第66話 「株式会社アシュトン、上場」
【早朝:王都・中央大通り】
朝霧を切り裂き、一台の流線型の車が石畳を滑るように駆け抜けた。
アシュトン・モーターズの象徴、モデルA・カスタム。
その漆黒のボディは、朝日を浴びて鋭い輝きを放っている。
私は、緊張でハンドルを強く握りしめていた。
隣を見る。
助手席には、勝負服である純白のパンツスーツに身を包んだローズマリーさん。
その姿は、戦場に赴く聖女のようであり、同時にすべてを支配する女王のようでもある。
美しい。息が止まるほどに。
後部座席には、分厚い法典を抱えたイザベラさんと、サイズが合わずパツパツの正装姿のガンテツ姉さんが乗っている。
みんな、顔が怖い。
これから行く場所が、ただの建物じゃないことを知っているからだ。
「……見えてきましたよ、アリア」
ローズマリーさんが指差した先。
王都の中心に鎮座する、巨大なドーム状の石造り建築。
「王国商業ギルド本部・王都証券取引所」。
そこは、この国の富と情報のすべてが集約される、資本主義の心臓部。
魔物も帝国兵もいない。
火薬の匂いもしない。
だけど、私の野生の勘が警鐘を鳴らしている。
ここは、今日一番の激戦区になる。
◇
重厚な扉を開けると、そこは「音」と「匂い」の坩堝だった。
ガヤガヤガヤガヤ……!!
広大な吹き抜けのホールは、商人や資本家たちで埋め尽くされている。
そして、鼻をつく強烈な香り――焙煎された豆の苦い香り。
「ここは証券取引所であると同時に、王都最大の「コーヒーハウス」です」
ローズマリーさんが、慣れた足取りで私たちを引率する。
商人たちは片手にコーヒーや紅茶のカップを持ち、紫煙を燻らせながら、早口で情報を交換し合っている。
「おい聞いたか? 東の香辛料相場が荒れてるらしい」
「それより『アシュトン』だ! 今日上場だろ?」
「あの『馬なし馬車』か? 実態はあるのか?」
「いや、ハイウェイを見たか? あれは本物だぞ」
どこもかしこも、今日の話題は「アシュトン・モーターズ」で持ちきりだった。
期待と不安、そして金への欲望が、湯気のように立ち込めている。
息苦しい。
魔物の群れより、こっちの方が怖いかも。
みんなの目が、お金を探すハイエナの目に見える。
「……空気に酔いそうですわ」
イザベラさんが目を回す中、ローズマリーさんは迷うことなくホールの隅にある丸テーブルを確保した。
「慌てないで。……まずは一服して、彼らに『余裕』を見せつけるのです」
ローズマリーさんは給仕を呼び、全員分の紅茶と、山盛りの焼き菓子を注文した。
私はマドレーヌを口に放り込み、甘いバターの香りに少しだけ表情を緩めた。
「んぅ……甘い。……ちょっと落ち着いたかも」
「いい食べっぷりです。……アリア、周りを見てごらんなさい」
ローズマリーさんは優雅にティーカップを傾けながら、周囲の商人たちを一瞥した。
その視線は、彼らを値踏みする捕食者のそれだ。
「彼らはハイエナです。弱みを見せれば食い尽くされる。……ですが、堂々としていれば『王』として崇める。それがマーケットのルールです」
彼女は、緊張で震えるガンテツ姉さんの肩を叩いた。
「工場長。貴方が作った車は、ここの誰が持っている金貨よりも価値があります。胸を張りなさい」
「……へっ、違いねえ。アタシの技術は安くねえ!」
ローズマリーさんの言葉で、チームに活気が戻る。
その時だった。
背筋に冷たい視線を感じて、私は上を見上げた。
2階のバルコニー席。
手すりに金箔が施された一際豪華な特別席。
そこから、一人の女性が下界を見下ろしていた。
漆黒のドレスに、血のように赤い宝石。手には赤ワインのグラス。
ベアトリス・ヴァン・ルージュだ。
彼女は私と目が合うと、妖艶に微笑み、ゆっくりと手招きをした。 『上がっていらっしゃい』と。
……あいつ。
「……お呼び出しですね。行きましょう」
ローズマリーさんはカップを置き、螺旋階段を登っていった。
私は拳を握りしめ、その背中を追った。
◇
「いらっしゃい、ローズマリーちゃん。……下界のコーヒーの味はどうだったかしら?」
ベアトリスは、革張りのソファに深々と腰掛け、上質なワインを揺らした。
彼女の周りには、冷徹な目をしたエリート証券マンや弁護士たちが控えている。
嫌な空気。
ここは敵の本陣だ。
「悪くありませんでしたよ。……熱気と希望の味がしました」
ローズマリーさんもまた、ベアトリスの正面に堂々と座る。
白のスーツと黒のドレス。
対照的な二人の令嬢が対峙する。
「上場おめでとう。……でも、忠告しておくわ」
ベアトリスは、眼下の騒がしいホールを見下ろし、冷ややかに言った。
「ここは『カジノ』と同じよ。……最後に勝つのは、最も多くのチップを持っている胴元だけ」
彼女は暗に言っている。
『上場した瞬間、私の資金力で会社ごと買い占めてやる』と。
札束で頬を叩くような言い方。
「今日集まっている有象無象の投資家なんて、風が吹けば飛ぶような木の葉よ。……彼らが貴女を支えられると思って?」
腹の探り合い。
ベアトリスの言葉は鋭い刃のようだ。
だが、ローズマリーさんは静かに微笑み返した。
「ええ。……木の葉も積もれば山となります。それに、風向きを決めるのは貴女ではありません」
その時。
カァァァァァァァンッ……!!
