第33話 「開戦の狼煙。焦土と化す国境」
【ローズマリー視点】
【深夜:王国北西部・国境防衛線】
夜空が、昼間のように明るかった。
照明ではない。
地平線を埋め尽くす紅蓮の炎が、闇を焼き払っているのだ。
ズゥゥゥゥゥゥゥン……。
大地の底から響く振動。
国境の丘陵地帯を越えて現れたのは、鉄の津波だった。
帝国軍の主力機甲師団。
無骨で巨大な蒸気戦車が数百、その後ろには数万の歩兵と魔導士部隊が続く。
対する王国軍は、保守派のサボタージュにより、わずかな守備隊しか配置されていない。
絶望的な光景。
だが、その最前線に、一色の旗が翻っていた。
アシュトン公爵家の紋章旗――「剣と薔薇」。
その旗の下で、私は血の味を噛み締めながら、つい数時間前の光景を反芻していた。
◇
【王宮晩餐会】
ダンスフロアの中心で、煌びやかなシャンデリアの光を浴びて踊る二人。
アルベルト王子と、私の愛しい「駄犬」。
その光景は、絵画のように美しく、そして私にとっては内臓を抉られるほど不愉快なものだった。
……よく耐えていますね、アリア。
その笑顔、合格です。
内心の焦燥を押し殺し、私はグラスを傾けた。
私の周りには、数人の貴族たちが集まっている。
彼らは「改革派」。
腐敗した王国を憂い、アシュトン家の改革を支持する数少ない味方たちだ。
「……レオンハルト殿。状況は芳しくない」
髭を蓄えたベルク伯爵が、周囲に聞こえぬよう深刻な顔で囁く。
「国境付近で、帝国軍の動きが活発化している。……奴らは『魔導戦車』を配備したとの情報がある」
「戦車、ですか」
私は、表情ひとつ動かさずに答えた。
声色はあくまで冷静に、鉄の仮面を被り続ける。
「保守派が帝国と裏で繋がっている証拠は?」
「まだ掴めない。だが、王都への食料供給が意図的に滞り始めている。……奴らは民衆の不満を煽り、内乱を起こさせて、その隙に帝国軍を引き入れるつもりだ」
私は静かに頷いた。
王国の内臓は、想像以上に腐り落ちている。
アシュトン家が倒れれば、この国は1週間も持たないだろう。
「……糧食のルートは、アシュトン家の裏ルートを使って確保します。皆さんは、近衛騎士団内の不穏分子を洗ってください。……開戦は、近い」
私の指示に、改革派の貴族たちは息を呑み、そして静かに散っていった。
……ぐ、ぅ……
不意に、胃の腑から熱いものがこみ上げる。
私は手袋をした手で口元を覆い、誰にも気づかれないように血を飲み込んだ。
鉄錆の味が口いっぱいに広がる。
変装魔法の維持と、アリアの指輪への魔力供給。
限界はとうに超えている。
それでも、立っていなければならない。
あの子を守るために。
その時、甘い香水の匂いが漂った。
深紅のドレスを纏った妖艶な美女、ベアトリス・ヴァン・ルージュ。
死の商人が、音もなく私の背後に立っていた。
「あらあら。顔色が悪いわよ、ハンサムな騎士様?」
ベアトリスは扇子で口元を隠し、媚びるように私に近づいた。
「……何の用だ、武器商人」
「商談よ。……あの子、マリアちゃんを私に譲ってくれない? そうすれば、アシュトン家への資金援助と、帝国の新型兵器のデータ……オマケしてあげるわよ?」
私の瞳が、氷点下まで冷え込むのを感じた。
資金援助。
兵器データ。
喉から手が出るほど欲しい切り札だ。
だが。
「……断る。彼女は道具ではない」
あの子は、私の生きる目的だ。
あの子は、私の命だ。
あの子を売って得る未来など、地獄でしかない。
「あら、道具として扱っているのは貴方たちじゃない? こんな危険な晩餐会に連れ回して、矢面に立たせて」
