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第27話 「ご主人様のためのポーション。目覚めのキスと忠犬」

【深夜:アシュトン公爵邸・主寝室】


屋敷を叩く激しい雨音だけが、耳障りに響いていた。  


主寝室の空気は、鉛のように重く、冷たい。  


「お嬢様……」


バンッ!!


私は扉を蹴破るようにして開け放った。


カミーラさんが、ベッドの傍らで音もなく泣いているのが見えた。


天蓋付きのベッドに横たわるローズマリーさん。  


その呼吸は、今にも途絶えそうなほど浅く、頼りない。  


透き通るような白い肌は、もはや生者のそれではなく、死人のように青ざめている。  


さっきすれ違った医師たちは、首を振って逃げるように出て行った。


匙を投げたのだ。 


「アリア様!? その怪我……それにその格好は……!」


カミーラさんが息を呑む。  


無理もない。


私の革鎧は魔獣の爪で裂け、銀の仮面は半分砕け散り、自慢の銀髪は赤黒い返り血でべっとりと濡れているのだから。  


でも、そんなことはどうでもいい。


「カミーラさん。……特効薬を持ってきました」


私はよろめく足でベッドに駆け寄ると、懐から小瓶を取り出した。  


『神代の霊薬(エリクサー)』。  


薄暗い部屋の中で、その液体だけが青白く、神々しい光を放っている。


「まさか、それを手に入れるために……!」


「……飲ませます」


私は震える手で蓋を開けた。  


だが、ローズマリーさんにはもう、自力で飲み込む力さえ残っていない。


戻ってきて。


お願い、ご主人様……!


