第72.5話 「主人の願い」
【視点:ローズマリー】
【同日午後:帝都・水晶宮特設サーキット・ゴール地点】
ガンテツが放った消火器の白い煙が、ゆっくりと晴れていく。
視界が開けた先には、銃口を構える無粋な帝国兵たちの姿だけがあった。
泣き叫び、私に手を伸ばそうとしていたあの愛おしい駄犬の姿は、もうどこにもない。
ふう、と私は誰にも聞こえないほどの小さなため息をついた。
右手の平に、微かな熱と痺れが残っている。
先ほど、アリアの頬を全力で張り飛ばした感触だ。
痛かったでしょうね、アリア。
あんなにも純粋に私を守ろうとしてくれた貴女を、私は大勢の前で罵倒し、殴りつけたのだから。
貴女の傷ついたような、絶望に染まった見開かれた瞳が、私の網膜に焼き付いて離れない。
胸が締め付けられるように痛む。
けれど、許しなさい。
あのまま貴女を暴れさせていれば、貴女のその美しい体は、狙撃手たちの凶弾によって無惨に血で染まっていたでしょう。
私の誇りであるアシュトン・モーターズも、貴女という最高の芸術品も、こんな薄汚い帝国の連中に傷つけられることなど、私には絶対に耐えられなかった。
だから、あえて貴女を遠ざけた。
大切な、大切な、世界で一番愛おしい駄犬。
ガチャリ。
冷たく重い金属音が、私の思考を現実に引き戻す。
私の細い手首には、魔力を封じる重厚な手錠がかけられていた。
肌に食い込む鉄の冷たさが、不快でたまらない。
アリアの温かい体温が、すでに恋しかった。
「……あら。随分とあっさり駒を捨てたのね。あの銀狼を逃がすなんて、貴女らしくないわ」
白衣を着た帝国次官――ヒルダが、つまらなそうに鼻を鳴らして私を見下ろしてきた。
その顔を見て、私は思わず噴き出しそうになるのを堪えた。
ああ、なんと愚かで、哀れな女だろう。
魔力波形だの、表面的なデータばかりを追っているから、本質を見誤るのだ。
貴女は、私とあの子を結ぶ鎖の異常性を、まったく理解していない。
「勘違いしないでいただきたい。……あれは『逃がした』のではありません。『放った』のです」
私は、冷たい手錠の感触を指先で確かめながら、極上の笑みを浮かべてみせた。
強がりではない。
心の底からの、歓喜に満ちた微笑みだ。
「私の駄犬は、腹を空かせると凶暴になりますからね」
あの子は今頃、私を奪われた喪失感と、何もできなかった己への怒りで、腹を空かせた本物の化け物へと変貌しているはずだ。
私がいないと生きていけないように、たっぷり時間をかけて「調教」したのだから。
鎖を解かれた獣が、ただ大人しく逃げおおせるわけがない。
あの子は必ず牙を研ぎ澄まし、私の匂いを追って、地獄の底からでも私を奪い返しに来る。
私にはそれが、明日太陽が昇ることよりも確かな真理として分かっていた。
「……精々、喉笛を食い破られないように気をつけることです。あの牙は、今、世界で最も鋭く研ぎ澄まされていますよ」
「ふん。強がりを。……連行しなさい。地下牢へ」
ヒルダが忌々しそうに顔を背け、兵士たちに命令を下す。
銃口に囲まれ、私は帝国の暗い地下牢へと歩みを進めた。
足取りは羽のように軽い。
両手を縛られ、敵地のど真ん中で囚われの身となっているというのに、不思議と恐怖は微塵もなかった。
待っていますよ、アリア。
この退屈で薄暗い牢獄の扉を、貴女がその力で蹴り破り、血と硝煙の匂いを纏って私を迎えに来てくれるその瞬間を。
その時こそ、貴女を私の腕の中にきつく抱きしめ、世界中の誰にも見せたことのない甘い言葉で、たっぷりと褒め称えてあげましょう。
背筋は自然とピンと伸びる。
私は罪人として連行されているのではない。
私の最愛の騎士が迎えに来るまでの間、ほんの少し、この無礼な国で休息を取るだけだ。
まるで新たな領地へ赴く女王のような威厳を纏い、私はクリスタル・パレスの闇の中へと消えていった。




