幕間 「銀狼の散歩道。星屑とレザーシートの蜜月」
【深夜:アシュトン・ハイウェイ・峠の頂上】
世界から音が消えていた。
完成したばかりの、まだ誰も走っていない真新しいアスファルト。
その真ん中に停められた「モデルA・カスタム」の車内だけが、世界で最も熱く、甘い密室となっていた。
ギシッ……。
上質な本革のシートが、二人の重みで軋む音が響く。
窓ガラスは、私たちの熱気と荒い吐息で白く曇っていた。
外の世界なんて見えない。
見る必要もない。
今、私の世界はこの狭い箱の中だけだ。
「……んっ、ぁ……! ご主人様、……狭い、です……!」
助手席の私は、逃げ場のないシートの上で身をよじった。
リクライニングが倒され、私の上にはローズマリーさんが覆いかぶさっている。
狭い。逃げ場がない。
でも、それが嬉しい。
この人が私を閉じ込めてくれている。
私を逃がさないでいてくれている。
「狭いから良いのです。……貴女の匂いも、声も、熱も、すべてこの箱の中に閉じ込められる」
ローズマリーさんの指が、私のシャツの下に入り込み、汗ばんだ肌を這う。
その指先は冷たいはずなのに、触れられた場所から火傷しそうなほどの熱が広がる。
ああ、ご主人様。貴女も熱いんですね。
クールな顔をして、中身はこんなに煮えたぎっている。
「見てみなさい、アリア」
ローズマリーさんは、私の手を取り、月の光にかざした。
その手を見て、私は反射的に身を竦めた。
ボロボロだ。
岩を砕き、泥を掻き、冷たい鉄骨を支え続けたことで、皮が剥け、硬い豆ができ、無数の小さな傷が刻まれている。
こんな手、ご主人様の美しい肌に触れていいものじゃない。
「……汚いです、よね。ごめんなさい……」
恥ずかしくて手を引っ込めようとする。
だが、ローズマリーさんはその手を強く握りしめ、逃がさなかった。
そして、あろうことか、その薄汚れた掌に深く、長く口づけを落としたのだ。
「……んぅッ!?」
「謝る必要はありません。……これは、貴女が私のために戦った『勲章』です。どんな宝石よりも美しい」
ローズマリーさんの舌が、私の指の間の傷を舐め上げる。
ザラリとした感触。
傷口に染みる唾液の熱さと、そこから流し込まれる濃厚な魔力。
痛みと快楽が同時に脳髄を突き抜ける。
「あ、あぁッ! 魔力が……傷から、入って……!」
痺れる。
指先から心臓へ、ご主人様の色が侵食してくる。
「感じますか? 貴女の細胞の一つ一つが、私の魔力を欲しがっていますよ」
ローズマリーさんは意地悪く微笑み、もう片方の手で私の太もも――あの濁流の中で踏ん張った、硬くしなやかな筋肉を撫で上げた。
「この脚も、この背中も……全部、私が酷使しました。私のワガママに付き合って、ボロボロになるまで働いてくれた」
その声色が、ふっと優しくなる。
ご主人様。
貴女、泣きそうな顔をしていますよ。
そんな顔をしないでください。私は貴女のために傷つくのが本望なんです。
「だから今夜は、私が責任を持って『メンテナンス』してあげます。……たっぷりとね」
「でも、社長……ここ、外ですよ……? 明日には、たくさんの車が通る道で……」
私は曇った窓の外を気にした。
今は誰もいない静寂の闇。
でも、ここは紛れもない道だ。
私たちが作った道。
もし誰かが見たら。
もし明日、ここを通る人々が、この車内の熱狂を知ったら。
想像するだけで顔から火が出そうだ。
でも、その羞恥心すらも、ローズマリーさんは薪にしてくべてしまう。
「ええ、そうです。ここは神聖なるアシュトン・ハイウェイ。……その真ん中で、社長と秘書が乱れているなんて、誰も想像しないでしょうね」
ローズマリーさんの手が、私の下着の縁に掛かる。
背徳感で頭がおかしくなりそうだ。
「想像してごらんなさい、アリア。……明日、ここを走る何千台もの車が、私たちの『情事の跡』の上を通るのですよ? 私たちが愛し合った場所の上を、歴史が通っていくのです」
「そ、そんなこと……っ! 恥ずかしい、です……!」
「恥ずかしい? ……いいえ、『興奮する』でしょう?」
ローズマリーさんは私の耳元を甘噛みした。
見透かされている。
私が、この状況にゾクゾクしていることを。
ご主人様に支配され、弄ばれることに、至上の喜びを感じていることを。
「い、いやぁっ……! ご主人様のいじわる……!」
「鳴きなさい。……誰にも聞こえませんよ。月と星だけが、私たちの共犯者です」
ギシッ、ギシッ、ギシッ……。
車体の揺れが激しくなる。
ローズマリーさんの執拗な愛撫は、私の理性を完全に溶かしていった。
これまでの張り詰めた緊張、極限の疲労、重い責任感。
それら全てが、ローズマリーさんの指先によって快楽へと変換され、爆発する。
もう何も考えられない。
ただ、この人が好き。大好き。
「あ、ご主人様……! 好き、大好き……! 私、ご主人様の犬で……幸せ……ッ!」
「ええ、知っていますよ。……私もです、アリア」
ローズマリーさんは、私の唇を塞ぎ、最後の魔力を注ぎ込んだ。
星空の下、誰もいないハイウェイの真ん中。
二人は、言葉以上の何かで深く繋がり、溶け合った。
世界で一番、美しい夜だった。
◇
【夜明け】
嵐のような時間が過ぎ去り、東の空が白み始めていた。
車内の窓ガラスには、無数の水滴がついている。
私たちの熱の跡だ。
シートを倒したまま、私はローズマリーさんの腕の中で、気だるげに目を細めていた。
事後の余韻。
全身の力が抜け、指一本動かせないほどの幸福な疲労感。
魔力は満タンなのに、体が甘く痺れている。
「……ご主人様。もう朝が来ちゃう」
「そうですね。……歴史が始まる朝です」
ローズマリーさんは、私の乱れた銀髪を優しく整え、自身のジャケットを掛け直してくれた。
その手つきは、壊れ物を扱うように優しい。
さっきまでの獣のような激しさが嘘みたいだ。
「少し眠りなさい。……王都に着くまで、私が運転します」
「え……でも、ご主人様も疲れてるのに……」
私を「メンテナンス」するのに、どれだけの魔力を使ったか。
顔色が少し白い。
無理をさせてしまった。
「フフッ。愛犬の寝顔を見ながらのドライブも、悪くありませんからね」
ローズマリーさんは、私の額に「おやすみ」のキスをした。
その唇の温かさに、私の意識は急激に闇へと落ちていく。
ああ、幸せだ。
この人がハンドルを握っているなら、私はどこへ連れて行かれても構わない。
ローズマリーさんは運転席に戻り、エンジンをかけた。
心地よい振動が背中に伝わる。
薄目を開けて見たバックミラーには、いつもの冷徹な社長の顔に戻った彼女が映っていた。
でも、その口元には、私にしか見せない柔らかさが残っていた。
……おやすみなさい、私の大好きなご主人様。
車は、朝日が照らす「銀狼の散歩道」を、王都へ向かって滑り出した。
二人の秘密の夜は、アスファルトの下に永遠に刻まれた。
誰にも言わない。
誰にも教えない。
この道は、私たちだけのものだ。




