第73話 「反撃の狼煙。銀狼の牙を鍛え上げろ」
【夜:帝都・第十三区画スラム街】
肺を焼くような酸っぱい煤煙と、鉄錆、そして腐りかけたヘドロの悪臭。
華やかで暴力的な熱狂に包まれていた水晶宮から一転、ここは帝都の最下層たるスラム街だ。
太陽の光すら届かない、貧民と犯罪者たちの吹き溜まり。
「……ハァッ、ハァッ……! ここまで来れば、追っ手は……!」
私は、油と泥にまみれた壁に背中を預け、荒い息を吐き出した。
その後ろから、魔導計算機をしっかりと抱きしめたイザベラさんと、重い工具箱を担いだガンテツ姉さんが息を切らして追いついてきた。
「イザベラさん! ガンテツ姉さん! 怪我は!? 撃たれてない!?」
血相を変えて二人に駆け寄る。
イザベラさんは首を横に振り、ガンテツ姉さんも太い腕で自身の体をバンバンと叩いて見せた。
「平気ですわ……! 転んで膝を擦りむいたくらいで……」
「アタシも無傷だ。……社長のおかげで、弾の一発もかすっちゃいねえ」
ガンテツ姉さんの言葉に、私は自身の両手を見下ろした。
……無傷。
誰も怪我をしていない。
私の体にも、かすり傷一つない。
ローズマリーさんの冷酷なまでの瞬時の判断と、自らを囮にするという自己犠牲によって、私たちは完全な無傷で敵地を脱出できてしまったのだ。
「……くそっ」
ドガァァァンッ!!
私は廃工場の分厚いコンクリートの柱を、ありったけの力で殴りつけた。
柱には深い亀裂が走り、パラパラと瓦礫が崩れ落ちる。
衝撃で拳の皮が破れ、血が滲む。
でも、足りない。
こんな痛みじゃ、胸の奥で暴れ狂うこの怒りは誤魔化せない!
「私のせいだ……。私が、もっと強ければ……!」
脳裏に焼き付いているのは、冷たい手錠をかけられ、無数の銃口を向けられながら連行されていくローズマリーさんの背中。
頬には、ご主人様から受けた強烈な平手打ちの熱が、まだ痛いほどに残っていた。
あの痛みが、愛おしい。
私を逃がすために、あえて悪役を演じてくれたあの人の、不器用で残酷な優しさが、私の心をズタズタに引き裂いていく。
――『貴女は私の駄犬でしょう? なら、主人の命令に絶対服従しなさい』
――『私が時間を稼ぎます。その間に牙を研ぎ、私を奪い返しに来なさい』
「ローズマリーさんは……私を逃がすために、わざと捕まったんだ。私がご主人様を守る番犬なのに、どうして主人が盾になってるの!? ご主人様に守られて無傷だなんて……っ! こんなの、間違ってる……!」
私は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
自分の中の銀色の魔力が無意識に漏れ出す。
ご主人様がいない世界なんて、生きている意味がない。
廃工場は重い沈黙に包まれた。
「……いい加減にしろ、アリア」
ガンテツ姉さんが工具箱をドンと置き、私の前に歩み寄る。
彼女は、私の前にしゃがみ込むと、血のにじむ拳を、自身の厚い両手で力強く包み込んだ。
「ガンテツ姉さん……」
「社長がアタシらを無傷で逃がしたのはな、お前が『絶対に自分を迎えに来る』って、心の底から信じ切ってるからだ」
ガンテツ姉さんの瞳が、暗闇の中で静かな炎のように燃えていた。
「考えてもみろ。あの損得勘定の塊みたいな社長が、勝算もないのに自分の身を差し出すと思うか? アタシらを逃がせば、必ず反撃の目があると踏んだんだ。お前が無傷でいることこそが、社長の『最強の武器』なんだよ」
「でも……! 帝国は……! 今頃、痛い目に遭ってるかもしれないのに!」
「だから、アタシたちで助けに行くんだろうが!!」
ガンテツ姉さんの一喝が、廃工場にビリビリと響き渡った。
「牙を研げって言われたんだろうが! ここでメソメソ泣いて、自分の手を傷つけてる暇があるなら、どうやって取り戻すかを考えやがれ! お前はアシュトンの『忠犬』だろうが!」
――ドクン、と。
私の心臓が、大きく脈を打った。
ガンテツ姉さんの背後では、イザベラさんが涙を必死に堪えながら、暗がりの中で魔導計算機を弾き始めていた。
「ガンテツさんの言う通りですわ……! ……社長の生還確率は、わたくしたちが立ち上がるかどうかにかかっています!」
「……イザベラさん。ガンテツ姉さん」
二人の強い視線を受け、私の視界を覆っていた涙が、熱で蒸発していく。
代わりに、腹の底からドロドロとした怒りと、冷たく鋭い決意が込み上げてきた。
