第69.5話 「メディアの暴走と、女帝の激昂」
【視点:ベアトリス】
【翌朝:ベアトリス商会本社ビル・最上階執務室】
静寂だけが、私の部屋を支配していた。
眼下には王都の街並みが広がっている。
私が支配し、動かし、手の中で転がしてきた経済の海。
だが今、その海は私の意のままにならない荒波となって、私自身の足元を浸食し、玉座を揺さぶっていた。
――完敗だったわ。
私は、手にした最高級の赤ワインのグラスを揺らしながら、先日の悪夢を反芻する。
アシュトン・モーターズの上場。
私は完璧なシナリオを描いていた。「空売り」と「風説の流布」。
恐怖で市場を凍りつかせ、ローズマリーちゃんの夢を紙屑に変え、絶望した彼女が私の膝に泣きついてくる……。
「助けてください、ベアトリスお姉様」と。
そんな甘美な結末を夢見ていたのに。
けれど、彼女は私の予想を遥かに超えてきた。
あの野蛮な銀色の駄犬に現金を運ばせ、物理的にすべての株を買い占めるという「踏み上げ」の罠。
論理を、圧倒的な暴力と信頼でねじ伏せられた。
その代償として支払った違約金は、私の資産の相当部分を吹き飛ばした。
悔しい?
ええ、はらわたが煮えくり返るほどに。
自分の浅はかさを呪い、爪で肌を掻きむしりたくなるほどに。
でも同時に、背筋が震えるほどの歓喜も感じていた。
私をここまで追い詰め、私からこれほどの金を奪い取った人間は、世界でただ一人。
ローズマリー。
貴女だけよ。
「……ふふ。高い授業料だったけれど、貴女の実力は認めてあげるわ。これからは、対等の『宿敵』として愛してあげる」
そう呟いて、私は秘書が恐る恐る持ってきた朝刊を広げた。
そこには、先日の私の無様な敗北と、アシュトンの華々しい勝利がデカデカと載っているはずだ。
その屈辱をスパイスにして飲むワインも、また一興――そう思っていた。
しかし。
目に飛び込んできたのは、そんな経済ニュースではなかった。
『世紀のロマンス!? アルベルト王子、アシュトン社長に熱烈求愛!』
『シンデレラ・ストーリー! メイドから王妃へ!?』
紙面を飾っていたのは、地面に跪き、ローズマリーちゃんの手を取ってキスをする、金髪の男の写真。
「……は?」
思考が停止した。
アルベルト王子。
王家の飾り人形。
世間知らずの温室育ち。
彼が、ローズマリーちゃんに?
求愛?
愛を囁いた?
プツン。
私の中で、何かが焼き切れる音がした。
理性の糸か、あるいは我慢の限界か。
バリーンッ!!
私の手から離れたワインボトルが、壁に激突して粉々に砕け散った。
深紅の液体が、まるで返り血のように壁紙を染め、高価な絨毯へと滴り落ちる。
秘書が悲鳴を上げて部屋から逃げ出した。
構うものか。
そんな雑音はどうでもいい。
「……ふざけないで」
鏡に映った自分の顔は、嫉妬と怒りで般若のように歪んでいた。
醜い。
でも、これが私の本性だ。
金を取られた屈辱?
市場での敗北?
そんなものは、この写真一枚に比べれば、蚊に刺された程度のことだ。
許せない。
絶対に許せない。
ローズマリーちゃんが誰かのものになる?
そんな可能性が存在すること自体が、宇宙の理に反しているわ!
「私のローズマリーちゃんよ……。私が手塩にかけていじめて、育てて、追い詰めた最高の玩具を……!」
私は自分の爪を噛んだ。
ギリギリと音を立てて、鉄の味が口の中に広がる。
思い出してごらんなさい。
彼女がうちの国に留学して来たあの日から、誰が一番近くで、誰よりも熱心に彼女を見てきたと思っているの?
道路の出口を塞いで意地悪をしたのも、資材を買い占めて困らせたのも、そして今回、株価を操作して絶望の淵に立たせたのも。
すべては、彼女の才能を開花させるための「愛の鞭」だったのよ!
私が与えた試練を乗り越えるたびに、彼女は美しく、強く、鋭くなっていった。
泥にまみれ、汗を流し、それでも折れない鋼の瞳。
あの輝きを引き出したのは私だ。
私だけが彼女の価値を理解し、私だけが彼女と対等に渡り合える。
ローズマリーは、私の「作品」であり、私の「半身」なのよ!
「どこの馬の骨とも知れない王子風情が、横からかっさらうなんて許さないわ……!大人しく野蛮な銀色の駄犬を妃にしていればよいものを!」
王子? 国からの支援?
ふざけるな。
貴様は彼女が泥水を啜っている時、どこにいた?
完成された果実だけを、甘い言葉で掠め取ろうとするハイエナ。
彼女を支配していいのは、苦難を与え続け、彼女の人生を彩り続けた、この私だけよ!
私の中で、ローズマリーちゃんへの執着が、愛憎を超えた黒い狂気へと変貌していくのが分かった。
もう、ビジネスの枠組みなんてどうでもいい。
利益も損失もない。
金も、権力も、すべてはこの瞬間のためにある。
彼女を私の檻に閉じ込めるためだけにある!
私はデスクの魔導通信機のスイッチを叩き割る勢いで入れた。
「総員、臨戦態勢! 今すぐ法務部と工作員を総動員しなさい!」
受話器の向こうで部下が怯えている。
「し、しかし、相手は王家で……」
「うるさい! 王子の介入を阻止するわよ。どんな手を使ってもね! スキャンダルでもでっち上げなさい! 王室の予算に圧力をかけなさい! 必要なら王家ごと買収してやるわ!」
私は血走った目で、壁の深紅の染みを見つめた。
それは、私の心を焦がす炎の色だ。
「待っていなさい、ローズマリーちゃん。……貴女をあんな男の『お飾り』になんてさせない。貴女は一生、私との泥沼の喧嘩を踊り続けるのよ」
愛しているわ。
だからこそ、誰にも渡さない。
貴女は私と戦って、私に悩まされて、私のことだけを考えていればいいのよ。
地獄の果てまで追いかけて、その首に私の首輪をかけてあげる。
覚悟しなさい、アルベルト。
貴方は今、この国の経済を支配する「悪役令嬢」の、一番触れてはいけない逆鱗に触れたのよ。




