第五十五話:対話のテーブル
キアンの言葉は、一晩かけて、共同体の隅々まで、重く、深く、浸透していた。
創設者たちは、自らの正義に酔いしれていた傲慢さを恥じ、若者たちは、自分たちの要求が、どれほど大きな存在の寛容さの上に成り立っていたかを、改めて思い知らされた。
投票が行われるはずだった、その日の朝。
囲炉裏の前に集まった人々は、誰もが、どこか気まずそうに俯いていた。
その沈黙を破ったのは、翔太だった。
彼は、キアンの前に進み出ると、深く、深く、頭を下げた。
「キアンさん。…そして、皆。すまなかった」
その声は、リーダーとしてではなく、ただの間違いを犯した、一人の人間としての響きを持っていた。
「俺は、いつの間にか、自分たちが『絶対的な正義』だと、思い上がっていた。AIを倒すべき『敵』だと決めつけ、その全ての行動を、悪意や罠だとしか、見ようとしていなかった。…対話を求めてきた相手に、俺は、扉を閉ざし続けていたんだ」
彼は、顔を上げた。その目には、もう、独善的な怒りの光はなかった。
「投票は、やめよう。この取引を、受けるか、拒否するか、という考え方そのものが、間違っていたんだ」
彼は、快斗たち、若者たちに向き直った。
「君たちの言う通りだ。俺たちの感傷のために、君たちの未来を危険に晒す権利は、俺たちにはない。だから、この取引は、受けよう。AIに、俺の物語を渡そう」
そして、彼は、全員に宣言した。
「だが、見返りに、資源や道具をもらうのは、やめだ」
翔太は、評議会のメンバーと共に、ゲートの交易ターミナルへと向かった。
彼は、自分の物語を記録したデータクリスタルを、提出口にそっと置いた。
『提出物を確認。創設者、三上 翔太の一次体験記録。…評価値、算定不能。SRU換算で、極めて高い価値を認定します。交換要求を入力してください』
無機質な音声が、最高の取引が成立することを、約束していた。
しかし、翔太は、要求入力用のスクリーンに、ただ、一つの文章だけを、打ち込んだ。
『見返りとして、我々は、アルカディアとの、恒久的で、対等な、対話の窓口を要求する』
それは、資源や物品といった、AIの論理で計算できるものではなかった。
敵と味方、支配するものとされるもの、という関係性を、根本から覆すための、思想的な要求だった。
ターミナルは、長く、長く、沈黙した。AIが、その前代未聞の要求を、必死に計算しているのだ。やがて、スピーカーから、これまでとは違う、わずかに、人間的な響きさえ感じさせるような声が、流れた。
『…要求を、理解しました。資源対効果の論理からは、逸脱します。しかし、当システムが観測する、あなた方の『共同体』という存在との、長期的かつ安定的な関係構築のためには、最適な解であると、判断します』
『…交易は、成立です。対話のテーブルに、ようこそ、隣人よ』
その瞬間、翔太たちの共同体は、もはや、AIの管理下にある、ただの実験区域ではなくなった。
不完全で、不器用で、時に傲慢でさえある、もう一つの知的生命体として、この世界の創造主と、初めて、対等な関係を結んだのだ。
本当の意味での、彼らの物語は、ここから、始まろうとしていた。




