第72話 「収穫。引き裂かれた主従」
【同日午後:帝都・水晶宮特設サーキット・ゴール地点】
チェッカーフラッグが打ち振られ、ブラック・スワンは歓喜の渦を巻き起こしながらフィニッシュラインを駆け抜けた。
タイヤから白煙を上げながら、ゆっくりとピットエリアへと滑り込む。
「やった……! 勝ったよ、ローズマリーさん!!」
私は、汗ばんだ銀髪を揺らして運転席から飛び出した。
極限の集中から解放された安堵と、圧倒的な勝利の喜びに体が打ち震えている。
助手席のドアが開き、ローズマリーさんが優雅に降り立つ。
あんな無茶苦茶な走りをしたのに、彼女のレーシングスーツには乱れ一つない。
集まる観衆の視線を王者のように受け流しながら、彼女は私の頭を優しく撫でてくれた。
「ええ、よくやりました。……我がアシュトン・モーターズの技術と、私の駄犬の優秀さを、世界に証明できましたね」
ご主人様の手のひらの温度が、頭皮から全身にじんわりと染み渡る。
ああ、幸せだ。
観客席からは、国境を越えた惜しみない拍手と喝采が降り注いでいる。
嬉しい。
ガンテツ姉さんとイザベラさんも歓声を上げながら駆け寄ってきた。
「しゃ、社長ぉぉ! アリアさん! 最高でしたわ!」
「へっ、帝国のガラクタなんざ目じゃねえ! アタシたちの黒鳥の圧勝だぜ!」
勝利の美酒。
ご主人様の笑顔。仲間たちの歓声。
これ以上ない、完璧な瞬間だった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!!
その祝祭の空気を無惨に切り裂いたのは、無機質で冷たく重い「軍靴の音」だった。
歓声をかき消すように、水晶宮の出入り口から黒ずくめの軍服を着た部隊が雪崩れ込んでくる。
数百名にも及ぶ武装兵士たちが、一切の感情を排した動きで、私たちアシュトンのピットを何重にも包囲する。
私の鼻が、濃密な火薬と鉄の匂い、そして明確な悪意を嗅ぎ取った。
毛が逆立つ。
「な、なんだ!? 何事だ!」
ガンテツ姉さんが工具を握り直し、イザベラさんが魔法詠唱の構えをする。
兵士たちの構える最新式の魔導小銃が、一斉に私たちへと向けられた。
その銃口の隙間を縫うように、一人の女が、パン、パン、と芝居がかった拍手をしながら歩み出てくる。
「……素晴らしい走りだったわ。王国には過ぎたる技術ね」
白衣を翻し、嫌味な眼鏡を光らせた帝国次官、ヒルダ。
彼女は、血のように赤いルージュを引いた唇を歪め、冷酷な宣告を下した。
「ローズマリー。並びにアシュトン・モーターズ社員。……貴方たちを『国家反逆罪』および『軍事機密窃盗容疑』で拘束するわ」
「スパイ……!? ふざけるな!」
ガンテツ姉さんが怒鳴り声を上げる。
「アタシたちは招待されてここに来たんだぞ! 正々堂々とレースで勝っただけだ! 何がスパイだ!」
「あら、とぼけないでちょうだい」
ヒルダは、自身の背後に控える兵士に合図を送った。
兵士が、無惨にひしゃげた多脚戦車の一部――何者かによって「意図的に切断された」形跡のある魔力パイプを放り投げる。
「レース前、我が帝国の多脚戦車に細工をした形跡が見つかったのよ。……おまけに、貴方たちのトラックからは、帝国軍の極秘図面が発見されたわ。完璧なスパイ行為じゃない?」
「なっ……! 図面なんて知らないよ!」
「……見え透いた三文芝居ですね。帝国の次官ともあろう者が、このような強引な手段に出るとは」
ローズマリーさんは、銃口を向けられながらも微塵も動揺せず、冷ややかにヒルダを睨み据えた。
「強引? 効率的と言ってちょうだい。……さあ、大人しく捕まりなさい。抵抗すれば、ここで全員射殺よ」
兵士たちが、ジャラリ、と手錠を鳴らしながらじりじりと距離を詰めてくる。
その冷たい金属音が、私の理性の糸を、プツリと、完全に切断した。
「……ご主人様に」
低く、地を這うような獣の声が、自分の口から漏れる。
全身から、先ほどのレース以上の濃密な「銀色のオーラ」が立ち上り始める。
血が沸騰する。
思考が吹き飛ぶ。
残ったのは、たった一つの純粋な殺意だけ。
「ご主人様に……触るなァァァッ!!」
ドンッ!!
