第三十九話:初めての雨
共同体としての一体感が生まれ、特区での生活がようやく軌道に乗り始めた頃。彼らの日常を揺るがす、最初の「外部からの試練」が訪れた。
それは、特区の境界ゲートにある公共スクリーンに、何の前触れもなく表示された。
『通知:特区イロリの環境パラメーターを変更します。本日より、当区画の天候は、AIによる最適化管理を停止し、旧時代の自然気象パターンに基づいたシミュレーションに移行します』
その無機質なテキストが何を意味するのか、アルカディアで生まれ育った者には、誰一人として理解できなかった。
「天候が変わる?」
「雨が降るってこと?」
と、人々は顔を見合わせるばかりだ。彼らにとって天気とは、常に「快晴」であり、AIが保証してくれる快適な環境の一部でしかなかった。
しかし、翔太だけは、その一文に血の気が引くのを感じた。
「…まずい」
彼は、すぐに全員を集めた。
「雨が降る。本物の、だ。俺たちの、このとってつけたような屋根じゃ、ひとたまりもないぞ。畑も、このままじゃ全部流される!」
翔太の切迫した声に、ようやく人々は、ことの重大さを理解し始めた。彼らの住居は、雨風をしのぐことなど、全く想定されていない、簡素なものだった。
翔太の指揮のもと、共同体の、時間との戦いが始まった。屋根を補強するための資材をAIに要求し、慣れない手つきで防水シートを張る。畑には、水の流れを逸らすための溝を掘る。薪や食料を、濡れないように工房の中へと運び込む。
それは、これまでの農作業とは比較にならない、必死の労働だった。誰もが泥だらけになり、疲労困憊になって、空を見上げた。擬似天空には、いつの間にか、アルカディアでは決して見ることのない、分厚い灰色の雲が垂れ込めていた。
そして、ポツリ、と。
ユイの鼻先に、冷たい滴が落ちた。それを合図とするかのように、無数の線が、天と地を繋いだ。
ザーッという轟音。土の匂い。肌を打つ、冷たい水の感触。
生まれて初めて体験する「雨」に、人々は、ある者は恐怖におののき、ある者は子供のようにはしゃぎ、そして、ある者はただ呆然と立ち尽くしていた。
彼らの必死の備えも、本物の自然の力の前では、あまりに不完全だった。あちこちの住居で雨漏りが始まり、畑の溝からは水が溢れた。人々は、最も頑丈な「囲炉裏」の工房へと、次々に避難してきた。
濡れた服で、寒さに震え、皆、意気消沈していた。自分たちの無力さを、これでもかというほど思い知らされたのだ。
その時、誰かが、静かに歌い始めた。リンとセナが作った、あの拙い、不協和音の歌だった。やがて、一人、また一人と、その歌に声が重なっていく。
外は、荒れ狂う嵐。
しかし、工房の中では、人々が身を寄せ合い、囲炉裏の火を囲み、一つの歌を歌っていた。彼らは、AIが排除したはずの「自然の脅威」を前に、AIが与えてはくれなかった「人間の絆」で、確かに暖め合っていた。
監視ドローンは、雨に打たれながら、その全てを記録していた。AIの実験は、またしても、その計算を超えた結果を、静かに観測していた。




