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第54話 「悪魔と魔女の密約。銀狼をめぐるトレード」

【視点:ベアトリス】


【レース翌日:ベアトリス商会王国支店ビル・最上階CEO執務室】

「――帝国の魔導石の輸入ルート、今月は2割増しで確保できたわよ。感謝なさい」


私は、最高級の革張りのソファに深く腰掛け、手に持った書類をテーブルに放り投げた。


対面に座っているのは、黒を基調とした軍服のようなデザインの制服を纏い、分厚い眼鏡をかけた冷徹な美女。  


帝国の留学生、ヒルダだ。


「さすがですね、ベアトリス。貴女の物流網は、我が軍の補給線よりも優秀だ」


ヒルダは表情一つ変えずに書類を確認し、流れるような筆致でサインをする。  


私たちの付き合いは長い。


私が商会を急成長させる過程で、帝国の技術と資源を横流ししていたのがヒルダであり、互いに互いを利用し合う「共犯関係」にある。  


けれど、退屈だ。  


利益、効率、合理的判断。


そんなものばかりで構成されたこの女との会話は、砂を噛むように味気ない。  


ああ、ローズマリーちゃん。


貴女なら、もっと私を熱くさせてくれるのに。


「褒めても安くはしないわよ。……で? 今日は定例報告だけのために、わざわざ来たわけじゃないでしょう?」


私は最高級のヴィンテージワインを二つのグラスに注いだ。


芳醇な香りが部屋に広がるが、私の渇きは癒やされない。

 

ヒルダはグラスを受け取り、眼鏡を光らせた。


「ええ。実は、貴女に一つ『提案』がありましてね」


ヒルダは懐から魔導プロジェクターを取り出し、空中に映像を投影した。  


映し出されたのは、昨日の「王都グランプリ」のハイライト。  


アリアちゃんの運転であの無骨な車で「石階段」を飛び降り、着地した瞬間のスローモーション映像だ。


「……また、私の負け試合を見せる気? 趣味が悪いわね」


眉をひそめた。


あの屈辱は、まだ記憶に新しい。  


そして何より、あの銀色の獣が、ローズマリーちゃんの隣で尻尾を振っている姿を見るだけで、胃の腑が焼けるような不快感を覚える。  


あの席は、本来なら私が座らせてあげるはずの場所だというのに。


だが、ヒルダの視点は違った。  


彼女は白く細い指で、映像の中のアリアの「瞳」と「筋肉の動き」を指し示した。


「見てください、この着地の瞬間。数トンの衝撃を、『魔力膜』で無意識に分散させています。……そしてこの瞳の輝き。これはただの魔力ではありません」


ヒルダの声に、科学者特有の狂気じみた熱が帯びる。


嫌な予感がした。


「『先祖返り』です。数千年前、まだ魔獣と人の境界が曖昧だった頃の……純血の魔力の形質が発現している」


「……へえ。それが?」


「私は長年、次世代の生体兵器の『素体』を探していました。劣等種から造る人造兵器は脆い。やはり、オリジナルから培養するのが最も効率的です」


ヒルダはワインを一口飲み、まるで新商品のバッグの話でもするように淡々と言った。


「あのアリアという個体、私が買い取りましょう。……実験材料として」


私の手が、一瞬だけ止まった。  


心臓がドクリと嫌な音を立てる。  


私の内側で、マグマのような怒りが沸き上がった。  


それはアリアちゃんへの同情ではない。  


もし、あの犬がいなくなったら――ローズマリーちゃんはどうなる?  


あの子は強がっているけれど、その魂はガラス細工のように繊細。


唯一心を許した「家族」を奪われたら、あの子は壊れてしまう。  


心が死んでしまう。  


そんな「死んだ人形」を手に入れて、何が楽しいの?  


私は、生きて、足掻いて、私を睨みつけてくるローズマリーちゃんが欲しいのよ。


私はすぐに表情を「商人の仮面」の下に隠し、冷笑を浮かべた。


「買い取る、ねぇ。……あれはアシュトン家の所有物よ? 私が勝手に売れるわけないでしょう」


「アシュトン家には経済制裁を加えているそうですね? もっと締め上げればいい。借金のカタとして身柄を差し押さえ、私に引き渡す。……簡単な手続きだ」


ヒルダはテーブルの上に、一枚の設計図を置いた。


「見返りに、帝国が開発中の『第4世代魔導タービン』の独占販売権を差し上げます。……アシュトン・モーターズが作ろうとしているガラクタなど、一瞬で駆逐できる技術ですよ」


