第52話 「アシュトン・モーターズ、スラムの祝杯」
【同日夜:アシュトン・モーターズ(スラム廃ガレージ)】
「「「アシュトン・モーターズの勝利に……カンパーーイッ!!」」」
油と鉄の匂いが染み付いたガレージに、割れんばかりの歓声と、ジョッキがぶつかり合う音が響き渡った。
王都グランプリでの大金星。
その夜、スラムの廃ガレージは、世界で一番熱い即席の宴会場と化していた。
テーブル代わりのドラム缶には、山盛りの料理と酒。
集まったのは、社員である私たちだけじゃない。
部品集めを手伝ってくれたスラムの悪ガキたち、噂を聞きつけた近所の労働者たち。
「貴族のパーティー」とは真逆の世界だ。
ドレスも宝石もない。
でも、ここには嘘がない。
みんなが本気で笑って、本気で祝ってくれている。
この熱気が、たまらなく心地いい。
その中心で、工場の主であるドワーフのガンテツ姉さんが、マグナムボトルの安酒をラッパ飲みしていた。
「ぷはぁーっ! 美味ぇ! 五臓六腑に染み渡るねぇ!」
彼女は赤ら顔で、自身の背丈ほどもある巨大なスパナを指揮棒のように振り回し、上機嫌に叫んだ。
「見たかい、あのベアトリスの顔! 『階段を走るなんて聞いてない』だとさ! ギャハハ! ざまあみろってんだ!」
「最高でしたよ!ガンテツ姉さん! 姉御の設計のおかげで、あのジャンプでもサスペンションが折れなかった!」
私は、レーシングスーツから秘書スーツに着替え、両手に巨大なピザを持っていた。
スラム名物「全部乗せピザ」。
具材は謎だが、とにかく味が濃くて脂っこい。
私は大きな口を開けてかぶりついた。
「ん~っ! このジャンクな味が最高! 王宮の料理より美味しいかも!」
これよ、これ!
肉汁とチーズの暴力!
極限まで戦って空っぽになった胃袋に、カロリーが染み渡っていく……!
生きているって味がする。
レースの緊張が解けて、食欲が爆発しそうだ。
私が夢中で食べていると、口元についたソースを、カミーラさんがハンカチで拭き取ってくれた。
「お行儀が悪いですよ、アリア様。……ですがまあ、今日ばかりは大目に見ましょう」
カミーラさんもまた、普段の厳格な表情を崩し、少しだけ微笑んでいる。
いつも厳しいメイド長の、ふとした優しさ。
胸がじんわりと温かくなる。
そんな喧騒の中、一人だけ挙動不審な人物がいた。
イザベラさんだ。
彼女は渡されたジョッキの中身――茶色く濁った液体を、実験用ビーカーを見るような恐ろしい目で見つめていた。
「こ、これは……何でしょうか? 毒……いえ、魔薬の類いでは? 泡立っていますわ……」
「失礼なこと言うねぇ、お嬢ちゃん。こいつはスラム特製『ドブネズミ殺し(密造酒)』だよ。度数は高いが味は保証するぜ?」
ガンテツ姉さんがニカっと笑い、イザベラさんの背中をバシッと叩いた。
「さあ飲みな! 勝利の美酒だ! 飲まなきゃ帰さないよ!」 「ひゃうっ!?」
イザベラさんは勢いでジョッキを傾け――中身を一気に喉に流し込んだ。
「んぐっ、ごふっ……! か、辛い……喉が焼けるようですわ……!」
彼女は目を白黒させ、激しく咳き込んだ。
大丈夫かな。
優等生のイザベラさんに、こんな劇物は刺激が強すぎるんじゃ……。
だが次の瞬間、彼女の頬がカッと朱に染まり、瞳がとろんと潤んだ。
「……あ、あれぇ? なんだか、世界が回って……ふわふわしますわ……」
ドサッ。
イザベラさんは私の肩にもたれかかった。
「マリアさぁぁん! すごかったですわぁ! あの『溝落とし』! 道路交通法的には完全にアウトですけどぉ、私のハートもドリフトしちゃいましたわぁ~!」
「わわっ、イザベラさん酒臭い! 近いです!」
イザベラさんは私の首に抱きつき、猫のように頬ずりをしてきた。
甘えん坊モードだ。
