第19話 「公爵家の裏帳簿。この国、もう詰んでませんか?」
【アシュトン公爵邸・執務室】
午後の柔らかな日差しが、重厚な執務室に差し込んでいる。
ローズマリーさんは公爵家の事務官代表として王宮での緊急会議に出席しており、不在だ。
私は鼻歌を歌いながら、ハタキを振るっていた。
「ふふ〜ん♪ ご主人様は会議〜♪ 私はお掃除〜♪」
昨夜の浴室での情事、そして今朝の優しいキス。
愛されているという実感は、私の足取りを羽根のように軽くしていた。
今の私にとって、この屋敷は世界で一番安全で、幸せな場所だった。
「よし、机の上もピカピカにするぞ! 帰ってきたら褒めてもらおうっと」
私はローズマリーさんが愛用しているマホガニーの机に向かった。
書類の山を整理し、引き出しの取っ手を拭こうとして――うっかり足を滑らせた。
ガツンッ!
膝が机の側面に強く当たる。
「いったぁ……! もう、ドジだなぁ私」
私が膝をさすっていると、微かな機械音が聞こえた。
ゴゴゴ……。
机の側面装飾の一部がスライドし、隠された引き出しが現れたのだ。
「えっ? 何これ、隠し扉?」
中に入っていたのは、一冊の黒い革表紙の手帳だった。
表紙には何も書かれていないが、禍々しいほどの「封印魔法」が施されているのが、魔術に疎い私でも分かった。
うわ、厳重……。
これ、触ったらビリッてなるやつだ。
だが、私の手には昨夜、ご主人様によって「所有の印」としてたっぷりと魔力が注ぎ込まれていた。
私が何気なく触れた瞬間、封印は、カチリと音を立てて解除されてしまった。
「あ、開いちゃった。……これ、ローズマリーさんの日記かな?」
『今日はアリアが可愛かった』とか書いてあったらどうしよう。
そんな甘い期待を抱いて、私はページをめくった。
しかし。
そこに書かれていたのは、愛の言葉などではなかった。
『×月×日 王立鉄道敷設費用、予算不足。カイル鉱山の権利書を売却し充当』
『×月×日 国境警備隊への給与遅配。母様の遺品であるブルーダイヤの首飾りを換金』
『×月×日 保守派による横領発覚。補填のため、アシュトン領の税収を三年分前借り』
ページをめくるたびに、赤いインクが増えていく。
まるで、手帳そのものが血を流しているようだった。
「……え? 何これ」
私は震える手で、最新のページを開いた。
そこには、現在の「王国」と「アシュトン家」の資産状況が記されていた。
【王国債務超過額:金貨 800,000,000枚】
【アシュトン家資産残高:枯渇寸前】
【国家破綻推定時期:残り180日】
私は数字に弱いが、その「桁」の異常さは理解できた。
八億枚。
私が一生かかっても稼げない額。
そして何より、「枯渇寸前」の文字。
「嘘……でしょ? だって、ローズマリーさんはいつも余裕で、高いお肉を食べさせてくれて……」
私の脳裏に、いつも完璧で、メイド服を纏ったご主人様の姿が浮かぶ。
だが、この帳簿が真実なら、彼女は身を削って、私や使用人、そしてこの国を養っていることになる。
ガチャリ。
廊下で玄関のドアが開く音がした。
ローズマリーさんが帰ってきたのだ。
私は慌てて手帳を閉じ、元の隠し引き出しに戻して押し込んだ。
◇
【夕食:ダイニングルーム】
その日の夕食は、仔羊のローストだった。
普段なら私の大好物だ。
だが、今日の私はナイフを持つ手が重かった。
「……どうしました、アリア。食が進まないようですね」
テーブルの向かい側で、ローズマリーさんが優雅にグラスを傾けた。
彼女はいつものように美しく、毅然としている。
その首元には、宝石のネックレスが輝いている。
……あれは、偽物なのだろうか。
本物はもう、売ってしまったのだろうか。
「ローズマリーさん……」
聞かなきゃ。
本当のことを。
無理をしていないか。
私が食べているこのお肉は、貴女の何を犠牲にしたものなのか。
「あの、私……」
「何です? お代わりですか? ふふ、相変わらず食いしん坊な可愛い犬ですね」
ローズマリーさんが微笑んだ。
それは、私が今まで見た中で一番、優しくて、そして「完璧」な笑顔だった。
一切の隙がない、ご主人様としての仮面。
私を守り、安心させるための、鉄壁の聖母の笑み。
「……い、いえ。何でもないです。……美味しいです、すごく」
聞けなかった。
その笑顔を見たら、喉の奥がつかえて、言葉が出なかった。
彼女が必死に守ろうとしている「わたしたちの平穏」を、私自身が壊すことが怖かったのだ。
◇
【深夜:主寝室】
夜の営みの後、寝室は静寂に包まれていた。
情事の熱が冷めやらぬベッドの中で、私は眠れずに天井を見上げていた。
隣では、ローズマリーさんが規則正しい寝息を立てている。
……聞けなかった………。
私が寝返りを打ち、彼女の顔を覗き込んだ時だった。
「……ぅ、……父様……」
ローズマリーさんの唇が、微かに動いた。
寝言だ。
「……無理です……計算が、合いません……」
眉間に深い皺が刻まれる。
シーツを握りしめる彼女の手は、白く変色するほど力が込められている。
「……誰か……助けて……」
「……ッ!」
私は息を呑んだ。
あの傲慢で、最強で、ドSなご主人様が。
夢の中で、子供のように泣いている。
「怖い……独りにしないで……」
その声は、昼間の帳簿の数字よりも雄弁に、真実を語っていた。
ご主人様は限界なのだ。
たった一人で、傾いた国の重さを支え、笑顔の仮面を貼り付けて、私の前では「完璧なご主人様」を演じ続けている。
ああ……そうか……。
疑惑は確信に変わった。
私は、震えるローズマリーさんの身体を、そっと抱きしめた。
起こさないように、でも、その悪夢から守るように。
「……ごめんなさい、ローズマリーさん」
私の目から涙がこぼれ、ローズマリーさんの頬を濡らした。
「私、気づかなかった。ご主人様がこんなに震えていたなんて」
いつも守られていると思っていた。
「ペット」として可愛がられ、養われていると思っていた。
でも、違った。
この人は、自分の命を削って、私の世界を守ってくれていたのだ。
「……大丈夫ですよ」
私は、ローズマリーさんの耳元で小さく、誓うように囁いた。
「計算が合わないなら、私が全部ぶっ壊します。敵も、借金も、運命も」
私の手が、ローズマリーさんの背中を優しく叩く。
そのリズムに合わせて、彼女の呼吸が次第に穏やかになっていく。
「おやすみなさい、ご主人様。……明日からは、私が貴女を守りますから」
私は決意した。
もう、ただの甘やかされる「犬」ではいられない。
この愛しい、不器用で孤独なご主人様と共に、地獄の底まで付き合おうと。
次回予告 アシュトン家と王国の危機的状況を知った私。 そんな中、学園に帝国からの留学生たちがやってくる。 その中心にいるのは、地味な眼鏡の女子生徒。 だが、私の野生の勘が警鐘を鳴らす。「こいつ、ヤバい匂いがする」
次回、「留学生襲来。帝国からのスパイは誰だ」




