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第74話 「絶対所有権。女帝たちの狂宴」

【視点:ベアトリス】

【同日深夜:帝都地下・特別極秘牢】

光すらも凍りつくような、帝都の地下深く。  


絶え間なく滴る氷のような地下水と、壁に染み付いた血とカビの臭い。


政治犯や凶悪な重罪人だけが叩き込まれるというその不浄な空間に、私の最高級のイブニングドレスと、ダマスクローズの濃厚な香水はひどく場違いだった。  


けれど、私の足取りは羽のように軽かった。  


硬質で細いヒールが石床を叩く。カツン、カツン、カツン……。


その音さえもが、今の私には勝利の凱旋行進曲に聞こえる。


ギィィィ……と、錆びついた重い鉄格子が鈍い音を立てて開いた。  


薄暗い松明の光の先。  


冷たい石の壁にはめ込まれた、魔力を完全に遮断する重厚な特注の拘束具。


そこに、彼女は両手首を無造作に繋がれていた。  


あの下品な博覧会のレースで纏っていたレーシングスーツは、無骨な兵士たちに引き立てられた際の煤と泥で汚れ、氷室のような冷気が容赦なく彼女の白い肌を刺し貫いている。


「……こんなにみすぼらしくて、惨めな貴女を見るのは久しぶりね。ああ、背筋がゾクゾクするわ。ローズマリーちゃん」


思わず、熱を帯びた恍惚の吐息が漏れた。  


美しい。


なんて美しいのかしら。  


泥にまみれ、鎖に繋がれ、全てを奪われた絶望的な状況。


だというのに、彼女のルージュの瞳だけは一切の光が届かない暗闇の中でも、猛禽類のように鋭く輝いていた。

 

私を睨みつけるその冷徹な眼差し。


それこそが、私が憎み、愛してやまないローズマリーちゃんだ。


「……ベアトリス」


彼女は、冷たい壁に繋がれたまま表情一つ変えずに目を細めた。  


王都の安全な執務室で、優雅にワイングラスを傾けているはずの巨大商会の女帝である私が、なぜ、敵国である帝国の極秘牢に立っているのか。


彼女の優秀な頭脳は、必死に答えを探しているはずだ。


いいわ、もっと私のことで頭をいっぱいにしなさい。


「驚いたかしら? ……ええ、驚いて頂戴。あのヒルダに、少しばかり『投資』をさせてもらったのよ」


私はパチンと扇子を閉じ、壁に磔にされている私の「至宝」の前に歩み寄った。  


そして、最高級の革手袋に包まれた冷たい指先で、ローズマリーちゃんの顎を強引に、クイと持ち上げる。


指先から伝わる彼女の体温に、私の全身が甘く痺れる。


やっと、やっと触れられた。


「国境の警備隊、情報省の役人、そしてあのヒルダに至るまで……莫大な裏金をばら撒いて、貴女の『身柄の所有権』を丸ごと買い取ったの。……ええ、総資産の半分が吹き飛ぶくらいの、天文学的な額でね」


惜しいなんて、微塵も思わなかった。  


株式戦争での屈辱。


毎夜、貴女の顔が浮かんで眠れなかった日々。  


貴女の隣でキャンキャンと吠える、あの目障りな銀色の駄犬に対する我慢ならない殺意。


それら全てを清算し、貴方という絶対的な存在を「完全に私だけの所有物」にできるのなら、財産の半分など安いものだ。


護衛もつけず、単身で敵国に乗り込むリスクすら、私にとっては貴女を手に入れるための極上のスパイスだった。


「これで、貴女は完全に私のものよ。王国に連れ帰って愛玩動物にするのも、この地下室で一生私に飼われ続けるのも、全ては私の自由。……さあ、命乞いをしてごらんなさい。あの目障りな銀狼は、もう貴女を助けに来られないわ。今の貴女には、私しかいないのよ」


ああ、早く泣き顔を見せて。


恐怖に顔を歪め、屈辱の涙を流しながら「助けて、ベアトリス」と私に縋り付いて。


誰よりも誇り高い貴女が、私なしでは生きられないと泣き叫ぶ姿を見せて!  