ベアトリスはクスクスと笑っていたが、ふと、その瞳から戯れの色が消えた。
彼女は真剣な眼差しで、仮面の下の素顔を見据えた。
「……ねえ。貴女、いつまでその『仮面』を被り続けるつもり?」
「……何の話だ」
「無理よ。その身体、もうボロボロじゃない……」
ベアトリスは、そっと私の手のアリアに嵌めた指輪と同じ場所に触れた。
その手は温かく、同情の色さえ帯びていた。
「貴方まで、この腐った王国と一緒に沈む必要はないわ。……優秀すぎる人間は、早死にするのよ。今からでも遅くはないわ。私のもとに来ない?ローズマリーちゃん」
最後の名を、音にならない声で囁く。
「……余計なお世話だ」
私は彼女の手を荒々しく振り払った。
認めれば、すべてが終わる。
「そう。……残念だわ。貴女のこと、嫌いじゃないのに」
ベアトリスは寂しげに肩を竦め、人混みへと消えていった。
音楽が終わる。
アリアが王子から解放され、こちらへ戻ってくるのが見えた。
彼女の顔には疲労が見えるが、その瞳は意志の光を失っていない。
私を見て、ほっとしたように表情を緩めるあの子。
……よく耐えましたね、アリア。
私は仮面の下で、こっそりと微笑んだ。
早くここを出よう。
「帰ろう」と声をかけ、屋敷であの子の好きな温かいミルクでも飲ませてやりたい。
そして、私の腕の中で眠らせてあげたい。
だが、その時。
懐の通信用魔道具が、うなり声を上げるように激しく振動した。
『緊急事態です! 代行!』
カミーラの悲鳴のような声。
『港の倉庫街で、大規模な魔力反応! 保守派の私兵団が、帝国の新型兵器を起動させようとしています! このままでは、王都の商業区が吹き飛びます!』
私は足を止めた。
アリアを見る。
彼女はドレスの裾を翻し、私の方へ駆け寄ってくる。
その笑顔。
――選択しなければならない。
今すぐここを離れ、爆発を止めるか。
アリアと共に屋敷へ帰り、彼女の安全を守るか。
もし私が行けば、今の身体では無事では済まないかもしれない。
アリアを一人残すことになる。
けれど、商業区には何万人もの市民がいる。
あの子が愛した、美味しいお菓子屋や、パン屋がある。
……ごめんなさい、アリア。
私は、血の味を噛み締めながら、アリアに背を向けた。
公爵家当主として、選ぶべき道は一つしかなかった。
私は、愛する者を孤独にする道を選んだ。
◇
【アシュトン家・臨時野戦司令部】
前線から数キロ後方。
天幕の中に、私は立っていた。
儀礼服はボロボロで、包帯からは血が滲んでいる。
だが、その瞳だけは、戦場の炎よりも激しく燃えていた。
「状況報告!」
「第一防衛ライン、突破されました! 帝国軍の数は想定の十倍……いや、それ以上です!」
伝令兵の悲鳴に近い報告。
私は、血塗れの地図を睨みつけた。
早い。
早すぎる。
……こちらの防衛配置が筒抜けだわ。
保守派が情報を流したのだ。
この国を売ってでも、自分たちの権益を守るために。
「閣下! 撤退を! これ以上は……」
「退きません」
私は即答した。
「ここで退けば、王都まで一直線です。民が蹂躙されます。……アシュトン家が、最後の壁になります」
私は、机上の赤いボタンに手をかけた。
これだけは使いたくなかった。
アシュトン家の財政を破綻させるほどの借金の原因となった、禁断の切り札。
「『銀の戦車』隊、全機起動。……見せてやりなさい。八億の借金が、伊達ではないことを」
戦場に、澄んだ駆動音が響き渡った。
アシュトン家の陣地から出撃したのは、わずか十二両の戦車だった。
だが、それは帝国の無骨な鉄塊とは違っていた。
流線型の銀色の装甲。
車輪ではなく、無限軌道。
ヒュンッ!