「……うん。そうだね。……泣いてる場合じゃない。私が泣いてたら、またローズマリーさんに『駄犬』って怒られちゃう」
私は立ち上がり、パンッと両頬を叩いて気合を入れた。
もう迷わない。泣き言は終わりだ。
私は猟犬。
主人のために敵の喉笛を食いちぎり、鉄の壁だろうと噛み砕く、狂暴な銀狼だ。
「へっ、いい目になりやがった。アリアはこうでなくちゃな」
ガンテツ姉さんはニヤリと笑うと、廃工場の奥――ガラクタの山へと足を向けた。
そこには、かつて帝国の軍需工場で使われていたと思われる、廃棄された分厚い装甲板、焼け焦げた魔導ケーブル、そして使い古された魔石が山のように積まれていた。
「帝国のゴミ捨て場ってのは、宝の山だな。設計思想は無駄が多いが、素材の硬度と魔力伝導率だけは一丁前だ。……これで、お前に極上の『牙』を作ってやる」
ガンテツ姉さんは工具袋から携帯用の魔導溶接機を取り出すと、迷うことなく作業を始めた。
多脚戦車の分厚い装甲すらも粉砕し、要塞の分厚い壁をぶち抜くため、極限まで物理破壊力を高めた一点物の特注装備。
青白い溶接の火花が散る。
その眩しい光に、胸が高鳴る。
「アリア! お前の魔力は純度が高すぎて、並の金属じゃすぐに自壊しちまう。だから、この帝国の廃棄装甲を三枚重ねにしてフレームを組む! 重さはどうだ!?」
「全然平気! もっと重くてもいい! 一撃であの多脚戦車をスクラップにできる威力が欲しい!」
「おうよ! 任せとけ!」
カンッ! カンッ! と鋼を打つ音が響く。
まるで、反撃の狼煙を上げる太鼓の音のようだ。
◇
「待ってください、ガンテツさん! 装甲の隙間に、この魔導基盤を組み込んでください!」
イザベラさんが、自らの服の裾を破って作った即席の布に、魔力インクでびっしりと術式を書き込んだものを差し出した。
「こりゃあ……防御術式か?」
「はい! 『物理・魔法耐性バリア』の展開術式ですわ! アリアさんはいつも自分の防御を捨てて突っ込んでしまいますから、わたくしが後方から遠隔でバリアの出力を調整してサポートします!」
イザベラさんは、私の服の背中にも、防護のルーン文字を次々と刻み込んでいく。
「わたくしも、社長を助けたいです……! また帝国の思い通りにはさせません! ですから、マリアさんがどれだけ無茶をしても絶対に壊れないように、わたくしの全魔力でサポートします!」
背中に刻まれる魔力の温もり。
私一人じゃない。
アシュトン・モーターズの魂が、今ここに結集している。
ご主人様、見ていてください。
貴女の選んだ社員たちは、誰一人として心が折れていませんよ。
◇
数時間後。
夜明け前の冷たい空気が流れ込む中、ついにそれは完成した。
「……出来たぜ。アシュトン・モーターズ特製、魔導強化ガントレット『シルバー・ファング』だ!」
ガンテツ姉さんが差し出したのは、肘から先を完全に覆う、重厚かつ凶悪な一対の鋼鉄の篭手だった。
漆黒に塗られた無骨な装甲の隙間からは、魔力増幅用の赤い魔石が血管のように這い、鈍く光っている。
そして、拳の先端には多脚戦車の分厚い装甲をも貫くための、凶悪なパイルバンカーが仕込まれていた。
私が腕を通し、カシャコンッ!と重厚なロック音が響く。
ズシリと重い鋼鉄の感触。
最高だ。
これなら、どんな装甲も紙切れみたいに引き裂ける。
拳を握り込むと、内蔵された魔石が私の魔力と共鳴し、イザベラさんの術式が発動して、銀色と淡い緑色のオーラがバチバチと火花を散らす。
機械と魔法、そして私の野性が、完全にリンクした。
「すごい……! 力が、底から湧き上がってくるみたい……!」
私は、二人の頼もしい仲間の顔を交互に見つめ、ニカっと最高に獰猛な笑みを浮かべた。
もう、後悔も絶望もない。
あるのは、主人を奪い返すという純粋な暴力衝動だけだ。
「ありがとう。これなら、帝国軍が何万人束になってきても、絶対に負けない」
ガキンッ!
両拳を力強く打ち合わせると、強烈な衝撃波が周囲の塵を吹き飛ばした。
「行こう。……私たちの社長を、奪い返しに!」
廃工場のわずかな隙間から、帝都の空が白み始めていた。
はるか遠く、ローズマリーさんが囚われているであろう場所を見据え、深く息を吸い込む。
待っていてください、ご主人様。
貴女が「放った」飢えた獣が、今、最高の牙を引っさげて、帝国を食い散らかしに行きます!