そうすれば、私は貴女のすべてを赦し、誰よりも優しく抱きしめて、一生鳥籠の中で愛してあげるから。


だが。


「……ふふっ。あははははっ!」


ローズマリーちゃんは絶望するどころか、冷たい地下室の壁に反響するほど、高らかに、そして心底滑稽なものを見るように笑い出したのだ。


「な、何がおかしいのよ!」


思い通りにならない苛立ち。


けれど、心の底で歓喜する私もいる。  


ええ、そうでなくちゃ。


簡単に折れるような女なら、私はここまで執着しない。


「ええ、可笑しいですよ。貴女は相変わらず、買い物が下手ですね。……自分の所有物になるかどうかも分からない『不良債権』に、莫大な金を払うなんて。商人の風上にも置けません」


彼女は、魔力封じの拘束具が手首に深く食い込むのも構わず、私を真っ直ぐに射抜いた。


幾度となく私から財産を巻き上げた、冷酷無比な「勝負師」の目がそこにあった。


「私の(オーナーシップ)が欲しいなら、ヒルダのような三流の小悪党に金貨を払うのではなく、私と直接取引しなさい。支払うのは金ではなく、『貴女自身の魂』です。……ベアトリス」


「……っ!」


「ふふふ。そろそろ、私たちの腐れ縁に決着をつけてあげましょう。もっともシンプルな方法で……」


「……ふん! 何をする気!?」


「ポーカーです。学生時代よく二人でやったでしょう?……でも今回賭けるのは、お互いの『絶対所有権』。私が勝てば、貴女の商会も、莫大な財産も、そして貴女自身も、一生私のもの。……乗りますか?」


鎖に繋がれた状態からの、あまりにも傲慢な挑発。  


私は一瞬たじろいだが、すぐに三日月のような笑みがこぼれるのを止められなかった。


なんて愚かなの、ローズマリーちゃん。


貴女は自分の知略を信じすぎている。  


私には、貴女の挑発に乗るだけの「絶対的な勝算」が用意されているというのに。


「……いいわ。その高慢な鼻っ柱、完膚なきまでにへし折って、私の靴の裏を舐めさせてあげる」


                  ◇


買収された看守が、冷たい石のテーブルの上に使い古されたトランプの山と、百枚のチップを用意した。  


互いの全存在を賭けた、一対一のデスマッチ。  


彼女の手首の拘束は、カードをめくれる程度に鎖が緩められただけ。


魔力は封じられたままだ。


ゲームが始まり、数回のディールが静かに繰り返される。  


地下室には、カードが擦れる音と、チップが弾ける音だけが響く。  


私の心臓は、歓喜で狂ったように跳ねていた。  


負けるはずがない。


絶対に負けない仕掛けがあるのだから。


……ミスを犯したわね。


ローズマリーちゃん。


最後まで気高く散ろうとしているようだけど、無駄よ。


私の右眼球には、帝国軍の極秘の最新技術である『魔導透視レンズ』が仕込まれている。


視界には、カードの裏面に特殊な波長で塗布された微細な魔力インクがはっきりと透けて見えていた。


山札の順番も、そして何より、ローズマリーちゃんの手札も、完全に筒抜けだ。


「レイズよ。……どうしたの、ローズマリーちゃん? 随分と手札が悪そうね?」


私は、ローズマリーちゃんの手札が「ブタ」であることを確認し、容赦なくチップを釣り上げる。  


彼女は微かに眉をひそめ、悔しそうに下唇を噛みながらフォールドを繰り返した。  


チップは徐々に、しかし確実に私へと移動していく。  


ああ、たまらない。


あの絶対女王が、私の手のひらで無様に踊り、冷や汗を流している。  


いいわ、もっとよ。


もっと絶望しなさい。


もっと顔を歪めなさい! 


そして私の足元にひざまずくのよ!


                    ◇


そして、運命の最終ゲーム。  


テーブルの中央には、コミュニティカードが5枚。  


【スペードの10】、【スペードのジャック】、【スペードのクイーン】、【スペードのキング】、そして無関係な【ハートの2】。  


私の手札は【ハートの2】と【ダイヤの2】。


共有カードと合わせて「スリー・オブ・ア・カインド」だ。


一対一の勝負においては極めて強力な役。  


対して、透視レンズを通して見るローズマリーちゃんの手札は、【スペードの3】と【クラブの4】。


何の役にも絡まない、完全なるブタ。


「……これで最後よ、ローズマリーちゃん」


私は、勝利の美酒に酔いしれるような、ひどく甘い声で告げた。  


残りの全チップ――自身の魂と全財産を意味する山を、テーブルの中央に無造作に押し出す。


「オール・イン。……貴女の負けよ。さあ、全てを失った気分はどう? 泥にまみれて、這いつくばって、私に愛を乞いなさい!」


勝利の陶酔。


極上の優越感。  


この瞬間、ついに彼女は泣き崩れ、私に屈服する。


その確信があった。


「……コール」


ローズマリーちゃんの声は、氷のように静かで、そして私の喉元に突きつけられた刃のように鋭かった。  


顔を上げた彼女の表情に、冷や汗など一滴もかいていない。  


悔しそうに唇を噛んでいたのも、怯えたような素振りも、全てがただの三文芝居だとでもいうの?