「わたくしぃ、貴族の窮屈な生活に疲れてたんですぅ……。教科書なんて燃やしてやりたいと思ってましたの……。でもぉ、今日は生きてるって感じがしましたわぁ! 法律よりも、破壊の方が気持ちいいなんてぇ……私、不良になっちゃったかもぉ~!」
「あはは、十分不良ですよイザベラさん」
私は苦笑しながらも、彼女の背中をさすってやった。
身分も、種族も、立場も関係ない。
ただ一つの目的のために戦った仲間たちが、バカ騒ぎをして笑い合う。
こんな素敵な夜が、他にあるだろうか。
でも、私の目は、無意識にある一点を探していた。
この喧騒の、一番静かな場所。
ガレージの隅にあるドラム缶のそば。
パイプ椅子に座るローズマリーさんがいた。
彼女の手には安酒ではなく、カミーラさんが淹れた最高級の紅茶。
周りは鉄屑と油汚れだらけなのに、彼女が座ればそこは玉座の間になる。
ローズマリーさんは、バカ騒ぎする私たちを、静かなルージュの瞳で見つめていた。
「……騒がしいですね。頭痛がしそうです」
口では憎まれ口を叩きながらも、その口元は穏やかに緩んでいる。
知ってる。
ご主人様がそういう顔をする時、本当はすごく嬉しいってこと。
素直じゃないんだから。
ガンテツ姉さんが、つまみを持ってローズマリーさんの隣に座った。
「へっ、素直じゃねえな社長。……どうだ? アタシたちが作った『鉄屑の奇跡』は」
「悪くありません。……いえ、最高でしたよ」
ローズマリーさんは、ガレージの奥に鎮座する、泥だらけでボロボロになった「モデルA」を見上げた。
その瞳には、深い慈愛と誇りが宿っている。
「金で買える技術には限界があります。ですが、私たちの『執念』は、金では買えないスペックを叩き出しました。……感謝します、工場長」
「ケッ! 礼を言うならボーナス寄越しな!」
ガンテツ姉さんは照れ隠しに笑い、再び宴の輪に戻っていった。
一人になったローズマリーさんは、カップを置き、私に向かって小さく手招きをした。
クイクイ。
その仕草だけで、私の心臓が跳ね上がる。
レースの時とは違う、甘い緊張感。
私は、絡みつくイザベラさんをカミーラさんに預け、尻尾を振る犬のように駆け寄った。
「ローズマリーさん! 楽しんでますか?」
「ええ。……ですが、少し飲みすぎました」
ローズマリーさんは嘘をついた。
彼女は一滴も飲んでいない。
紅茶だけだ。
だが、その瞳はアルコールよりも強い、とろりとした熱を帯びていた。
私を捕食しようとする、肉食獣の瞳だ。
彼女は立ち上がり、すれ違いざまに私のネクタイを指先でくいっと引っ張った。
「……そろそろお開きにして、帰りますよ」
「え? もうですか? みんなまだ盛り上がってますけど……」
「ええ。……ここには人が多すぎます」
ローズマリーさんは、私の耳元に唇を寄せ、甘く、低い声で囁いた。
「貴女には、まだレースの『特別報酬』を渡していませんからね。……家に帰ったら……、たっぷりと、可愛がってあげますから」
ドキリ。
背筋に電流が走る。
その言葉の意味を理解し、身体の奥が疼くように熱くなる。
今日のレースの興奮。
極限状態での共闘。
死と隣り合わせのスリル。
それらが全て、形を変えた「欲」となって溢れ出してくる。
もっと触れてほしい。
褒めてほしい。
乱してほしい。
この熱狂の余韻を、二人きりの密室で、肌で確かめ合いたい。
私もまた、それをどうしようもなく渇望していたのだ。
「……イエス、マム」
声が震えてしまったかもしれない。
二人は目配せをし、宴の喧騒からそっと抜け出した。
外に出ると、スラムの夜空には満月が輝いていた。
冷たい夜風が火照った肌に心地いい。
月明かりの下、二つの影が寄り添うように重なり、アシュトン邸の方角へと消えていく。
宴は続く。
だが、ここからは二人だけの、もっと熱く、もっと激しい「夜の祝勝会」が始まる。