迷わず、霊薬を自分の口に含んだ。  


――苦い。  


舌が痺れるほどの高濃度の魔力水。


喉が焼ける。  


私は、冷たくなってしまった彼女の唇に、自身の唇を重ねた。


「……ん……」


口移しで、生命の滴を流し込む。  


一滴も溢さないように。  


ご主人様の命を、この世界に繋ぎ止めるために。  


それはキスなんて甘いものではなく、命を削って分け与えるような、必死の祈り。


長く、深く、唇を重ね続ける。  


やがて、奇跡が起きた。


ゴクリ。  


ローズマリーさんの喉が微かに動き、液体を飲み下す音がした。  


その瞬間、カッと青白い光が彼女の全身を巡り、血管を走るのが見えた。  


死人のようだった頬に、見る見るうちに赤みが戻っていく。


「……ん、ぁ……苦い、です……」


長い睫毛が震え、ローズマリーさんがゆっくりと目を開けた。  


まだ焦点の合わないルージュの瞳が、ぼんやりと目の前の私を捉える。


「……アリア? どうして、泣いて……」


「……良かった。本当に、良かった……!」


私はローズマリーさんの胸に崩れ落ち、声を上げて泣いた。  


魔獣の前でも、殺し合いのリングの上でも、一滴も流さなかった涙が、堰を切ったように溢れ出した。  


温かい。


心臓が動いている。  


それだけで、世界が輝いて見えた。


                   ◇


【翌朝:主寝室】


嵐は去り、穏やかな朝の光が差し込んでいた。  


ローズマリーさんは身体を起こし、呆然と目の前の光景を見つめていた。


ベッドの横に積み上げられた、小山のような金貨の袋。  


総額、八億枚。  


アシュトン家の借金を一括返済できる額だ。  


そして、椅子の背には、血に濡れて使い物にならなくなったボロボロの革鎧と、割れた銀の仮面が掛けられている。  


その横で、私は包帯だらけの手でリンゴを剥いていた。


「……アリア。説明なさい」


ローズマリーさんの声は震えていた。  


怒りではない。


それは、深い悲しみと恐怖を含んだ震えだった。


「説明も何も、稼いできただけですよ。これで借金もチャラ、お薬代もペイできました!」


私は「えへへ」と笑って見せる。  


まだ傷は痛むけど、ご主人様の顔色が良くなったのを見れば、痛みなんて吹き飛ぶ。


ローズマリーさんは、私の手を掴んだ。  


その指先は、まだ冷たく、弱々しい。


「……私は言いましたね。『目立つな』と。……この傷は、この大金は、何ですか。駄犬は私の命令を破って、何を……」


叱責しようとした声が、詰まる。  


私の傷だらけの手を、ご主人様の両手が包み込む。


「約束、破っちゃいました。ごめんなさい。……でも、ご主人様が死ぬくらいなら、私、悪魔にだってなりますから」


私の言葉に、ローズマリーさんは唇を噛み締め、涙を溜めた瞳で私を睨んだ。  


それは、今まで見た中で一番優しい「睨み」だった。


「……馬鹿な子。……本当に、大馬鹿者ですね……」


ローズマリーさんは私を引き寄せ、強く抱きしめた。  


叱る言葉はなかった。  


ただ、震える身体で私の体温を確かめている。  


私も、ご主人様の背中に腕を回した。  


ご主人様の匂いと、生きた人間の温もり。  


ああ、守れたんだ。


この人を。


                ◇


【午後:つかの間の休息】


借金取りたちは、金貨の山を見て腰を抜かし、平身低頭で帰っていった。  


屋敷には久しぶりに平穏な時間が流れていた。  


私はベッドサイドで、不器用ながらもウサギの形に切ったリンゴをお皿に並べている。  


ローズマリーさんは枕に背を預け、その様子を愛おしそうに眺めていた。


コンコン。


控えめなノックと共に、カミーラさんが入室してきた。  


その顔色は優れない。  


手には、豪奢な封筒が乗った銀の盆を持っている。


「ローズマリー様。……王宮より、急使です」


ローズマリーさんが封筒を受け取る。  


深紅の蝋で封印された、王家の紋章。  


開封し、文面に目を通した瞬間、彼女の空気が変わった。  


瞳孔がスッと細められ、戦場に立つ騎士のような鋭さが宿る。


「ローズマリーさん? どうかしたんですか?」


私が不思議そうに覗き込む。  


彼女は一瞬で表情を和らげ、私に向かって優雅に微笑んだ。


「……いいえ、良い知らせですよ、アリア。王宮から、先日の活躍を褒めてくださるそうです。パーティーのお誘いですよ」


「えっ! パーティーですか? 美味しいもの、出ますか?」


私は無邪気に目を輝かせる。王宮のご飯!


「ええ、出ますとも。……アリア、カミーラと共に別室へ行きなさい。最高のドレスを選んで、着付けの準備をするのです」


「はい! やったぁ!」


私は嬉々として部屋を出て行った。  


美味しいお肉が食べられる。


ご主人様も元気になった。


最高だ。  


……その時の私は、ローズマリーさんが背中で隠した「決意」に、気づくことができなかった。


                  ◇


【夕刻:主寝室】


一人残されたローズマリーは、痛む身体を引きずってベッドから降りた。  


クローゼットの奥、隠し扉を開ける。  


そこに保管されていたのは、亡き父が愛用していた「儀礼用の騎士服」だった。


「……アリア。貴女は『物理(ちから)』で私を守ってくれました」


ローズマリーは騎士服に手を触れる。  


冷たい金属の感触が、覚悟を促す。  


王宮からの手紙は、ただの招待状ではない。


アリアという「力」を王家に取り込むための召喚状だ。


「ならば、ここから先の『政治(ことば)』の戦場は、私が引き受けましょう」


彼女は鏡の前で、長く艶やかな黒髪をきつく結い上げた。  


そこにはもう、病弱な令嬢はいなかった。  

次回予告 :王宮晩餐会へ向かう馬車の中。 私の隣に座るのは、メイドの面接で私を弄んだ仮面の男、レオンハルト。 「今宵のエスコートは、私が務める」 そう語る彼は私に一つの指輪を渡す。 「これは私の魔力を込めた護身具だ。……何があっても、外してはならない」 その指輪から流れる温かい魔力の波長に、私は既視感を覚える。

次回、「王宮へ向かう車中。指輪に込められた祈り」

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