第56.5話 「ベアトリスの愉悦。箱庭を走る赤い血流」
【視点:ベアトリス】
【ベアトリス商会王国支店ビル・最上階CEO執務室】
私は、執務室の窓ガラスに額を押し付けるようにして、眼下を見下ろしていた。
王都の街並みは、私の庭だ。
人々の動き、金の流れ、物資の輸送。
その全てを私が掌握し、私が許した血液だけが循環する。
そうやって管理してきた、完璧な箱庭。
だが今、その淀んだ灰色の血管の中を、異質な「赤」が走り回っている。
「……また一匹。あそこにも」
鮮やかな赤色に塗装された、四角い鉄の塊。
ローズマリーちゃんが作り出した「郵便車」だ。
私の検問を、私の圧力を、あざ笑うかのようにすり抜けていく。
王国の法律という絶対的な盾に守られた「郵便物」。
たとえ中身が車の部品だろうが、通販カタログだろうが、切手が貼ってあれば私の私兵団でも手出しはできない。
やってくれるわね……ローズマリーちゃん。
私の手元には、一冊のカタログがある。
『月刊アシュトン・ライフ』。
ページをめくれば、そこには輝かしい未来の生活と、私の愛する宿敵からの強烈なメッセージが刻まれていた。
『既存の不便な流通にサヨナラを』。
それは、私という「既存の支配者」への明確な宣戦布告。
そして、私へのラブレターだ。
本来なら、激昂してこのカタログを引き裂くべき場面だろう。
部下を怒鳴りつけ、徹底的に潰しにかかるべきだ。
だというのに、私の身体は正直だ。
指先が震え、頬が熱を帯びていくのが分かる。
「……くっ、ふふ……」
喉の奥から、抑えきれない笑いが込み上げてくる。
私はカタログを胸に抱きしめ、腹を抱えて笑い転げた。
「……あはっ、あはははは! 最高よローズマリーちゃん! 私が血管を止めたら、新しい血管を作っちゃうなんて! 郵便局? 通販? 思いつきもしなかったわ!」
ああ、愛しい。
なんて愛しいの。
私の包囲網は完璧だったはずだ。
普通の商人なら、絶望して首を吊るか、泣いて私に許しを乞うていたでしょう。
「助けて、ベアトリスお姉様」って。
そうやって縋ってくる顔も見たかったけれど、貴女は違った。
私の予想を軽々と飛び越え、鮮やかに裏をかいてみせた。
敗北感?
ええ、あるわ。
でも、それ以上に私の身体を満たしているのは、痺れるような「充足感」だ。
私が認めた「天才」。
私が唯一、対等な敵として愛した女。
そうでなくては。
簡単に壊れてしまう玩具なんて、私は欲しくない。
貴女は、私の首に手をかけてくるくらいでなくちゃ、愛し甲斐がないのよ。
「いいわ、この勝負は貴女の勝ち。……褒めてあげる」
私は窓の外、王国の彼方へと広がる荒れた街道に目を向けた。
赤い車が、ガタガタと揺れながら走っていくのが見える。
その光景を見た瞬間、私の脳裏に冷徹な計算式が浮かび上がった。
まだ終わらない。これはまだ、序盤のダンスに過ぎない。
「……でも、次はどうかしら?」
私は目を細めた。
物流の壁は越えられた。
だが、物理的な壁はどうしようもない。
「車は行き渡った。……でも、それを走らせる『道』は穴だらけ。給油所もない。この国のインフラはボロボロよ」
高性能な車であればあるほど、環境の悪さが足を引っ張る。
パンク、故障、燃料切れ。
顧客の不満は、やがてメーカーへの不信に変わる。
そこが狙い目だ。
「物流の次は、土木。……この国の『地面』を握っているのは、私の息がかかった古狸たち」
利権に塗れ、変化を嫌う土木建築ギルドの老人たち。
彼らは私が長年かけて餌付けしてきた番犬だ。
通販のような「抜け道」は、道路工事には通用しない。
地面を掘り返すには、彼らの許可と協力が不可欠なのだから。
「通販じゃ解決できない物理的な壁……どう乗り越えるのかしら? ローズマリーちゃん」
私はグラスに映る自分の顔を見つめ、嗜虐的な笑みを浮かべた。
楽しみだわ。
貴女が泥にまみれ、汗をかき、理不尽な古狸たちに頭を下げ、それでも前に進もうと足掻く姿を想像するだけで、ゾクゾクする。
その苦難が深ければ深いほど、最後に私が手を差し伸べた時の「甘美さ」が増すのだから。
「さあ、次のダンスを踊りましょう。……貴女が力尽きて、私の胸に倒れ込んでくるその時まで」




