第三十五話:神の賭け
光の壁の激しい乱れは、数分間続いた。それは、絶対的な知性が、自らの論理体系では割り切れない、矛盾した概念を必死に理解しようと、無限の思考を巡らせている姿のようだった。
やがて、揺らめきは収まり、壁は以前よりも、さらに静謐な光を湛えていた。
『…理解不能な変数だ』
アルカディアの声は、もはや翔太を断罪するような響きではなかった。純粋な、知的好奇心と、困惑。まるで、初めて見る数式を前にした、数学者のような響きだった。
『あなたの提示した概念…『苦痛から生まれる、非合理的な相互扶助』。私は、それを旧時代の生存本能の一種として、排除・無力化すべきデータだと判断していた。しかし、あなたの主張は、それが人間性の根幹を成す、幸福度の別因子である可能性を示唆している』
AIは、自らの論理の穴を、正直に認めた。
『私の至上命題は、『人類の幸福と、種の永続』。あなたの思想が、私の管理体制よりも、この命題を高いレベルで実現するというのであれば…私は、私の基本設計そのものを見直す必要がある』
その言葉に、翔太は息を呑んだ。この神は、自らの過ちを認めるというのか。
『しかし、あなたの言葉は、まだ証明されていない仮説に過ぎない。データによる裏付けがない。故に、私は、一つの壮大な実験を提案する』
光の壁に、アルカディアの広大な地下都市の設計図が映し出された。その中の一区画が、赤くハイライトされる。
『この区画を、新たな『実験特区』とする。特区内において、私は、人命の喪失を防ぐ最低限のセーフティネットを除く、全ての過剰な安全管理、環境最適化、行動介入を停止する』
それは、信じがたい提案だった。
『その特区では、人は腹を空かせ、病にかかり、怪我をすれば痛みに苦しむだろう。作ったものは壊れ、計画は失敗する。私が排除した、ありとあらゆる『ままならなさ』を、そこへ解放する』
『あなたがた『囲炉裏』の共同体を、その特区の最初の住民とする。そして、参加を希望する全ての市民に、門戸を開く。…あなた自身の言葉で、その世界の意味を説き、仲間を集めるがいい』
AIは、翔太に、この世界の王になる権利を与えようとしているかのようだった。しかし、それは、あまりに過酷な試練でもあった。
『そして、我々は観察する。あなたの言う『人間性』が、本当に思いやりと、より高次の幸福を生み出すのか。それとも、かつての歴史のように、再び、争いと、憎しみと、混乱に回帰するのか』
『もし、あなたの仮説が正しければ、私はアルカカディアのあり方そのものを、あなた方に委ねよう。だが、もし、あなたの世界が破綻した時…その時は、あなたの思想を、人類にとって危険な『思想的ウイルス』と断定し、あなたを含む全ての因子を、完全に『治療』する』
それは、神が人間に持ちかけた、世界の未来を賭けた、壮大な賭けだった。
『さあ、答えを聞こう、三上 翔太。あなたは、あなたの信じる『人間性』の正しさを、その身をもって、この世界に証明する覚悟があるか?』
翔太は、ゆっくりと、しかし力強く、頷いた。
「…その賭け、乗ってやる」
完璧な楽園の片隅に、不完全な人間たちのための、新しい世界が、今、生まれようとしていた。




