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第23話 「夕方の執務室。倒れた鉄の女」

【早朝:アシュトン公爵邸・地下室】

地下室の小窓から、埃の中を踊るような細い朝日が差し込んでいた。

 

石造りの冷たい部屋だが、拘束台の上のベルベットの寝台だけは、まどろむような熱気に包まれていた。

 

私は目を覚ますと、腕の中にいる主人の温もりを確かめた。  


昨夜、狂ったように私を求め、泣き叫び、全てを注ぎ込んでくれたローズマリーさん。

 

今は私の胸に顔を埋め、赤子のように安らかな寝息を立てている。


……可愛い。


この人が、あの「鉄の女」だなんて誰も信じないだろうな。


私は、ご主人様の乱れた黒髪を指で梳いた。  


首筋や胸元に残る無数のキスマークが、昨夜の激しさを物語っている。


痛みはあるが、それは不快ではなく、愛された証のように思えた。


「……ん……アリア……?」


ローズマリーさんが長い睫毛を震わせて目を開けた。  


まだ夢の縁にいるような、とろんとした瞳が私を見上げる。


「おはようございます、ご主人様。……昨日はすごかったですね」


「……茶化さないでください。……駄犬が、どこかへ行ってしまいそうで、怖かったのです」


彼女は恥ずかしそうに視線を逸らし、けれど私の手をギュッと握りしめた。  


その手は氷のように冷たかった。


「手が冷たいですよ?」


「……魔力を使いすぎたせいでしょう。少し、身体が怠いだけです」


ローズマリーさんは気丈に振る舞い、私の頬にそっと口づけを落とした。


「アリア。駄犬は私の光です。……貴女がいるから、私はまだ戦えます」


「はい。私も、ローズマリーさんが大好きです。これからも、ご主人様のために働きます!」


朝日の中で交わされる、甘く穏やかな約束。  


私はこの幸せが永遠に続くと信じていた。


                 ◇


【放課後:王都の大通り】

その日、私は変装して、王都の街へ繰り出していた。  


目的は一つ。  


朝、少し元気がないように見えたローズマリーさんを励ますための「最高のお土産」を手に入れることだ。


「えーっと、行列はどこだ……あ、あった!」


王都で一番人気のパティスリー『銀の匙』。  


ここの「季節限定・宝石フルーツタルト」は、ローズマリーさんが以前、雑誌を見て「美味しそうですね」と呟いていた品だ。


「よし、並ぶぞ! 待っててくださいね、ローズマリーさん!」


私は長い行列の最後尾についた。  


昨日の「魔獣暴走」を止めた英雄だとバレないよう、深くフードを被っている。


ローズマリーさん、最近ずっと眉間にシワ寄せてるんだもん……。


甘いものを食べて、昨日の夜みたいに、とろけるような顔で笑ってほしい。


私の脳裏には、タルトを見て目を輝かせるご主人様の姿が浮かんでいた。


「仕方ありませんね、一口だけですよ」なんて言いながら、一緒にティータイムを楽しむのだ。  


そうすれば、きっとまた元気になる。  


私はそう信じて、二時間待ちの行列を耐え抜いた。


ようやく手に入れた、宝石箱のようなタルト。

 

私はそれを胸に抱き、弾むような足取りで屋敷への道を急いだ。

 

空には、灰色の雲が広がり始めていたが、私の心は晴れやかだった。


                ◇


【夕刻:アシュトン公爵邸・執務室】


「ただいまー! ローズマリーさん、お土産ですよー!」


私は玄関を飛び込み、カミーラさんに挨拶するのももどかしく、執務室へと走った。  


早くあの笑顔が見たい。


その一心だった。  


コンコン、とノックもそこそこにドアを開ける。


「ジャジャーン! 見てください、『銀の匙』の限定タルトです!」


夕闇が迫る執務室。

 

明かりもつけず、薄暗い部屋の中で、ローズマリーさんは書類の山に埋もれていた。

 

私の声に、ご主人様はゆっくりと顔を上げる。


「……お帰りなさい、アリア。随分とご機嫌ですね」


ローズマリーさんはペンを置き、微笑んだ。  


完璧な微笑みだった。  


背筋を伸ばし、優雅で、気品に満ちたアシュトン公爵家メイド長の顔。


「だって、二時間も並んだんですから! ほら、休憩にしましょう? 紅茶を淹れますから!」


私が箱を掲げて机に近づくと、ご主人様は眼鏡の位置を直し、「ふふ」と小さく笑った。


「本当に駄犬は……。私が甘いものに目がないと知っての狼藉ですか」


「当たり前じゃないですか! さあ、あーんしてあげますから!」


「……仕方ありませんね。ちょうど、仕事も一段落したところです」


ローズマリーさんが机に手をつき、椅子から立ち上がろうとした。  


その動作は優雅で、いつも通りに見えた。  


私はワクワクしながら、タルトの箱を開けようとした。


――ガタン。


不意に、重い音がした。  


見ると、机の上のインク瓶が倒れ、黒い液体が書類を汚していく。  


ローズマリーさんの指先が、小刻みに震えている。


「……あれ? ローズマリーさん? インクが……」


「……あ……」


彼女は汚れていく書類を見つめ、何か言おうとして、口をパクパクと動かした。  


だが、声になっていない。


「ごめ、なさい……アリア……」


その笑顔が、ガラスのようにひび割れた。  


ふわり。  


まるで重力が消えたかのように、ローズマリーさんの身体が傾いた。  


糸が切れた操り人形。  


瞳から光が消え、焦点が虚空を彷徨う。


「っ!?」


私はタルトの箱を放り投げた。  


甘い香りのする宝石が床に散らばり、無惨に砕ける。  


私は机を飛び越え、床に激突する寸前、彼女の身体を受け止めた。


「ローズマリーさん! しっかりして!」


腕の中のご主人様は、朝の冷たさが嘘のように、火傷しそうなほど熱かった。


「はぁ……はぁ………」


彼女の唇から、苦しげな呼吸と、うわ言が漏れる。  


意識がない。  


私は悟った。  


ご主人様の笑顔は、無理をしていたなんてレベルじゃなかった。

 

命の灯火を削って、燃え尽きる寸前の最後の煌めきを見せていただけだったのだ。


「嘘……嘘でしょ? だって、タルト食べるんでしょ? 美味しいって、笑ってくれるんでしょ?」


私はローズマリーさんを抱きしめたまま、呆然と呟いた。  


床に散らばったタルト。


黒く汚れた書類。  


そして、動かないご主人様。  


甘い日常は、前触れもなく粉々に砕け散った。


「カミーラさぁぁぁぁんッ!! 医者を!ご主人様がぁぁぁ!!」


私はローズマリーさんを横抱きにし、執務室を飛び出した。  


軽い。


悲しいほどに軽い身体。  


廊下を走りながら、私の胸に、ご主人様の高熱が伝染してくる。


「……守らせてよ、ご主人様……!」


目から涙が溢れ、ご主人様の蒼白な頬に落ちた。  


私は走る。  


ただ、この消えそうな命を繋ぎ止めるために。  


窓の外では、雷鳴が轟き、激しい雨が降り始めていた。

次回予告 昏睡状態に陥ったローズマリーさん。 診断は「魔力枯渇症」。「私が……私が守らなきゃ。ご主人様が目覚める場所を」 私は、ローズマリーさんの手を握りしめ、涙を拭って立ち上がる。

次回、「アシュトン家崩壊。借金、私が返します!」

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