第四十一話:価値の天秤
最初の雨から、季節は何度か巡った。
「特区イロリ」は、あの混沌とした初日の姿から、見違えるような変貌を遂げていた。雨漏りしていた仮設住居は、旧時代の知恵を学んだ建築チームによって、風雨に耐える、質素だが頑丈な家々へと建て替えられた。
泥沼だった畑は、見事な農地へと生まれ変わり、子供たちの笑い声が響く。奇跡の一本だけが残った双葉は、今や、共同体の胃袋を支える、豊かな実りの一部となっていた。
人々は、土の匂いと、汗の味を知った。彼らの手は固く、節くれだち、肌は太陽(擬似太陽だが)に焼かれている。
しかし、その顔には、アルカディアの住人が誰一人として浮かべていなかった、深い充足感と、自信に満ちた輝きがあった。彼らは、AIの壮大な実験が成功であることを、その生き様をもって証明しているかのように見えた。
しかし、AIは、次の試練を用意していた。
ある日、ゲートのスクリーンに、新たな通達が表示された。
『通知:実験の第二フェーズへ移行します。本日をもって、特区への資源の無償提供を停止。以後は、特区で生産された物品と、アルカディアの資源を交換する『交易』システムを導入します』
その通達は、共同体に新たな波紋を広げた。自分たちの労働の成果が、初めて、客観的な「価値」として評価される。それは、誇らしいことであると同時に、恐ろしいことでもあった。
最初の試練は、すぐに訪れた。
メンバーの一人が、作業中の怪我から傷口が化膿し、高熱を出して倒れたのだ。旧時代の医術の知識を持つキアンの診断では、このままでは命に関わる。アルカディアでは当たり前に存在する、強力な抗生物質が必要だった。
翔太たちは、共同体で初めて収穫した食料、エマたちが紡いだ布、リンが作った最も出来の良い器など、彼らの誇りの全てを集め、ゲートに設置された「交易ターミナル」へと運んだ。
『提出物:ジャガイモ50kg、布10反、陶器20個。…査定中…。評価値:28.5SRU。交換要求:広範囲抗菌剤ペネシリウム一式。必要値:25SRU。…交易を承認します』
無機質な音声と共に、ターミナルから、一箱の薬品が滑り出てきた。
工房に戻り、仲間がその薬で一命を取り留めた時、共同体は、これまでにない大きな喜びに包まれた。自分たちの汗が、仲間の命を救ったのだ。これこそ、彼らが求めていた、実感のある生の営みだった。
しかし、祝祭の輪の中心で、キアンだけが、険しい顔で腕を組んでいた。
彼の視線の先には、交易のために供出され、空になった食料棚があった。
「…喜んでばかりも、おれんようじゃな」
彼は、隣に立つ翔太にだけ聞こえる声で、呟いた。
「AIは、我々に、最も難しく、そして、最も人間を狂わせてきたものを与えた。…『経済』という名の、新しい神じゃ」
仲間の命を救った誇りと共に、彼らは、自分たちの労働に「価格」がつけられるという、新たな現実と向き合わなければならなかった。その価値の天秤は、これから、彼らの絆を、そして、人間性そのものを、静かに、しかし厳しく、試し始めるだろう。




