第65.5話 「北の果ての観察者。あるいは、銀狼への求愛」
【視点:ヒルダ】
【帝国首都・国家戦略研究室】
氷点下の風が窓を叩く音が、地下深くに作られたこの研究室にも微かに響いていた。
敗戦から数ヶ月。
我らが帝国は、未だ深い傷跡を抱えてうずくまっている。
賠償金、領土の割譲、そして何より「敗北」という精神的な屈辱。
軍部の上層部は、毎日会議室で怒号を飛び交わせ、責任のなすりつけ合いに忙しいようだ。
――愚かね。
私は、湯気の立つビーカーを揺らしながら、暗がりのモニターを見つめて嗤った。
負けたのなら、そこから学べばいい。
敗北とは、データの宝庫なのだから。
「……それにしても。驚いたわね」
私の目の前にある魔導スクリーンには、遠く離れた王国の「現在」が映し出されていた。
上空から魔導探査機が捉えた映像。
そこには、かつて私が計算した「復興予測図」を遥かに凌駕する光景が広がっていた。
一直線に伸びる、黒いアスファルトの帯。
そこを昼夜を問わず行き交う、鉄の箱の群れ。
瓦礫の山だったはずの土地が、まるで生き返った血管のように脈動し、物資と金を循環させている。
「たった数ヶ月で、王国全土の物流網を完成させるとは。……ローズマリー。貴女の脳髄は、一度切り開いて見る価値がありそうだわ」
彼女は天才だ。
魔力だけでなく、「経済」と「物流」という物理的な力を使って、国を再建してしまった。
だが、私の興味の本質はそこではない。
私の視線は、モニターの端に映った、銀髪の少女に向けられた。
ローズマリーの傍らに立つ、私の「研究対象」。
アリア。
◇
背後で重い軍靴の音がした。
振り返らずとも分かる。
血の気の多い参謀本部の将校だ。
「ヒルダ博士。……例の『道』の分析は済んだか?」
将校が、私の肩越しにスクリーンを覗き込む。
その目には、科学的探究心など微塵もない。
あるのは、ただの侵略欲だけだ。
「ええ。驚くべきデータよ。路面の耐久性、道幅、そして橋梁の強度……すべてが規格外。我々の次期主力戦車が隊列を組んで走っても、ビクともしないでしょうね」
「ほう……! では、この道は……」
「我が軍の侵攻ルートとして使えるか、と聞きたいのでしょう?」
私は椅子を回転させ、将校に向き直った。
「答えはイエスよ。戦車も、補給物資も、従来の3倍の速度で王都へ運べる。……皮肉な話ね。あの平和主義者の令嬢が、民衆の笑顔のために作った道が、次の戦争では彼女の喉元にナイフを突き立てる『導火線』になるなんて」
ククッ、と将校が下卑た笑い声を上げた。
単純な男。
彼らは道を「攻めるための道具」としか見ていない。
だが、私は違う。
私が注目しているのは、その道を守り抜いた「力」の方だ。
私は机の上の資料――先日の嵐の夜に観測された、異常な魔力波形のグラフを手に取った。
あの大嵐の日。
崩落しかけた橋を、たった一人の少女が支えきったという報告。
物理的に考えれば、即死案件だ。
数トンの水圧と質量の直撃。
並の人間なら、いや、熟練の強化兵士ですら、肉片になって川底に沈んでいる。
だが、アリアは耐えた。
それどころか、その極限状態の中で、彼女の魔力値は跳ね上がっている。
「……ふふ。やっぱり、間違いなかった」
私はアリアの写真を指先で愛おしくなぞった。
泥だらけで、傷だらけで、それでも主人のために牙を剥く銀色の獣。
「先祖返り。……それも、古代種の王族クラスの血が、隔世遺伝で発現している」
かつて留学で、私が彼女を見つけた時は、まだ力の使い方も知らない野良犬だった。
ただ闇雲に魔力を振り回すだけの、粗野な原石。
けれど、ローズマリーという「飼い主」を得て、彼女は劇的に進化した。
愛という名の首輪。
忠誠という名の鎖。
それが、彼女の潜在能力を極限まで引き出し、制御させている。
「美しいわ、アリア。……貴女のその強靭な肉体、再生能力、そして異常なまでの魔力耐性。すべてが私の研究にとって、垂涎の的よ」
彼女が育てば育つほど、私の胸の奥が熱くなる。
恋?
いいえ、もっと純粋な「渇望」だ。
彼女を解剖したい。
その細胞の一つ一つを培養したい。
そして、彼女の因子を使って、最強の軍団を作り上げたい。
ローズマリーが彼女を磨き上げた。
泥を落とし、教育を施し、美しい「銀狼」へと育て上げた。
感謝するわ、ローズマリー。
おかげで、最高の状態で収穫できそうだもの。
「ヒルダ博士? 聞いているのか?」
将校の声で、私は我に返った。
いけない、つい没頭してしまったわ。
「ええ、聞いていますよ。……『作戦』の準備は順調です」
私は立ち上がり、壁の世界地図に近づいた。
王国の中心、アシュトン・ハイウェイの上に、赤いピンを突き刺す。
プツリ、という音が、まるで果実が熟して弾ける音のように聞こえた。
「急ぎましょう。……あの『銀狼』が育ちきって、誰の手にも負えなくなる前に。……私たちが収穫しなければ」
物流革命の光。
その眩しさが強ければ強いほど、落ちる影も濃くなる。
「待っていてね、アリア。……次こそは、私の実験体にしてあげるから」
私は薄暗い研究室で、誰にも聞こえない愛の言葉を呟いた。
風が、血の匂いを運んでくるような気がした。