取引開始の鐘が、館内に鳴り響いた。
新規上場、銘柄「アシュトン・モーターズ」。
売り出し価格、金貨10枚。
一瞬の静寂。
ベアトリスの息のかかった「プロ」の投資家たちは、様子見を決め込んでいた。
……誰も買わない?
不安で心臓が締め付けられる。
やっぱり、私たちは歓迎されていないの?
だが、沈黙を破ったのは、彼らではなかった。
「――買いだ! アシュトンをくれ! 10株だ!」
声を上げたのは、作業着姿の男――アシュトン・ダイナーの常連さんだった。
それに続いたのは、市場の商人。
「俺も買う! 全財産突っ込むぞ!」
さらに、郵便局員、スラムの労働者、街道沿いの村人たち。
ローズマリーさんがこれまで助け、道を繋ぎ、共に歩んできた「普通の人々」が、握りしめた硬貨袋を掲げて叫んだ。
「アシュトンの株をよこせぇぇッ!」
「社長を応援するんだ!」
「あの車は俺たちの夢だ!」
ドッ!!
それは注文というより、奔流だった。
取引所のカウンターが、殺到する「アマチュア」たちで埋め尽くされる。
涙が出そうになった。
彼らが握りしめているのは、ただの金貨じゃない。
朝早くから夜遅くまで働いて、汗水垂らして稼いだ、生活そのものだ。
それを、私たちに託してくれている。
こんなに嬉しいことってある?
「なっ……!?」
ベアトリスの手から、ワイングラスが滑り落ちそうになった。
彼女の計算では、大衆は様子を見るはずだった。
プロが動かない株に、素人が手を出すはずがないと。
「馬鹿な……。素人が、財務諸表も読めずに……感情だけで買っているというの!?」
ベアトリスの常識が崩れる。
利益率? 配当性向?
そんなものは関係ない。
彼らはただ、「アシュトンが好きだから」買っているのだ。
これが私たちの「絆」だ。
「ええ。……それが『ブランド』です、ベアトリス」
ローズマリーさんは立ち上がり、眼下の熱狂を見つめて静かに言った。
「彼らは『数字』を買っているんじゃありません。『夢』を買っているのです」
ローズマリーさんは、呆然とするベアトリスを見据えた。
「貴女の金庫にある冷たい金貨よりも……彼らの汗と泥の染み付いた小銭の方が、今は重いのですよ」
ワァァァァァァァッ!!
歓声と共に、魔導掲示板の数字が跳ね上がった。
金貨10枚……30枚……50枚……!!
なんと初値の10倍、金貨100枚を記録した。
アシュトン・モーターズの時価総額は、たった数分でベアトリス商会に迫る規模へと膨れ上がった。
市場から吸い上げられた莫大な資金が、ローズマリーさんの手元に流れ込む。
これなら、借金など一瞬で返せる。
もっと工場も作れる。
「すごい……! すごいですよローズマリーさん! みんな……みんなが味方してくれてる!」
私は涙目でローズマリーさんに抱きついた。
私たちの努力は、ちゃんと届いていたんだ。
泥だらけになって作った道は、ちゃんとみんなの心に繋がっていたんだ。
「……ええ。これが『信頼』の力です」
ローズマリーさんは私の頭を撫でながら、勝利の余韻に浸った。
その手は温かい。
だが、勝負はここで終わらなかった。
「……ふ、ふふっ」
背後で、乾いた笑い声が聞こえた。
振り返ると、ベアトリスがワイングラスを置き、口元を三日月のように吊り上げていた。
動揺は消え、そこにあるのは冷酷な捕食者の表情。
ゾクリとした。
殺気だ。
剣も魔法も使っていないのに、肌が粟立つような殺気。
「……面白いわ。夢、希望、応援? 結構なことね」
彼女は、熱狂するフロアを見下ろしながら、部下のファンドマネージャーにハンドサインを送った。
指を二本立て、ゆっくりと下に向ける。
「でもね、ローズマリーちゃん。……高く上がった風船ほど、割れた時の音は大きいのよ?」
ベアトリスが、妖艶に微笑む。
「さあ、見せてあげるわ。……夢が弾けて、絶望に変わる瞬間を」




