第67話 「株価操作。見えざる手」
【上場翌日・午前9時:アシュトン・モーターズ本社・プレハブ社長室】
「し、資産が……倍になりましたわ! いえ、3倍ですわ!」
朝一番、イザベラさんが魔導計算機を弾きながら、上ずった声で叫んだ。
昨日の上場初値、金貨100枚。
私たちアシュトン・モーターズの時価総額は、王国の歴史上類を見ないスピードで膨れ上がっていた。
画面上の数字が増えていく。
まるで魔法みたいだ。
「すごいですよローズマリーさん! これなら借金も返せるし、新しい工場も建て放題ですね! もうお金の心配をしなくていいんですね!」
私は無邪気に喜んで、ご主人様に抱きついた。
嬉しくてたまらない。
これで、昨日の夜みたいに、ご主人様が眉間に皺を寄せて、冷めたコーヒーを啜りながら帳簿を睨むこともなくなるんだ。
貴女には、いつだって優雅に紅茶を飲んでいてほしいから。
だが、ローズマリーさんはコーヒーを啜りながら、魔導通信機に表示される数字を、氷のような冷ややかな目で見つめていた。
「……浮かれるのはまだ早いです。ベアトリスが、指をくわえて見ているはずがありません」
その言葉が終わるか終わらないかの時だった。
彼女の予感は、最悪の形で的中する。
ザザッ……。
通信機の数字が、不気味に赤く明滅した。
現在の株価:金貨105枚。
そこへ、突如として「5万株」もの売り注文が浴びせられたのだ。
「えっ……? ご、5万株!?」
私の口から悲鳴が漏れる。
誰かが一瞬で、値段なんてどうでもいいと言わんばかりに叩き売ってきた。
数字が落ちる。
胃が浮くような感覚。
ガクンッ。
株価が垂直落下した。
100枚……80枚……60枚……。
積み上げた希望の塔が、音を立てて崩れていく。
待って。
止まって。
なんで?
◇
それは単なる売りではなかった。
同時刻、王都中に猛毒が撒かれたのだ。
『号外! アシュトン車に重大な欠陥発覚! 爆発事故隠蔽か?』
『社長のローズマリー、公金横領の疑いで捜査へ!』
『ハイウェイの橋が崩落する恐れあり! 通行止め間近!』
根も葉もない嘘。デマ。フェイクニュース。
あんなに頑張って作った車が、爆発する?
あんなに命がけで守った橋が、落ちる?
ふざけるな! 全部嘘だ!
私が一番知ってる!
誰よりもそばで見てきた私が、それが嘘だと知っているのに!
だが、金のかかった情報の拡散力は凄まじかった。
昨日まで「夢」を買っていた善良な市民たちは、一転して「恐怖」に支配された。
ジリリリリリリッ!!
事務所の電話が鳴り止まない。
受話器を取る手が震える。
聞こえてくるのは、昨日のような応援の声ではない。
罵倒と、憎悪と、返金の嵐だ。
「金返せ! 詐欺師!」
「俺の老後の資金なんだぞ! どうしてくれるんだ!」
「アリアちゃんを信じてたのに! 裏切り者!」
信頼が、音を立てて崩れていく。
心が、ナイフで抉られるよう。
昨日まで「ありがとう」と言ってくれた人たちが、今は鬼のような形相で私たちを呪っている。
株価は見る見るうちに下がり、ついに初値の10枚を割り込んだ。
金貨5枚。
昨日の資産の20分の1。
◇
「うそ……嘘だよ……」
手から、受話器が滑り落ちた。
心が、張り裂けそうだった。
株価の暴落よりも、昨日まで笑顔を向けてくれていた人たちが、掌を返したように私たちを憎んでいること。
それが耐えられなかった。
ただ、いい車を作って、みんなに喜んでもらいたかっただけなのに。
「なんで……。みんな、あんなに応援してくれてたのに……。私たちが、何をしたっていうの……?」
膝から力が抜ける。
私はその場に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。
怖い。
魔物なら殴れる。
帝国の洗車なら投げられる。
でも、この「見えない敵」はどうやって倒せばいいの?
