表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

83/98

第72.5話 「主人の願い」

【視点:ローズマリー】

【同日午後:帝都・水晶宮クリスタル・パレス特設サーキット・ゴール地点】


ガンテツが放った消火器の白い煙が、ゆっくりと晴れていく。  


視界が開けた先には、銃口を構える無粋な帝国兵たちの姿だけがあった。  


泣き叫び、私に手を伸ばそうとしていたあの愛おしい駄犬の姿は、もうどこにもない。


ふう、と私は誰にも聞こえないほどの小さなため息をついた。  


右手の平に、微かな熱と痺れが残っている。  


先ほど、アリアの頬を全力で張り飛ばした感触だ。  


痛かったでしょうね、アリア。


あんなにも純粋に私を守ろうとしてくれた貴女を、私は大勢の前で罵倒し、殴りつけたのだから。  


貴女の傷ついたような、絶望に染まった見開かれた瞳が、私の網膜に焼き付いて離れない。


胸が締め付けられるように痛む。


けれど、許しなさい。  


あのまま貴女を暴れさせていれば、貴女のその美しい体は、狙撃手たちの凶弾によって無惨に血で染まっていたでしょう。  


私の誇りであるアシュトン・モーターズも、貴女という最高の芸術品も、こんな薄汚い帝国の連中に傷つけられることなど、私には絶対に耐えられなかった。  


だから、あえて貴女を遠ざけた。


大切な、大切な、世界で一番愛おしい駄犬。


ガチャリ。  


冷たく重い金属音が、私の思考を現実に引き戻す。  


私の細い手首には、魔力を封じる重厚な手錠がかけられていた。


肌に食い込む鉄の冷たさが、不快でたまらない。


アリアの温かい体温が、すでに恋しかった。


「……あら。随分とあっさり駒を捨てたのね。あの銀狼を逃がすなんて、貴女らしくないわ」


白衣を着た帝国次官――ヒルダが、つまらなそうに鼻を鳴らして私を見下ろしてきた。


その顔を見て、私は思わず噴き出しそうになるのを堪えた。  


ああ、なんと愚かで、哀れな女だろう。  


魔力波形だの、表面的なデータばかりを追っているから、本質を見誤るのだ。


貴女は、私とあの子を結ぶ鎖の異常性を、まったく理解していない。


「勘違いしないでいただきたい。……あれは『逃がした』のではありません。『放った』のです」


私は、冷たい手錠の感触を指先で確かめながら、極上の笑みを浮かべてみせた。  


強がりではない。


心の底からの、歓喜に満ちた微笑みだ。


「私の駄犬は、腹を空かせると凶暴になりますからね」


あの子は今頃、私を奪われた喪失感と、何もできなかった己への怒りで、腹を空かせた本物の化け物へと変貌しているはずだ。  


私がいないと生きていけないように、たっぷり時間をかけて「調教」したのだから。


鎖を解かれた獣が、ただ大人しく逃げおおせるわけがない。  


あの子は必ず牙を研ぎ澄まし、私の匂いを追って、地獄の底からでも私を奪い返しに来る。


私にはそれが、明日太陽が昇ることよりも確かな真理として分かっていた。


「……精々、喉笛を食い破られないように気をつけることです。あの牙は、今、世界で最も鋭く研ぎ澄まされていますよ」


「ふん。強がりを。……連行しなさい。地下牢へ」


ヒルダが忌々しそうに顔を背け、兵士たちに命令を下す。  


銃口に囲まれ、私は帝国の暗い地下牢へと歩みを進めた。

 

足取りは羽のように軽い。  


両手を縛られ、敵地のど真ん中で囚われの身となっているというのに、不思議と恐怖は微塵もなかった。


待っていますよ、アリア。  


この退屈で薄暗い牢獄の扉を、貴女がその力で蹴り破り、血と硝煙の匂いを纏って私を迎えに来てくれるその瞬間を。  


その時こそ、貴女を私の腕の中にきつく抱きしめ、世界中の誰にも見せたことのない甘い言葉で、たっぷりと褒め称えてあげましょう。


背筋は自然とピンと伸びる。  


私は罪人として連行されているのではない。


私の最愛の騎士が迎えに来るまでの間、ほんの少し、この無礼な国で休息を取るだけだ。


まるで新たな領地へ赴く女王のような威厳を纏い、私はクリスタル・パレスの闇の中へと消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