私は瞬きする間に兵士の懐に潜り込み、フル装備の兵士の体を羽虫のように軽々と放り投げた。
宙を舞う兵士。
乱れる陣形。
魔導小銃が火を噴くが、止まって見える。
私は弾丸の軌道を野性の勘で読み切り、残像を残して回避する。
「アリアさん!?」
「やめろアリア!!」
イザベラさんとガンテツ姉さんが叫ぶが、もう聞こえない。
私の狙いはただ一つ。
このふざけた罠を仕掛けた女狐、ヒルダの首だ。
あの細い首に爪を突き立てて、動脈を引きちぎってやる!
「アンタだけは……絶対に殺すッ!」
爪を、ヒルダの喉元に突きつける。
だが、ヒルダは全く動じず、逃げようともせず、ただ狂気に満ちた恍惚の目で私の爪を見つめていた。
気持ち悪い。
でも、そんなことはどうでもいい!
ヒルダの皮膚を裂く、ほんの数ミリ手前。
耳に、脳髄に、魂の奥底に、絶対的な拘束力を持つ声が響いた。
「――お座り、アリア!!」
ピタッ。
ヒルダの喉元数ミリのところで、腕が、体が、強制的に停止した。
殺意が急ブレーキをかけられ、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
動けない。
体が、本能が、主人の声に逆らうことを拒絶した。
「ご、ご主人様……!? どうして!」
振り返ると、ローズマリーさんは自ら両手を前に差し出し、兵士に手錠をかけさせようとしているところだった。
なんで?
どうしてそんな奴らに従うの!?
「やめなさい、アリア。……これ以上抵抗すれば、ガンテツやイザベラまで殺されます」
ハッとして、ローズマリーさんの視線の先を追う。
水晶宮の上層階や周囲のビルから、数十丁の狙撃銃が、ガンテツ姉さんやイザベラさんに照準を合わせている光景があった。
息が止まる。
「これ以上の抵抗は無意味です。……私は大人しく貴方たちの法に従いましょう」
「ご主人様……! 何言ってるの! 私がこいつら全員やっつけて――」
私が涙声で叫び、それでもローズマリーさんのために兵士に向かっていこうとした、その瞬間。
ローズマリーさんは、私の頬を力一杯張り飛ばした。
パーンッ!!
乾いた音が響く。
痛くない。
でも、心臓を直接素手で握り潰されたような衝撃だった。
目を見開き、凍りついた。
「……私の命令が聞けないのですか、この駄犬」
ローズマリーさんの瞳は、氷のように冷たく、そして恐ろしいほどに澄み切っていた。
「私の会社が、私の名誉が、たかが一国の軍隊ごときに奪われると本気で思っているのですか?」
彼女は、周囲の兵士にも聞こえるように、あえて見下すような、冷酷な言葉を紡ぐ。
「駄犬は邪魔です。……ガンテツ、イザベラ! その馬鹿犬を連れて、今すぐここから逃げなさい!」
「社長……!」
「でも……!」
ローズマリーさんは、自ら両手を前に出し、帝国兵に重厚な魔力封じの手錠をかけさせながら、私を冷徹に見下ろした。
「貴女は私の駄犬でしょう? なら、主人の命令に絶対服従しなさい」
「……っ……」
彼女の視線が、一瞬だけ、誰にも見えないほどの優しさを帯びた。
「これは敗北ではありません。『戦略的撤退』です。……私が時間を稼ぎます。その間に牙を研ぎ、私を奪い返しに来なさい。……できますね?」
ドクン、と。
私の心臓が、跳ね上がった。
見捨てられたんじゃない。
これは、私への「最大の任務」だ。
私なら絶対にやれると、この絶望的な状況下でなお、ご主人様は私を信じ切っている。
「行きなさい!! ……命令です!!」
ガンテツ姉さんは、ギリッと奥歯を噛み締め、ピットの隅にあった大型消火器を持ち上げ、レバーを引いた。
ドォォォォンッ!!
視界を奪う白い消火剤が、一瞬にして周囲を覆い尽くす。
「ガンテツ姉さん!!」
「行くぞアリア! 社長の覚悟を無駄にすんじゃねえ!」
「ご主人様! ローズマリーさん!!」
ガンテツ姉さんとイザベラさんが、私を両脇から力ずくで抱え込み、煙の向こう側へと引きずっていく。
頭では分かっている。
これが最善だと。
でも、心が、体が、魂が引き裂かれるように痛い。
あんな奴らのところに、私の光を、私の全てを、一人で置いていくなんて!
悲痛な叫び声が、遠ざかるにつれて路地裏の闇へと溶けていった。