先頭車両が滑るように加速し、帝国の戦車隊に突っ込んだ。
砲塔が回転し、青白い光弾が放たれる。
ドォォォォォォンッ!!
一撃。
帝国の重戦車が、紙細工のように吹き飛び、爆発四散した。
「な、なんだあれは!?」
「速い! 照準が合わない!」
『銀の戦車』は戦場を舞うように駆け巡り、次々と敵戦車を鉄屑に変えていく。
その圧倒的な性能。
私が、私財の全てと、自身の魔力理論を注ぎ込んで開発した、王国を守るための結晶だった。
「行ける……! これなら!」
私兵団の兵士たちが歓声を上げる。
だが、私の表情は晴れなかった。
ゴフッ……!
天幕の中で、私は口元を押さえて崩れ落ちた。
指の隙間から、どす黒い血が溢れる。
『銀の戦車』の動力源は、搭載されている魔力炉だけではない。
遠隔地にある「魔力炉」――つまり、私自身から供給されている。
十二両の怪物を動かす負荷が、瀕死の心臓を直接叩く。
「閣下ッ!!」
「……構いません。続けなさい……!」
私はカミーラの手を借りて、無理やり立ち上がった。
まだだ。
まだ倒れるわけにはいかない。
アリアが、遠くへ逃げる時間を稼ぐまでは。
◇
『銀の戦車』は無敵だった。
だが、戦争は「個の質」だけでは決まらない。
「敵増援! さらに三百両!」
地平線を埋め尽くす帝国の第二陣。
いくら高性能でも、十二両で数千の軍勢を支えきれるわけがない。
一両、また一両と、弾切れや故障で動きを止めた『銀の戦車』が、敵の集中砲火を浴びて爆発していく。
「あぁ………」
私の口から、自嘲のような呻きが漏れる。
金が惜しいのではない。
それが砕かれるたびに、守るべき防壁が薄くなっていく絶望。
そして、トドメとなる報告が入った。
「王都より緊急連絡! 保守派貴族の私兵団が武装蜂起! 王宮および商業区を制圧! ……我々は、背後を断たれました!」
挟み撃ち。
前には帝国の大軍。
後ろには裏切り者の刃。
アシュトン家は、完全に孤立した。
天幕の外では、私兵たちが次々と倒れていく。
もはや、これまでか。
私は、血に濡れた手で、懐の指輪を握りしめた。
アリアの指輪と対をなす、魔力を失った指輪。
「……カミーラ」
「はい、お嬢様」
カミーラは、泣いていなかった。
彼女もまた、覚悟を決めた顔で主人の傍に控えている。
「『最終作戦』を実行します。……準備は?」
「……出来ております。ですが、それを使えば、お嬢様の命は……」
「構いません」
私は、燃え盛る戦場を見つめた。
もう怯えや迷いはなかった。
「私はアシュトン公爵家当主、マリア・アシュトン。……この国を、そしてあの子が生きる世界を、野蛮人たちに渡すわけにはいきません」
私は振り返り、最後の命令を下した。
「カミーラ、貴女は行きなさい。……アリアの元へ」
「!? お断りします! 私は最期までお嬢様と!」
「これは命令です!」
拳を握りしめる。
「『あれ』をアリアに渡しなさい。そして伝えなさい。……『自由になりなさい』と」
私はここで、この戦場と共に燃え尽きる。
だからせめて、愛する「駄犬」には、鎖のない世界で生きてほしい。
「……お嬢、様……っ」
カミーラは崩れ落ち、床に額を擦り付けて慟哭した。
私は優しくカミーラの頭を撫で、そして杖を手に、一人で天幕の外へと歩き出した。
雨は上がり、空には白々と夜明けが迫っていた。




