第4話 ドSメイド・ローズマリーの命令「聞きなさい、駄犬」
ふかふかの感触と焦がしバターの芳醇な香り。
私の意識を泥のような眠りから引き上げたのは、天国のような幸福感だった。
「……ん」
重い瞼を持ち上げる。
そこは薄暗い石造りの牢獄……ではなく、王城の一室かと見紛うほど豪華な寝室だった。
天蓋付きのベッドに、肌触りの良い最高級シルクのシーツ。
煎餅布団しか知らない私の背中が、感動で震えている。
そしてサイドテーブルには、湯気を立てる厚切りベーコンと、ふわふわのオムレツが載った銀のトレイ。
「夢……? だよね……。私がこんな幸せな朝を迎えるわけがないし……」
「夢ではありませんよ」
凛とした、氷鈴のような声が響いた。
私は弾かれたように飛び起きた。
ベッドの脇に、いつの間にか一人の女性が佇んでいたからだ。
漆黒のロングヘアをきっちりとシニヨンに纏め、銀縁の眼鏡をかけた知的な美女。
身につけているのは、一切の皺がない完璧なメイド服。
その立ち姿は彫像のように美しかったけれど、眼鏡の奥のルージュの瞳は、どこか私を値踏みするような冷ややかな光を宿していた。
「おはようございます、アリア様。私はアシュトン公爵家に仕える筆頭メイド、ローズマリーと申します」
流れるような淑女の礼。
完璧だ。
でも、私の脳裏に蘇ったのは、昨夜の記憶――仮面の男に拘束され、弄ばれ、恥ずかしい声を上げさせられた記憶だった。
カッと顔が熱くなる。
「こ、ここはどこ!? あの変態仮面はどこ!?」
私はとっさに布団を首まで引き上げて叫んだ。
ローズマリーさんは眉一つ動かさず、涼しい顔で答える。
「ここはアシュトン公爵家の屋敷。そして……昨夜、貴女に対し『無礼』を働いたのは、当家の若き当主代行、レオンハルト様です」
「レオンハルト…様…?」
「はい。我が主ながら困ったお方でして。優秀なのですが、少々……性癖に難があるのです。『優秀な素材を見ると、手ずからその強度と感度を確かめたくなる』という、悪い癖が」
ローズマリーさんは淡々と、まるで今日の天気の予報でもするかのように言った。
「当主の非礼を、筆頭メイドとして深くお詫び申し上げます。……もっとも、アリア様は、満更でもなかったご様子だと伺っておりますが?」
「っ!? ち、ちがうもん! あれは魔道具のせいで……!」
「ふふ、そういうことにしておきましょう。さぁ、まずは食事を。毒は入っておりません」
空腹には勝てない。
私はおずおずと、フォークでオムレツを口に運んだ。
瞬間、口の中で卵とバターの風味が爆発した。
「んんっ~! おいひぃぃぃ!!」
頬がだらしなく緩むのを止められない。
こんな美味しいもの、生まれて初めて食べたかもしれない。
ローズマリーさんは、餌付けされる野良犬を見るような無機質な目で、私が皿を舐める勢いで完食するのを静かに見守っていた。
皿が空になると、ローズマリーさんは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
部屋の空気が、ピリリと変わる。
「さて、お腹も満たされたところで、ビジネスの話をしましょう」
テーブルに置かれたのは、分厚い契約書だった。
「単刀直入に言います。アリア様、貴女には当家の令嬢、マリア様の『影武者』になっていただきたいのです」
「か、影武者?」
「ええ。マリア様は生まれつき病弱で、人前に出ることができません。ですが、高潔な貴族義務として、王立学園に通い、社交界デビューを果たさねばなりません」
ローズマリーさんは眼鏡の位置を中指でくい、と直しながら説明を続ける。
「そこで、貴女の出番です。昨夜のレオンハルト様の『テスト』で証明された通り、貴女の身体能力と魔力量は規格外。魔力回路も申し分なく、感度も良好」
「だ、だから! あれは魔道具のせいで……!」