そのルージュ瞳には、私を地の底へと突き落とす、絶対零度の冷酷さと、圧倒的な知の暴力が宿っていた。


「な……何を強がっているの!? 貴女のカードはブタよ! 私の透視にははっきりと……!」


「透視? ……ええ、最初から知っていましたよ」


彼女は、ふっと妖艶な息を吹きかけた。


「学生時代から、貴女が私に勝つためにどんな姑息な手段を使ってきたか、私が忘れているとでも? 貴女の右目が、カードを配る度に不自然に瞬きをすることくらい、一巡目で見抜いていました。それに、最新の魔導レンズには、まだピント調整のラグがあるようですね。……だから、ほんの少しだけ『細工』をさせてもらいました。私が完全に拘束されていると油断したのが、貴女の運の尽きです」


ローズマリーちゃんは、自身の指先を見せた。  


そこには、手錠と鎖を意図的に擦り合わせて流した『一滴の血』が滲んでいた。


「私の血液には、高密度な魔力が含まれています。手首を拘束された状態でも、指先に流れた血の魔力なら操作できる。拘束具の隙間からほんの一滴だけ血を滲ませ、それをカードを伏せる際に裏面になぞりつけました。……私の高密度の魔力が、帝国製の安物インクの配列を上書きし、貴女のレンズに『私が望む偽の映像』を見せていたのですよ」


「……幻術……!? まさか、そんな馬鹿な! 魔力封じの手錠をかけられた状態で、血の魔力だけで……!?」


一瞬にして血の気が引いた。  


全身の毛穴が開くような、強烈な悪寒が襲う。


嘘よ、そんなこと、人間業じゃない。


ローズマリーちゃんは、ゆっくりと、どこまでも優雅な所作で、伏せられていた手札を表に返した。

 

そこに描かれていたのは、スペードの3でもクラブの4でもない。  


【スペードのエース】と、カモフラージュのためのただのブランクカード。  


共有カードの【スペードの10、J、Q、K】と合わせれば――。



「……【ロイヤル・ストレート・フラッシュ】。完全なる勝利です、ベアトリス」


ガタンッ!


鈍い音を立てて、椅子から転げ落ち、冷たい石の床に這いつくばった。  


完璧なイカサマを用意し、莫大な資金を投じ、絶対の安全圏から一方的にいたぶるはずだった。  


それを、鎖に繋がれた状態から、己の血と知略のみで完全にひっくり返されたのだ。  


精神の根底から、私の矜持も、誇りも、全財産も、全てが粉々にへし折られた。


ガタガタと震え、過呼吸に陥る私の前に、ローズマリーちゃんがゆっくりと立ち上がる。


チャリン……と彼女の手首を縛っていた魔力封じの手錠は、音を立ててあっけなく床に落ちる。


魔力封じの手錠は、すでに破壊されていた。


カツン。


ローズマリーの冷たいヒールブーツの先端が、這いつくばる私の顎を強引に跳ね上げた。


「……契約は絶対です。約束通り、貴女の全ては私のものです」


「ひっ……! あ……うぅ……っ! いや……嘘よ……こんな……!」


涙と恐怖で顔がぐしゃぐしゃになる。  


負けた。


全てを失った。


この私が……。


この私が……、彼女の奴隷になるのだ。  


だというのに――。


ああ、どうして。  


どうして私は、背筋が凍るような恐怖の奥底で、得体の知れない「完全敗北の悦び」を感じてしまっているのだろう。  


私を見下ろすローズマリーちゃんは、これまでで最も美しく、最も残酷で、嗜虐的な笑みを浮かべていた。

 

その圧倒的な支配者の姿に、私の心臓は狂おしいほどに高鳴ってしまう。  


貴女はやっぱり、私なんかには到底手の届かない、絶対的な女王様だった。


「ようこそ、アシュトン家へ。……今日から貴女は、私の『二番目のペット』です。靴の裏を舐めて、忠誠を誓いなさい」


ああ。  


私の愛しい、私の恐ろしい女王様。

 

私は震える唇を開き、抗えない歓喜と陶酔と共に、彼女の冷たい靴の裏へと顔を寄せた。

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