破格の条件だ。  


商人としての合理性が叫ぶ。


「イエス」と言えば、アシュトン・モーターズは潰れ、巨万の富が手に入る。


ローズマリーちゃんを屈服させる最短ルート。  


でも、違う。


そうじゃない。  


私が欲しいのは、そんな勝ち方じゃない。


私は扇子を開き、口元を隠してクスクスと笑った。


「あらあら、ヒルダ。貴女にしては『お買い物』が下手ね」


「……どういう意味ですか?」


「その子は『欠陥品』よ。昨日のレースも、ただの無鉄砲なマグレ。頭は悪いし、躾もなってない。……そんな駄犬に、最新鋭のタービンの価値があるとは思えないわ」


私は、アリアの価値を徹底的に貶めてみせた。  


守ってあげるわよ、駄犬。


感謝なさい。


貴女は私のローズマリーちゃんの精神安定剤として、まだ利用価値があるのよ。


だが、ヒルダは引かない。


「その『野生』こそが価値なのです。……ベアトリス、貴女は商人だ。感情で損をするタイプではないはずですが?」


ヒルダの視線が鋭くなる。  


このまま拒否し続ければ、「何か特別な感情がある」と悟られる。


それは弱みになる。  


私は、扇子を畳み、ふっとため息をついてみせた。  


仕方ない。


少しだけ、私の「本性」を晒してあげましょうか。


「……勘違いしないで頂戴。私は『美学』の話をしているのよ」


私は立ち上がり、窓の外を見下ろした。


眼下には、ローズマリーちゃんがいるスラム街が広がっている。  


薄汚い場所。


でも、あの子がいるだけで、そこは輝いて見える。


「あのアリアちゃんって子は、ローズマリーちゃんと『セット』なの。……ローズマリーちゃんは、あの駄犬がいるからこそ、無駄に強がっていられる。あの犬を奪ったら、ローズマリーちゃんは簡単に壊れてしまうでしょう?」


私はガラスに映る自分の顔を、冷酷なサディストの表情に歪めてみせた。  


これが、貴女たちが望む「悪徳商人ベアトリス」の顔でしょう?


「私はね、ローズマリーちゃんを『壊したい』んじゃないの。……絶望の淵で、自分の足で私の前に跪かせたいのよ。そのためには、あの犬もセットで追い詰めなきゃ面白くないじゃない?」


――嘘ではない。  


壊したくないのは本当だ。  


でも、跪かせたいわけじゃない。  


ただ、私を見てほしいだけ。


私だけを頼って、私だけに縋って、私の腕の中で泣いてほしいだけ。  


そのためなら、私は悪魔にだって魂を売るし、天使のふりだってする。


「……なるほど。相変わらず、貴女の倒錯的な趣味にはついていけませんね」


ヒルダは呆れたように肩をすくめた。  


私の「サディズム」という理由付けに、一応の納得をしたようだ。  


馬鹿な女。


愛の深さが分からないなんて、科学者というのは不幸ね。


「ですが、商談は商談です。……タダで帰るわけにはいきませんよ?」


「ええ、分かっているわ」


私は振り返り、ビジネスライクな笑みを浮かべた。  


ローズマリーちゃんを守るための必要経費。


「アリアちゃんの件は保留(キープ)にしておいてあげる。……その代わり、別の取引をしましょう」


「別の?」


「貴女の研究室で余っている『廃棄予定の実験機材』。……あれを全て、私が買い取るわ。もちろん、新品同様の価格でね」


それは、実質的なヒルダへの「賄賂」だ。  


ヒルダが計算する。


素体は手に入らないが、研究資金が潤沢に入る。


悪くない取引のはず。


「……いいでしょう。今回はそれで手を打ちます」


ヒルダは設計図を回収し、立ち上がった。


「ですが、覚えておいてくださいベアトリス。……あの『銀狼』は、いずれ本能が目覚める。貴女のような商人が飼い慣らせる代物ではありませんよ」


「忠告どうも。……出口はあちらよ」


バタン。  


扉が閉まる。  


部屋に一人残された私は、演技の仮面を剥ぎ取り、ドサリとソファに沈み込んだ。


「……ふぅ。食えない女」


私は震える手でワイングラスを掴んだ。  


危なかった。


もしアリアちゃんを渡していれば、ローズマリーちゃんは永遠に失われていただろう。


心臓が痛い。  


「……感謝なさいよ、ローズマリーちゃん。私が高い手付金を払って、貴女の『大事なもの』を守ってあげたんだから」


私は、スラムの方角を睨みつけた。  


そこには、まだ私の手の届かない場所で、彼女が生きている。  


あの目障りな犬と一緒に。  


嫉妬で狂いそうだ。


でも、今はまだ、あの犬が必要なの。


「さあ、邪魔者は追い払ったわ。……ここからは私と貴女の戦争よ。帝国の魔女に目をつけられる前に、さっさと私の軍門に下りなさい」


私は通信機を取り出し、部下に冷徹な声で告げた。


「総員に通達。……アシュトン・モーターズへの経済包囲網を強化しなさい。兵糧攻めよ。……一匹の蟻も通すんじゃないわよ」


この世界は危険すぎる。


帝国も、王宮も、誰も彼もが貴女を狙っている。  


だから私が安全なところで守ってあげる。  


貴女が背負っているものをすべて消し去って、誰も近づけないようにして、私の箱庭の中で安心して暮らせるようにしてあげる。  

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