ! お願い、私だけを叩いて! 私だけを叱って!」
「ローズマリー様! この野蛮な雌犬ではなく、私に最高の罰を……!」
「…………」
泣き叫び、甘い喘ぎ声を交差させながら、床に這いつくばって自分に鞭を乞う二匹の犬。
そのあまりにもカオスで、救いようがなく背徳的な光景を見下ろしながら、ローズマリーさんはふっと小さくため息をつき……やがて、極上の、そして最恐のサディスティックな笑みを深めた。
「……ええ、分かりました。お前たち二匹とも、今日という日を後悔するまで、たっぷりと、平等に可愛がってあげましょう」
◇
翌日の朝。
アシュトン仮設邸宅のダイニングルーム。
「……おはようございます、カミーラさん」
「……本日の清掃メニューは、どこから手を付けましょうか……?」
朝食の準備をするカミーラさんの前に現れたのは、もはや「別人」と化した私とベアトリスだった。
私たちは、ピシッと背筋を伸ばし、一糸乱れぬ完璧な礼儀作法でお辞儀をした。
身体の節々は痛いのに、不思議と足取りは軽い。
顔はほんのりと赤く上気し、瞳には一切の反抗心がない。
あるのは、ただ絶対君主への純粋な恐怖と……それを遥かに上回る、脳髄までドロドロに溶けきった忠誠の悦びだけだった。
ご主人様は、私のことをたっぷり見てくれた。
私の方がたくさん叩かれたはずだ。
だから、私が一番犬だ。
えへへ。
「……随分と、おとなしくなりましたね。昨夜、ローズマリー様からたっぷりと『教育』を受けたようですが」
カミーラさんが冷たい目で問うと、私たちはビクッと肩を震わせ、そして同時に、だらしなく頬を緩めた。
「「は、はいぃっ……! 最高の夜でしたぁ……!」」
「……どうしようもないですね」
カミーラさんは、生ゴミを見るような目で私たちを一瞥し、紅茶のポットを手に取った。
かくして、アシュトン財閥の裏側に、決して誰にも見せられない強固な絶対服従のヒエラルキーが完成したのだった。
……あんな痛い思いは二度とごめんだけど。
でも、ご主人様のあの冷たくて美しい目と、私を打つ鞭の感触……一ヶ月に一回くらいなら、また味わいたいかも……。