私の筋肉も、魔力も、ここでは何の役にも立たない。
「もう……ダメ。会社、潰れちゃう……。ご主人様の夢が……」
視界が暗くなる。
私の無力さが、ご主人様を殺すんだ。
ごめんなさい、ご主人様。
私は役立たずの駄犬です。
その時。
コツ、コツ、コツ……。
静寂を切り裂く、冷たく硬質なヒールの音。
その音は私の目の前で止まった。
恐る恐る見上げると、ローズマリーさんが冷酷なルージュの瞳で見下ろしていた。
彼女は、私の涙を拭うどころか、その指先で私の顎を強く持ち上げ、無理やり上を向かせた。
「……誰が負けたと言いましたか? この駄犬」
「ご、ご主人様……?」
美しい顔。
でも、その瞳は氷河のように冷たく、そして激しく燃えている。
怒っている。
敵に?
いいや、諦めようとした私に。
「株価が下がった? 罵倒された? ……それがどうしました。貴女の牙は、そんな安い数字で折れるほど脆いのですか?」
ローズマリーさんの視線が、私の心の底にある怯えを射抜く。
そこにあるのは、慰めではない。
サディスティックな支配者の、絶対的な命令だ。
ああ、怖い。
でも、どうしようもなく美しい。
この人は、まだ負けていない。
「いいですか。ベアトリスは今、『空売り』を仕掛けています。つまり、彼女は『持っていない株』を売っているのです。ただの数字のマジックです」
ローズマリーさんは、私の頬をパチンと軽く叩いた。
痛くない。
でも、目が覚めるような一撃。
魂を叩かれた気がした。
「こんなことで弱音を吐くなんて……お仕置きが必要ですね」
「お、お仕置き……?」
「ええ。あとでたっぷりと可愛がってあげます。泣いて許しを請うくらいにね。……ですがその前に、喧嘩のケジメをつけてきなさい」
その言葉に含まれた絶対的な自信と、歪んだ愛情。
私の背筋に、ゾクゾクするような電流が走る。
ああ、この人は。
諦めていない。
それどころか、この絶体絶命の状況を楽しんでいる。
だったら、私はその最強の主人のために、牙を剥くだけだ!
ローズマリーさんは指を鳴らした。
ガンテツ姉さんたちが運んできたのは、重厚なケースの山。
中身は、昨日の上場で調達した莫大な資金――「現ナマ」だ。
数字じゃない。
質量のある「力」だ。
「ベアトリスは、恐怖で市場を支配しました。……ならば私たちは、『圧倒的な暴力』で市場をねじ伏せます」
ローズマリーさんは、私のネクタイをグイッと強く締めた。
苦しい。
でも、それが心地いい。
首輪の感触が、私に力をくれる。
「アリア! この金を全て持って取引所に走りなさい! そして現場で叫んでくるのです。『私が絶対に買い支える』と! 物理的な重みで、彼らの不安を粉砕してきなさい!」
私の瞳孔が開く。
数字のことは分からない。難しい理屈も分からない。
でも、「届ける」ことなら誰にも負けない。
ローズマリーさんは勝つ気だ。
この暴落すらチャンスに変えて、敵を食い殺す気だ。
その絶対的な強さに触れ、私の心臓が再び熱く脈打ち始めた。
「……はい!」
私は立ち上がる。
涙は乾いた。
怯えの色はもうない。
あるのは、ご主人様への絶対的な崇拝と、敵を噛み砕く銀狼の闘志だけ。
「さあ、ベアトリスが売ってきた喧嘩、現金一括払いで買い取ってあげなさい!』
「イエス、マム! ……行ってきます!」
ガシャン! ガシャン!
私は、金貨が詰まった重さ数百キロのトランクを、軽々と両肩に担いだ。
重い。
物理的に重い。
でも、これっぽっちの重さなんて、さっきまでの絶望に比べれば羽毛みたいだ。
表に停めてあった「モデルA・カスタム」のトランクと後部座席に、ケースを乱暴に放り込む。
「待ってろよ、ベアトリス! ご主人様の財布に手を出したこと、地獄の底で後悔させてやる!」
私は運転席に飛び乗った。
キーを回すと、エンジンが私の怒りに呼応するように、猛獣の咆哮を上げた。
行こう、相棒。
殴り込みだ。
ドオオオオオオッ!!
アクセル全開。
タイヤが白煙を上げ、アスファルトに黒い痕を刻みつける。
漆黒の車体は、弾丸となって王都の大通りを爆走した。
目指すは、欲望と絶望が渦巻く証券取引所。
そこにいるハイエナどもに教えてやる。
アシュトン・モーターズには、誰よりも恐ろしくて美しい「鉄の女」と、誰よりも速くて凶暴な「番犬」がいるってことを!
金融戦争、反撃開始だ。