「そして何より、アリア様はお金に困っている。双方のニーズに合致するはずです」
「うっ……」
「条件を提示します。契約期間は学園卒業までの三年間。報酬として……」
ローズマリーさんはすっと指を一本立てた。
「一、ベルンシュタイン家の借金、および未納の税金を全額肩代わりします」
「ぜ、全額!?」
「二、王立学園の入学金、授業料、生活費を全て当家が負担します」
「ええっ!?」
「三、祖父様の介護と治療も、最高級の療養院を手配しましょう」
「おじいちゃんまで……!」
私の目が、完全に金貨の形になった。
それは、私が喉から手が出るほど欲しかったもの全てだ。
これさえあれば、家を守れる。
おじいちゃんを救える。
夢だった学園生活が送れる。
影武者が危険な仕事だということは分かる。
でも、今の極貧生活よりマシに決まっている。
「や、やります! やらせてください!」
「……よろしい。では、ここにサインを」
私はローズマリーさんが差し出した羽ペンを奪い取るようにして、契約書にサインをした。
書き終えた瞬間、羊皮紙が魔力光を帯びて輝き、契約が成立する。
「よしっ! これで私も王立学園の生徒……! ねぇローズマリーさん、制服はいつ貰えるの? ご飯は毎日出るの?」
私は浮かれ気分で、満面の笑みをローズマリーさんに向けた。
しかし。
「――黙りなさい」
返ってきたのは、室温が五度は下がったかのような、絶対零度の声だった。
「え?」
思考が凍りつく。
目の前にいるローズマリーさんの雰囲気が、一変していた。
先ほどまでの「有能で丁寧なメイド」の仮面は剥がれ落ち、そこにあるのは、獲物を見下ろす捕食者の瞳。
ローズマリーさんはゆっくりと私に歩み寄ると、白い手袋に包まれた指先で、私の顎を強引にすくい上げた。
「い、いた……」
「聞きなさい、駄犬。貴女は今この瞬間から、マリア様の所有物。つまり、私の管理下に置かれたということ」
眼鏡の奥の赤い瞳が、妖しく、そして嗜虐的に細められる。
その唇には、ゾクリとするほど美しい、加虐的な笑みが浮かんでいた。
「勘違いしないで? 貴女はお客様ではない。高額で買い取られた『犬』なの」
「い、犬って……そんな……」
「言葉遣い、姿勢、教養、魔術……全てにおいて貴女はゴミ以下。明日から王立学園? ふざけないで。今の貴女を外に出せば、アシュトン家の恥よ」
ローズマリーさんは私の顎を離すと、まるで汚いものに触れたかのように手袋をパンと払った。
「今日から特訓を始めます。食事のマナーでミスをすれば食事抜き。言葉遣いを間違えれば鞭打ち。寝る間も惜しんで、貴女のその貧乏根性を叩き直してあげる」
「む、鞭打ち!? 話が違う……!」
「違わないわ。契約書をよく読みなさい。『教育的指導に関する一切の権限は、甲に帰属する』と書いてあるでしょう?」
私は顔面蒼白になった。
さっきまでの丁寧なメイドさんはどこへ行ったの!? これが本性なの!?
ローズマリーさんは私の耳元に顔を寄せ、甘く、毒を含んだ声で囁いた。
「安心なさい。私は厳しいけれど、出来のいいペットは可愛がる主義なの。……泣いて許しを請うまで、徹底的に仕込んであげるから、覚悟しなさいね?」
「ひぃっ……!」
私は小さく悲鳴を上げた。
仮面男も怖かったけど、このメイドさんの笑顔はもっと怖い。
でも、どうしてだろう。
身体の震えが止まらないのに――逃げようとする意志が生まれてこないのは。
逃げ場のない契約と首輪に繋がれた貧乏令嬢の、波乱万丈な影武者ライフが、ここに幕を開けたのだった。
次回予告: 始まった地獄の淑女教育。 「フォークの角度が違います!」(バシッ) 「背筋!」(ピシッ) 「言葉遣い!」(メッ) 鬼教官ローズマリーの指導に、私の精神は崩壊寸前!? 「夜の業務の時間ですよ、アリア」
次回、「影武者修行は地獄、夜のお仕置きはもっと地獄」




