第30話 「炎上する倉庫、砕け散った仮面」
【王都・雨の路地裏】
バシャッ、バシャッ!
冷たい雨が叩きつける石畳を、私は裸足で駆けていた。
脱ぎ捨てたヒールのことなんて、もうどうでもいい。
泥水が跳ね、破り捨てたドレスの裾が重く絡みつくけれど、私の足は止まらない。
……匂う。
鉄と、油と、血の匂い!
私の鼻は、微細な魔力の残滓を捉えていた。
あの嫌味な公爵家当主代行、レオンハルトの匂いだ。
でも、おかしい。
さっきまでの冷徹で整った匂いじゃない。
焦げて、乱れて、今にも消え入りそうな……まるで、嵐の中の蝋燭みたいな匂いがする。
「……死なせないから」
左手の指輪がドクンと脈打ち、私の心臓を焦がす。
あんな傲慢で、私のことを駄犬呼ばわりする男なんて、放っておけばいいはずなのに。
指輪から流れてくる熱が、どうしてもローズマリーさんの温もりに似ていて――私を突き動かすのだ。
ズドォォォォン……!!
遠くで重い爆音が響いた。
港の方角だ。
私は地面を蹴り砕く勢いで加速した。
◇
【王都港湾区・第4倉庫街】
たどり着いたそこは、地獄だった。
燃え盛る倉庫。黒煙を切り裂いて咆哮するのは、見上げるような鋼鉄の巨人。
その足元に、泥人形のように転がる人影があった。
「ハァ……ハァ……くそっ……!」
レオンハルトだ。
いつもの優雅さは微塵もない。
漆黒の礼服はボロボロで、白い仮面には亀裂が走り、左肩からはどす黒い血が流れている。
……何やってんのよ、あいつ!
弱々しく剣を杖にして立ち上がろうとする姿は、あまりにも小さく、脆く見えた。
あんなに偉そうに命令して私を遠ざけたくせに、自分ひとりで勝手に死のうとしてる。
腹が立つ。
ムカつく。
……でも、それ以上に、胸が締め付けられるほど苦しい。
ウィィィン……!
巨人の魔導砲が光を帯びる。
照準は、動けないレオンハルト。
彼は逃げない。背後の倉庫を――民衆の食糧を守るために、死を受け入れようとしている。
「……ここを通すわけには……いかない!」
バカ!
死んだら意味ないじゃない!
私は叫び声を上げるよりも速く、地面を爆縮させて飛び出した。
ドゴォォォォォンッ!!
巨人の顔面が発射しようとした瞬間、私は飛び蹴りをその横っ面に叩き込んだ。
鋼鉄がひしゃげる感触。
数十トンの巨体が、ボールのように吹き飛び、倉庫の壁を突き破って沈黙する。
もうもうと立ち上る土煙の中、私は裸足で着地した。
足の裏に砂利が食い込む痛みさえ、今の私には戦意を高めるスパイスだ。
「……アリア!? なぜここに……!」
レオンハルトが掠れた声で叫ぶ。
私は濡れた髪をかき上げ、雨の中でニカッと笑ってやった。
「命令違反で解雇ですか? でも、ピンチでしょ、騎士様!」
「馬鹿者が! 屋敷へ戻れと言っただろう! ここは戦場だぞ!」
「嫌です! 隙を見せれば、アシュトン家の名が汚れるって言ったくせに!」
私は拳を構える。
指輪が熱く輝く。
彼の魔力と私の肉体が共鳴し、力が満ちていくのを感じる。
「それに……貴方の魔力が泣いてる気がしたんです。放っておけませんよ」
「……っ」
レオンハルトが息を呑んだのが分かった。
ほらね。
やっぱり、あんたは寂しがり屋だ。
「……ふっ、仕方ない。背中は任せるぞ、駄犬!」
「はいはい、ワンワン!」
そこからは、自分でも驚くほどの連携だった。
私が突っ込み、敵の防御を粉砕する。
その隙間を、レオンハルトの雷撃が貫く。
言葉はいらない。
背中合わせになった瞬間、互いの鼓動が重なるような感覚。
まるで、ずっと昔からこうして戦っていたみたいに。
再起動した巨人が暴走し、襲いかかってくる。
「ちっ、しぶとい! アリア、合わせろ! 私が動きを止める!」
「いつでもいいですよ!」
レオンハルトが氷の魔法で巨人の足を縫い止める。
私は雨粒を足場にして跳躍した。 狙うは動力炉。
「ご主人様の国から、出て行けぇぇぇッ!!」
ズガァァァァァァンッ!!
私の拳が鋼鉄を貫き、巨人は完全に沈黙した。
勝った。
私は着地し、泥だらけの顔で彼を振り返った。
「やりましたね! ほら、私がいれば楽勝でしょ?」
レオンハルトも、仮面の下で微かに笑った気がした。
守れた。
彼の命も、この国も。
安堵して駆け寄ろうとした、その時。
キィィィィィィン……
不吉な高音が響いた。
倒れた巨人の胸部が、異常な赤熱を帯びている。
「アリア、離れろッ!!」
思考する間もなかった。
黒い影が、私の視界を塞いだ。
レオンハルトが私を突き飛ばし、覆いかぶさるように抱きしめたのだ。
「伏せろッ!」
カッ!!
世界が白く染まった。
背中で爆風を受け止める彼から、悲鳴のような魔力の奔流が溢れ出し――そして、ガラスが割れるような音がした。
パリンッ……
私を守っていた温かい結界が消え、同時に、彼を包んでいた「何か」が弾け飛んだ。
雨音が戻ってくる。
私は無傷だった。
私の上に覆い被さるようにして倒れている騎士を除いては。
「……レオン、ハルト……さん?」
私は震える手で、騎士の身体を揺すった。
軽い。
騎士の身体が、力なく横に転がる。
私は息を呑んだ。
時が止まった。
そこに倒れていたのは、長身の青年騎士ではなかった。
短かったはずの黒髪は魔法が解けて長く伸び、雨に濡れて地面に広がり、濡羽色に艶めいている。
そして、割れた白い仮面の下から現れた素顔。
透き通るような白い肌。
苦痛に歪む、長い睫毛。
それは、私がこの世で一番愛し、誰よりも守りたかった人の顔だった。
「……あ……」
言葉にならない声が漏れる。
倒れた少女が、苦しげに身じろぎをし、咳き込んだ。
口元からは鮮血が流れ出し、蒼白な頬に張り付いている。
その華奢な肩は、私が毎晩抱きしめていた、あの儚い細さだった。
「……う、そ……」
足が震える。
膝から力が抜け、泥水の中に座り込んだ。
左手の指輪の熱が、急激に冷えていくのを感じた。
脳裏に、今までの全ての違和感がフラッシュバックする。
騎士の手の異常な冷たさ。
あの夜の「感度検査」の、どこか愛おしげな指の感触。
指輪から流れる、焦がれるような魔力の味。
全てが繋がった。
繋がってしまった。
「ローズマリー……さん……?」
私の悲痛な呼びかけに、少女の長い睫毛が震えた。
ゆっくりと開かれた瞳。
そこには、もう「レオンハルト」としての強気な光はない。
雨に打たれながら、ローズマリーさんは私を見た。
「……見、られ……て……」
掠れた声が、雨音にかき消される。
燃え盛る倉庫の炎が、二人の影を揺らめかせる。




